その5 郭明の期待
亭亭は、紅が用を足している間に、無事に着いたことを母親に電話した。「分かった」と言って母親はすぐに電話を切った。いつもと変わらない。
亭亭はそんな母親のことを思った。母親の名前は郭明と言う。生まれた時、郭明の両親は貧しかった。学校に行く年齢の前から、口減らしのため他人の家に出されていた。学校には一度も行っていない。文盲である。それでも記憶力がいいのだろう。何でも覚えている、と亭亭はよく感心した。正確に言えば父に関すること以外、何でも覚えている感じだった。
虎林市虎頭の貧しい家から母親は娘を遠くの学校に送り出した。
娘が大学に行きたいと漏らした時、郭明は来たなと思った。
しかし、この問いは郭明の中で何度も繰り返し問うていたことだ。郭明にははっきりした答えがあった。「大学は頭のいい子が行く所だ。亭亭は誰よりもよくできるのだから、行くのは当然だ。」
「ただし」とこれまたいつも付け加えて答えにしていた。「行くなら有名な大学だけ」だった。
周囲の者たちは、極貧の郭明が娘に学校に行かせるのを驚いた。馬鹿にする者もいた。
郭明の学校観、学問観は、娘の亭亭にもよく判っていなかった。文字の読めない女に学問も何もなかろうものだ。
しかし何と謗られようと、郭明の心は揺るがなかった。「子どもは大学に行かせる」。
亭亭を生んで程なく父親は落盤事故で死んでしまった、と母親は娘に伝えた。父親が死んだ時、郭明は何日も泣き明かした。でもどうしようもなかった、と言う。
郭明は、急死した夫の友人の世話で、七台河から虎林にまで引っ越してきた。昔、夫が虎頭の話をしたのを思い出していた。夫の言葉に導かれて今の住所に落ち着いた感じでもある。
そして一人で亭亭を育ててきた。
仕事することに自信はあった。物心ついた時からずっと仕事だけに生きる生活だったからだ。
郭明は仕事しながら亭亭を育てた。
郭明は亭亭が赤ん坊の頃から語りかけていた。ものの言えるようになることを待てない感じで、背中の赤ん坊に語っていた。
「あれは何ですか?」「あれは空です」を繰り返していた。気づいた者は、郭明は気が触れていると思った。
郭明は、娘に詫びとも取れる独り言もよく吐いた。「父ちゃんが死んで暫く、あたしは何にもする気が起きなかった。お前にお粥をすすらせるのが足りなかった。あの時もうちっと沢山飲ませていたら、お前はもっと賢い子になれていたのに。」口の中でしか聞き取れない「ごめんね」と呟いてはその場の愚痴を終わらせるのも、いつも同じだった。
亭亭は母の「ごめんね」の言葉は好きでない。でも「何ですか?」「何々です」の母の節回しは好きだ。子守唄だった。自分で母の口調を真似ては、自分を慰め、励ましにしてきた。
「これは何ですか?」「これはお母さんです。」この掛け合いは何百篇繰り返したか知れない。
郭明は亭亭を負ぶったまま畑仕事もした。文句言う者は誰もいない。
家から畑までは遠かった。母の背中に汗が流れることも多かった。その汗の母の背中も好きだった。
郭明はお金になると分かれば、どんな仕事もこなした。僅かな収入の中から僅かずつ貯めて、学校行きの準備をして来た。
学校に行かせたい。学校に行けば何とかなる。今の状態から抜け出るただ一つの道であることを信じているように見えた。
しかしこれが本質を突いている、と亭亭は後になって気づいた。
亭亭は、母親が文盲であることを隠さなかった。公言できるのは、母親のこうした感覚と、それに基づく行動力にいつも感心していたからだった。
他人から馬鹿にされ見下げられて生きて来た母である。でも亭亭は、母を馬鹿にしている者たちにこそ、自慢したい母親だった。小学校に行って、友達の話を聞いてても、母ほどの女性に巡り合うことはなかった。
郭明は、娘の亭亭が望めば、高校でも大学でも、それどころか日本でもどこでも認める積りはあった。中国内の大学であれば、小銭を必死に貯める。奨学資金の可能性がある所には何度でも足を運ぶ。しかしそれ以上のお金はない。
外国への留学は、これまで聞きつけた記憶を重ねると、大変だと言うことは分かっていた。しかし、それでもまた、不可能ではないことをも知っていた。
行くとなったら、娘のために頭を下げたくない遠くの親類縁者、近くの見知った人全員に腰を曲げて借りる覚悟も出来ている。
二年後には必ず利子をつけて返す。貸した人に損などさせない。世話になった人に不利になることはしない。
これで生きてきたのだ。母親として、娘は賢い子にする、しかもどんな仕事にも耐えられる体にする。この二つが自分の出来ることと思って育てて来た。私ら親子が人様に損などさせるわけがない。郭明の考えだった。
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