その10<丹東に> 結局郭明は東邦大学の掃除を請け負っている正興株式会社に雇われることになった。入国管理局に対しては、伊丹は大学側としての推薦書を出していた。伊丹が東邦大学理事長夫君である事実がものを言った。伊丹のこれまでの大学運営の実績よりも、現在の位置を問題にする官僚の判断の仕方に違和感を感じなかった訳ではない。しかし、なにはともあれ郭明・亭亭親子が日本に来られることは素直に喜べることだった。
そこで伊丹は、亭亭が日本に向かう前に、して欲しい一つの課題を課した。
伊丹は、外国語を学ぶ時、その国の事情と自国の事情を対比しようとする学生でなければいけないと考えている。「退院記念として、日本に来る前に内陸部の中国を見て来なさい」、と亭亭に2万円(1300元弱)を渡した。亭亭にしてみたら大金である。
亭亭が旅をしている間、郭明はそのまま丹東の街のゴミ掃除の仕事を続けて亭亭を待ちながら日本行きの覚悟を固めることになった。
この丹東に、韓国からの航空便が就航するようになった。丹東は、鴨緑江を挟んで朝鮮の新義州と隣り合わせに生きている市である。それが新たに韓国との交流を表明した。空港も丹東国際空港と名付けられている。
ソウルからの第一便歓迎の様子はテレビでも大々的に何度も放映された。
大連で貿易商を営む高田陽子の娘夫婦は丹東飛行場に母の高田を迎えることにした。
高田は年齢を考え中国の黄山を引き払った。そして、日本に帰る前に一度丹東を訪問したいと思っていた。韓国からの第一便の飛行機が着く場面がテレビで放映されたとき、気になる人を見つけていたからだ。飛行場の二階にある食堂の経営者である。見覚えがあった。
高田は、好奇心と、人の顔を覚えることと、気配りとで、中国での半世紀に及ぶ仕事を続けることが出来たのだ。と言って、今後とも仕事を続ける気持はない。もう年齢が許さない。それでもどこかで事実を確かめたい気持が動く。ただ結果的に言えば、娘夫婦の都合で、丹東行きの楽しみは次の機会まで先送りすることになった。
高田は、丹東行きを諦めて福岡行き便に乗った。福岡を日本に戻る際の最初の場所として選んだのは、青春時代まで過した福岡の街をこの歳になった目で見たいからだったし、福岡訪問を促した加藤紅にもう一度会うのも魅力的だったからだ。
高田は紅や松野と別れた後、福岡から横浜の家に戻った。中国の友人が来日すると杖を付きながらだが、喜んで迎え案内役を引き受けた。時に長女の住む東京にも出かけていた。
暫くして、丹東で交易会が開かれると聞いた。朝鮮に対するアメリカの「テロ支援国家」の規制外しを前に、その後予測される経済競争は既に始まっていた。韓国と北朝鮮間の貨物列車さえ走り出している。ヨーロッパ各国からの事業主が朝鮮に直接入って仕事の可能性を探していた。平壌に向かう飛行機内も一気に外国人乗客が増えた。
高田は、空港二階で仕事をしている男に会うことが目的だった。それにまさかとは思う気持だが、確かめたい人物はもう一人いた。これまた韓国旅行団歓迎式典の画面の端っこに一瞬写った従業員の姿を見ていたのだ。
二十年以上も前になる。高田夫妻は、間伐材を活用した箸製造を内蒙古自治区のモーアルダオガでするように勧められたことがある。交渉の相手はそこの林業試験場の共産党副書記羅王だった。遼寧省出身だと言う彼だが、日本語は出来ない。だから英語や中国語で語らっていた。人のいい副書記は日本に興味を持っていた分、協力的だった。どうしても日本語でなければならない時に若い女性が通訳をした。美玲と呼ばれていたので高田たちも「メイリン」と呼んで可愛がっていたものだ。
商売はうまくいきそうだったが、結果的には失敗した。日本の料亭の希望する箸の質と量を確保できなくなったからだ。原因は幾つか考えられたが、日本側の要望が現地側に理解されなかったことに尽きた。何度かの手直し注文で一時的には良くなった。ところが量産体制になる中で質が劣ってきた。箸に対する感覚が違い過ぎたのだ。
三年で工場を閉鎖した。副書記の羅王は要望に応えられなかった会社の従業員に代わって何度も詫びながら、事業の継続を希望した。しかし、個人的な人の良さだけでは、高田夫妻の撤退を覆すことは出来なかった。羅王は別れる時に、いつか日本に行きたいとの気持も伝えた。
この間、美玲は結婚し母親にもなっていた。だが、可愛らしさは初対面の時と同じだと高田たちは思っていた。その当時モーアルダオガに一緒にいた陽子の夫は十年前にこの世の人では亡くなっている。
高田陽子はこの二人の姿をそれぞれ同じ歓迎のテレビ番組の中で観たと思ったのだ。
高田の好奇心は年老いても衰えていなかった。彼らは何故丹東にいるのだろう。羅王と美玲の関係はどうなっているのだろう。赤ちゃんだった美玲の男の子はどうしているか。色々気になった。兎に角会いたい気持がつのっていた。だから娘夫婦が交易会に行くと知らせてきた時、自分も丹東まで赴くことにしたのだ。
飛行場に着いて早速羅王を訪ねた。羅王は事前に高田の娘婿からの連絡を受けていたこともあり、全ての仕事をキャンセルして高田を迎えた。それぞれが懐かしさで泣きそうだった。羅王は、副書記を辞任し親との同居を選んだ。故郷の空港整備の会社を設立し、そのまま空港ビル一画の管理責任者を務めた。小さなビルである。一段落後は日常的業務として好きな食堂経営に従事し、のんびりしていた。
羅王は問われるまま自分のこれまでを簡単に述べた。持ち前の人の好さを体中で表わしていた。工場閉鎖に追い込んだことに対し改めての詫びを入れ、高田夫妻の状況を聞きたがった。高田陽子もまた簡単に夫と死別した前後を述べた。
それぞれの二十年余の人生は互いに驚かせた。
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