その23 深い海
埒明かなく会社で別れた美玲は、息子の部屋で待つことにした。近くの市場で買物もした。仕事が終わって帰ってくる息子のために、久し振りの晩御飯を作った。
夜遅く戻って来た息子と誕生日を祝う晩御飯を食べた。ビールも少し飲んだ。息子が大きくなるまでの懐かしい出来事の幾つかを思い出した。
しかし、そこまでで美玲の気持ちはそれ以上続かない。
昔していたように、吉郎が食器を洗う間、後片付けをし、明日の準備もした。 お茶を注ぎながら美玲は、また尋ねた。
「何があったの。何かあったのでしょう。」 「私たちは、正直に生きてきたでしょう。ねえ、本当のことを言いなさい。言って頂戴。」美玲は何度も吉郎を揺さぶった。 沈黙が続いたままだった。
まどろみながら朝を迎えた。美玲は会社を休ませたかった。が、吉郎はどうしても営業の仕事が入っていると言う。嘘ではなさそうだった。 帰りを待った。
昼過ぎ、「休みを貰った」と吉郎は戻って来た。
ご飯を食べている間は差しさわりのない話をした。 そしてそのまま、美玲は、自分の小さい頃からの思い出を語った。 日本語学習の面白さ、莫アル道ガに行った時、結婚して吉郎が生まれた日の朝の喜び、なども触れた。もう一人の自分に言い聞かせているようでもあった。 これまでは「めでたい人」と言う意味だと教えていた「吉郎」の名前にも、色々な思いが籠っていることにも少し触れた。
吉郎はただ、黙って聞いた。何の反応も示さないように美例には映った。
話すことが途切れて、また美玲の哀願が少し続いた。
二日目の明け方がやって来ようとした。
美玲は万策尽きたことを悟った。自分の存在が疎ましくもなってきた。 「私はね、お前に本当のことを言って貰えなくなってしまった私はね、生きている希望もなくなった。」不意に言葉が発せられた。 吉郎の肩が動いた。
「私は一度人を殺そうと思ったことはあった。それほどでなくても辛いことは数数え切れない位あった。けどね、自分で死にたいとか思ったことは一度もない。それはお前も知っているでしょう。生き抜いて頑張んなさい、と私はお前が苦しそうになった時でも、それを言い続けていたのだから。」
「でもね、私は死にたい。今本当に死にたい。」 吉郎の体がまた動いた。
美玲は、自分が自分から解放されることを願っているようにもなった。
「お前に殺して欲しいよ。お前に殺されたら本望だ。」美玲は少し微笑んだ。 吉郎は、呻いた。
一呼吸置いて、吉郎は吐いた。「お母さん許して。僕が亭亭を殺した。」
美玲は、「ああっ」とうっつぷした。二晩黙り続けていた息子から出た初めての言葉がこれだった。
矢張りだったのだ。息子は大変なことをしでかしていたのだ。それも、人殺しをしていたのだ。
もはや逃げることは出来ない。 どうしたらいいか。美玲は思い惑った。頭の隅で想像したことが事実だったのだ。
自首するしかない。
美玲は決断するとすぐに行動した。
「自首しなさい。お母さんも一緒に行く。」
吉郎も、何か心が晴れるのを感じた。「お母さん、ごめんなさい。ごめんなさい。」泣きながら母親の指示に従った。
大連警察署でもよかった。だが、一番のバスに乗って丹東に向かった。亭亭の亡骸がどこにあるか分からない。それでも、線香を手向ける場所を知りたい、と美玲は主張した。
丹東に着いた。公安局の場所を聞いた。遠くではなかった。吉郎はその建物の前をカバンに入っていた亭亭と一緒に通り過ぎて破壊橋の所に行っていたことを思い出していた。
受付の警官は驚いた。すぐ別室の取調室に誘導した。
吉郎は既に全てを隠さない気持でいた。しゃべり始める横で美玲は頭を垂れたまま聞いた。
長い時間が経っていた。経ったように美玲には感じられた。深い絶望感に襲われながらも、亭亭とまだ見ぬその家族に申し訳ないことをしたと、謝り続けた。
