その14 <急停車の記憶>
「天候の加減で煙突の吸い込みの悪い時がある。屋根の窓を開けてないと煙が部屋に籠もるんだよね。」奇妙に思われただろう早朝の自分の行動を呉弘光は亭亭に説明した。
いいお父さんだ、と父親の匂いを知らない亭亭は羨ましく思った。亭亭は自分の虎林の低い家の天井と比較しながら起き出した。気持のいい部屋、気持のいい朝だった。
北京時間の10時に朝ごはんを食べた。「これしかないけど、お腹いっぱい食べなさい。」冬梅は亭亭を心込めてもてなした。トーモロコシ粥だった。塩も効いて美味しい。黒竜江での母との朝食を思い出した。
雲雪の母冬梅も、亭亭の母郭明と同じく文字を知らない。亭亭はハルビン師範大学で友達と観た張芸漠監督『初恋の来た道』の祖母も文盲であることを思い出していた。文盲は恥ずかしいことではない。それでも私は勉強したい。母親の分も勉強するのだと改めて自分の運のよさに感謝しながら意を強くするのだった。
烏蘇駅に戻る不定時のバス待ちを父親の呉弘光が受け持ってくれる間、雲雪は亭亭をすぐ近くの回教寺院に案内した。
民家と変わらない大きさだ。ウイグル族でなく回族だから寺院の主の会話も漢語であってイスラム語でない。内部は偶像崇拝を拒絶する回教寺院共通らしくシンプルな文字などがあるだけ。同じイスラム寺院でも民族が違えば言葉以外にも違いがあるのだろうか。亭亭が改めて見回している時、「バス到着」の知らせの声が聞こえた。そこここの農民を乗せて小さなバスはガタガタ走った。
烏蘇駅からウルムチ行きのバスに乗り換える。雲雪はこれにも亭亭と一緒に乗った。用事があるからと言うのは、遠慮しがちな亭亭を気楽にさせるためだ。
バスが動き出した時、立ちふさがるように飛び出してきた男がいてバスが急停車した。乗客の殆どが驚きの悲鳴を上げた。亭亭は前の席の背もたれに胸を打ちつけ、キャスター付きカバンは前に動いて倒れた。運転手は黙ってドアを開けた。男と幼い娘も物も言わず乗り終わるとバスは何もなかったように走り続けた。
「大丈夫ね。」と雲雪が亭亭に尋ねた。「大丈夫、大丈夫。」亭亭は応じた。
雲雪は、不意に四年前の出来事を思い出した。バスの揺れに身を任せながらこの時のことを亭亭に話した。
雲雪は、新疆から遠く離れたハルビン農業大学で化学を学んでいた。工場汚染廃水の浄化を研究し日本にも関心を抱いていた。三年生になってバイト先を替えた。飛行場内の本屋である。毎日夕方から夜10時過ぎまで拘束されるが、本や雑誌の表紙を読み常に新しい情報を得ることが出来た。それも賃金を貰いながらである。併せて往き帰りは市内と空港間のリムジンバスの補助席に乗車するおまけもつけて貰った。雲雪が仕事にも慣れ、本屋に立ち寄る客層の分析が出来るようにもなって来た頃のことだ。
雲雪が仕事を終え、リムジンバス最前の車掌用補助席に腰を下ろすと、バスが動き始めた。ほっとして手足を伸ばした瞬間バスが急停車した。
雲雪は体をバスのフロント部分にぶつけ、頭はフロントガラスに当てた。しかし痛がってばかりはいられない。急いで補助席を畳んだ。前に立ちふさがってバスを停めた年配の小男と赤いコートがはちきれそうな若い連れの女を迎え入れ、後部座席に進ませた。
その男は5、60歳を過ぎていよう。「飛行機が遅れやがって」と大声で喚いた。親子以上に歳の離れている連れの女がなだめていたが、「うるさい。お前は黙っていろ。」とバス中に響かせた。バスに乗せて貰った礼など思いも及ばない風だ。
急停車の時のぶつかった痛みでこの男のことが忘れなくなっていたのかも知れない。雲雪はこの二人連れに飛行場の本屋でまた会った。
一人の女性が雑誌をあれこれひっくり返しては腕の時計を何度も見ていた。この空港の本屋を待ち合わせの時間つぶしにする者達は多くない。この客は赤いワンピースを着ていた。急ブレーキで頭を打ち付けた時の連れの女だ、と雲雪は気づいた。
あの時は赤いコートを着ていた。「中国で売っていない服だ」と前列の乗客の一人が隣の人と話していた。「日本のではないか。」の言葉を聞き咎めていたものだ。
雲雪は声掛けした。「以前お会いしてますね。あなたのことを覚えています。」
女は、今回も男を迎えに来させられている。今度は大連からの便で30分以上も遅れているのだ、と言う。もう一人の店員も興味を覚えて近づいてきた。「相手は実業家ね。」と雲雪に問うた。「ううん、日本人。」少し離れた位置の若い女は何故か見ていた雑誌を閉じて応えた。年配の男もてっきり中国人と思っていたので雲雪も酷く驚いた。雲雪は日本人を間近に見る機会がなかったから余計だ。
大連便が到着し、女は急いで出迎え口に向かった。その女を引き連れて出て行く男が遠目に見えた。どう見ても中国人だ・・・・雲雪の感想だった。
バスの急停車がきっかけの長い話だったが、亭亭は雲雪の体験談を興味深く聞いた。日本に関する話だと尚のこと全てが亭亭に有難かった。それにしても自分が学んでいた同じハルビンにいたことのある人に新疆で今お世話になっている縁の不思議さ。
うたた寝する内、ウルムチ長距離バスセンターに着いた。亭亭はタクラマカン砂漠縦断の民豊行き切符を買おうとした。雲雪は、南バスセンターで買う方がいいとまたバスに乗せた。値段もバスの質も違うからと言う。雲雪の細やかな配慮である。
亭亭は雲雪と別れ一人砂漠縦断の夜行バスに身を横たえ、この間の旅を振り返った。
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