その8 蘇州の理由 また、母とのことが思い出された。これが寒山寺行きを一層促す事情であった。
「お前は日本に行かないでいいのか」突然母の郭明が尋ねた。実習も終えた四年生の国慶節休みの時だった。ハルビン師範大学は夏休みが短い分、国慶節休みは長い。夏休みはバイトをして帰らなかったので久し振りの帰省だった。
「留学は後でいい。留学でなく仕事で日本に行きたい。」亭亭は続けた。 「でも大学院に行きたい。」 「大学院?中国の?どこの?」 「吉林大学ならそれ程遠くないし」亭亭は応えた。
「駄目。」郭明がはっきり否定した。
亭亭は驚いた。今まで一度も反対などしなかった母親の口から出てきたのだ。どうしてなのだろう。
沈黙を破ったのは郭明だった。「大学院なら東呉大学に行け。」思いもよらない母の意見である。
東呉大学は今の蘇州大学だ。蘇州は嫌いではない。卒論だって『森鴎外論 特に「寒山拾得」を中心に』することをほぼ決めた後の話だ。国清寺のあるセッ江省天台山と寒山寺のある江蘇省蘇州を嫌う訳がない。
それにしても、母親はなぜ蘇州大学だけ、と言うのだろう。何も知らないはずだ。どこにも行ったこともない母親だ。 自分が働くようになったら、せめて漠河北極村の夏至のオーロラ見物など、一緒にしたいと思っている亭亭である。
二人それぞれに考えることがあった。沈黙が続いた。
亭亭が口を開いた。「東呉大学は今蘇州大学と名前を変えたけど、その蘇州は好きよ。でも遠い。北京より遠いのよ。そこからまた1400qもある。」 「私は大学院に行ったらもっとアルバイトする。お金が要らないように頑張る。でもね、蘇州は遠すぎない? お母さんはどうして蘇州大学、いや東呉大学を知っているの?」
また沈黙の時間になった。
「あの人の夢だったんだ。」 「あの人。あの人って誰? まさか? お父さんのこと?」
自分を「お母さん」と呼ばせながら、いつも「父ちゃん」と呼んでいた父親のことを今「あの人」と呼んでいる。
何故だ。あの人と呼ぶのは。亭亭は訝った。そもそもお父ちゃんの話など聞いたこともない。いくら聞いても、「父ちゃんは馬鹿だった。炭鉱で死んでしまった」とだけしか教えて来なかった母親だった。亭亭は、ここでも驚いた。
「あの人は、東呉大学の大学院に進みたかった、と時々言っていた。」郭明の目に涙が滲んできた。母親の涙なんて見たことのない亭亭だった。 「あの人は東呉大学の学生だった。1966年のことだ。でも卒業していない。後で知った。自分で中退したんだ。馬鹿だよ。」
「文化大革命のためにあの人は馬鹿になった。その文化大革命のおかげであの人は私なんかと結婚したんだ。」
父、李文賢の輪郭が見え出した。亭亭は、突然の40年も前の話が出てきて、驚いた。それも「文化大革命」とは。教科書の中のその5文字で、目の前が大きくふさがれていくのを感じた。
亭亭は、記憶の糸を手繰るようにポツポツ語り始めた母親の説明を、次のように理解していった。 李文賢は比較的裕福な家庭に育った。文賢の父親は、独身の頃上海辺で仕事していたと言う。蘇州だったのかも知れない。そうでないかも知れない。結婚する時期に故郷の牡丹江に戻って来ていた。その父親の勧めもあって、文賢は故郷から遠い今の蘇州大学を選んでいた。
そして大学の二年生の時だ。文化大革命が始まった。
「何にでも疑問を持つ、権威の存在を疑うこと」。この考えに文賢も賛同し、紅衛兵運動に参加していた。運動の趣旨は論理的だったはずだ。が、あっと言う間に性格を変えていった。
権威の象徴は毛沢東であるはずだろうに、と文賢は思うこともあった。しかし、手近の権威者を疑うこととなった。そして大学の党書記だった呉宏石に矛先が向けられた。
李文賢は、この書記の風貌が好きだった。諄々に語る内容に励まされた気もしていた。東呉大学を愛し、蘇州の歴史を愛し、今の街を愛しているのが、遠くから来ている自分にもよく理解できた。しかし、そんな個人的感傷は吹き飛ばされた。よその学校からも若者が大勢来ていた。それを誰も咎めなかった。
そして蛮行が始まった。あっと言う間の出来事というのはこんな場合に相応しい。書記は亡くなった。殺されたのだ。李文賢は恥じた。自分が直接手を下したわけではない。でもその場にいたことの罪の呵責に耐えられなかった。
李文賢自身までが批判されるようにもなった。親が金持ちだったからだ。貧乏人でないことは罪なのか。文賢には、人を死なすこと以上に罪なものがあるのか、と応えることもあった。黒五類、紅五類といったところで、子どもに何の責任もない。何の取り柄がある訳でもなかろう。しかし、文賢は屈服し、「自己批判」した。
下放が提起されていた。その考えに従った。一番遠い所に行こうと考えた。呉書記から離れたかった。蘇州から離れたかった。 文賢は列車時刻表や地図を見るのが好きだった。北方向の列車の終点を目指した。余り有名でない場所の方が似合うと思った。内蒙古の満帰かモーアルダオガ、そうでなければ黒龍江省の前進か虎頭などがいいなと考えた。しかし行き先を自分で決めるなどできない。
文賢の気持ちを知っていた係員が、文賢自身の故郷にも近い東方紅を勧めた。毛沢東にも疑問を抱き始めていた文賢には、皮肉な名前の場所だった。ここはある将軍が開拓したと言う。その記念碑もあるらしい。が、文賢はもちろん知らないことだった。 そこには労働だけが待っていた。その苦痛な環境の中だったからこそ、文賢は生きる意欲を失わないでおれた。勉強することも罪だった。文賢は学問を遠ざけて生きた。
後で分かったことだが、虎頭には既に列車は走っていなかった。中ソ紛争が起き、ソ連は技術者を引き上げる時にソ連につないでいた列車の線路も破壊して出て行った、とそこから来ていた男に聞いた。1960年の頃らしい。文賢の見ていた地図はそれ以前のものだったようだ。
虎林からは、90度左折して東方紅に線路が延びている。虎林から直線上にある虎頭には今に至るも列車は走っていない。亭亭もよく知っている事実だ。
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