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作品名:『蒼の揺曳』 作者:あるが  まま

第4回   4 出会い 
「着いた」。男は今度もぶっきら棒だ。

亭亭は、言われたものの、これからどう行けばいいのか見当がつかなかった。重いバッグを持ち歩いて人目にさらすのは嫌だとも思った。

「中まで入ってよ。」男は不満げだ。でも仕方なしに車をゆっくり進めた。守衛はちらりと見たが何も言わなかった。

図書館とある横を過ぎ、100メートルも行かないうちに、大きな荷物を持った数人の姿が目に付いた。助かったと亭亭は思った。全体の印象で中国人ではないようだ。日本人か韓国人だろう。どちらでもよかった。仲間に出会えた感じだ。

「そこでいいわ。」 亭亭は、首から提げた小さなバッグから20元を捜した。クシャクシャのまま渡してタクシーを降り、荷物を抱えた。男も手伝った。またこの若者と会ってもいいなと思った。が、さすがに口には出さなかった。

タクシーは軋ませながら門の外に飛び出て行った。車のナンバーを覚える暇もなかった。
「20**年8月28日。蘇州大学日本語学部第一期大学院生、李亭亭の蘇州生活は始まった」、と、亭亭はつぶやいた。決意を込めたのだ。

ここ江南の名所、蘇州。『三国志演義』でも「東呉」と呼ばれていたこの地域が、自分の街になる。亭亭は大きく息を吸った。
亭亭は、小さな群れに近づいた。

Tシャツの女性が顔を上げた。「ここは、外国人留学生のための、事務所。中国人は別の所。」たどたどしい中国語を亭亭は聞いた。

そんな気がしないでもなかった。でも今更どこに行けばいいのか。亭亭はまたしても途方に暮れた。

日陰の場所は建物の中にしかない。重たい荷物を引きずりながら中へ入った。

狭い廊下に何人かの留学生と思しき者の姿があった。荷物は入り口に置いたまま廊下の外れまで進んで腰を下ろした。暫く何もしたくない。日本語が聞こえていた。聞くともなく亭亭は丸くなって少しうたた寝をした。

目を開けた。何分眠っていたのだろう。心配気な顔が、廊下の向かい側に見えた。小さめの顔がこちらを見ている。いかにも日本人女性らしい女性だ、と感じながら亭亭は目で挨拶した。相手も思わず笑みをもらした。

加藤紅は、蘇州大学中文学部に入学してきた。日本人留学生が中文学部に入るのは珍しい。中国語が出来ると言っても中国人に伍して勉強できる者はそんなにいるものではない。

しかし、紅は違った。南京師範大学の日本人留学生の中で群を抜いていた。だから、日本人と一緒の授業を受けるのはもったいない、と教員も認めていた。

気分一新の気持も込めて、蘇州大学を選んだ。

南京の町は気に入っていた。でも今度は誰も知る人のいない場所で生活を始めたかった。万一の時は南京時代の友達が助けに来てくれるかも知れない、勝手にそう思っていた。好位置を選べたことに紅は一人満足していた。人に頼る気持はないのだが、保険みたいな気持も重なって蘇州を選んだのだ。

紅の祖父の泰造は、メロディーの雰囲気が異なる『蘇州夜曲』と『麦と兵隊』をよく歌っていた。日本人の年寄りが好きな歌だ、と言う。青春時代の全てがこの二つの歌に
凝縮されているとも言う。祖父の真意もやがて分かってくるかも知れない。

祖父の妹艶子は、東北地方に行ってくれるといいのだが、と蘇州行きは好まなかった。艶子は中国帰国者人間性回復運動で頑張っていた。

それぞれに過去が関わり、今の生き方に影響を与えているらしかった。でもそれ以上の賛成反対意見があるわけではなかった。

紅の目の先に、ぐったり座り込んでしまった小柄な若い中国人女性は、不思議な存在に見えた。一度ちらりと目を合わせはしたものの、いつの間にかうたた寝していた。小さく丸まっている格好は、自分のより一回り大きな旅行鞄の中にすっぽり納まっている姿をも連想させた。可笑しかった。外国人の中に紛れ込んで来た中国人女はやはり変だとも思った。

自分の番が来、手続きを終えて元の場所に戻って来た。中国人女はまだ眠っている。よほど疲れているのだろう。寝顔を見ていると、少し気持が変わってきた。

南京のバイト先で暫くの間一緒だった一貞にどこか似ている。紅は思った。

この子の家も貧しいに違いない。着ている物の全てが、質素だと言うだけではない。金持ちにあって貧乏人にないのは、おおらかさだ、と紅は思っている。自分もそれがない。ないからこそ必死に勉強してきた。いや勉強してこれた気がしている。自分と同種の匂いを目の前の中国人に感じた。

その時、不意に目の前の女学生は目を開けた。そして二人の目が合った。目と目の挨拶を今度は丁寧に交わした。

紅たち留学生の部屋は一人部屋だ。周りの住人はまだ来ていないらしい。大抵の者は9月に入ってから来るものだ、と事務室の受付係は応えていた。

紅は、初めての夜なのに、大胆にも亭亭を自分の部屋に誘った。亭亭に興味を持ったからだ。亭亭はどこでもよかった。早く休みたかった。外国人の部屋で休むなどは、後にも先にもこれ一回だけかも知れない。亭亭は日本人の招待を受け入れた。大学院生の寮は明日探そう。もう今日はいい。亭亭は決めた。二人とも大きな荷物を抱えた。タクシーで10元の距離に留学生宿舎はあると言う。「東呉飯店5号楼」だと紅は貰った用紙を見ながら呟いた。

何であれ行き先がはっきりしている。亭亭も元気が出てきた。


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