その時、警察病院からの連絡が入って来た。「おい、被害者が動いたそうだ。」 「えっ。生き返るかも知れないのですか。」 「まだ意識は戻ってない。」 そんな言葉が飛び交った。警察官たちにしても、余程の驚きだったのだ。
美玲は、騒々しい中で何事であるかを聞き知るまでに少しの時間を要した。分かると即座に喜んだ。息子は殺人者にならなくて済む。深い悲しみと少しの光明を感じた。
一昨日の二人の学生は、病院にいると今しがた知った亭亭に会えたのだろうか。いずれであれ、もう丹東にはいないだろう。でも、もしいつか会えたらお礼を言いたい。美玲はそう思った。
吉郎はそのまま収監された。
美玲は警察署から一人になって出た。
駅広場の毛沢東像もまぶしかった。若い頃の憧れの人は、今、自分には何も言わない。駅や広場とは正対していない毛沢東が見ている方向は北京なのだろうか。その方向に自分たち親子の未来があるとは思えない。
息子は死刑にはなるまい。だったら仕事先を丹東に変えよう。会社に約束していた休暇の期限は過ぎた。無断欠席になる。たからだけの転職の判断ではなかった。ここも朝鮮族が多い町だ。どんな仕事でもいいと言えば、こんな50歳近くの年寄りにも何かあるだろう。朝鮮族の多くの者は、思い合って生きている。ほんとにどんな仕事でもいいのだ。
むしろ、そんな仕事をしながら、息子に面会し、刑期の終わるのを待とう。自分は若くはない。自分の今後の楽しみはそれしかない。それでいい。美玲は思った。息子が電話で配達弁当を頼んだ時の変に感じたことも思い出した。あの日が事件の日だったのだ。息子はあの時アリバイつくりを考えていたのだろう。そんな浅知恵はいつか破綻する。でもそれも考えなくていい。美玲には最早過ぎ去ったことなのだ。
全ては今から始まる。一から出直しだ。険しい道。新しい道。自分の人生を振り返れば、そんな繰り返しだった気もする。
美玲はあてもなく鴨緑江に向かった。
ハングル文字のナンバープレートをつけたトラックが出てくるのに出会った。
鴨緑江は青く水を湛えて流れていた。朝鮮からのトラックの長い列が友誼大橋上に見えた。先ほどのハングルナンバーも鴨緑江を渡って来ていたのだろう。ハングル文字を見るとほっとする。朝鮮の先に韓国があり、その向こうには東海を経て日本がある。
学生時分も周りから珍しがられていたが、美玲は地図を描くのも得意だった。頭の中には東アジアの地図も入っている。中国と、朝鮮と日本。美玲の頭の中では、いつも同一地域に属している国々だ。中国人も朝鮮人も日本人もみんな同じ人間、仲良くするのが当然なのだ。子どもの頃から身につけていた考えであった。吉郎には事あるごとに聞かせていたから、息子もまた地理に詳しい。それも誇りだった。
朝鮮からの車が途絶えると、反対側、中国からのおびただしいトラックが朝鮮側に向かって走っている。一車線しかない大橋を時間を決めるかして相互に行き来しているのだ。
息子が亭亭を抱えたまま飛び込んだ破壊橋の現場にも行った。
優しかった息子を恐ろしい人間に変えたのは何だったのか。
みんな仲良しと言うのは美玲の理想である。でも美玲の心も時折理想と現実の中で揺れた。具体的に人間個々が介在してくると、民族や国家とは無縁の個人のむき出しの感情、単純な好悪感が表に出たりした。
美玲は自分の子育ての拙さを思った。でもこれとて今となっては詮無い話だ。
川下数百メートルの場所に島があった。あの島のどこかに亭亭は流れ着いたのを幸いにも見つかった。死んだはずだったのが今生き返ろうとしている。それは警察で先刻聞いたばかりだった。
鴨緑江は無心に流れているようにも見える。様々な汚物をも飲み込んで自らをも浄化している気もする。自分の知らない息子の一面を覗くような気持ちになった。
下の段の人の見えない場所で亭亭を落としていれば、事態は変化していたはずだ。人がいないと思い込んでいた錯覚なのか、人に見つけて欲しいと潜在的にどこかで願っていたのか、それは分からない。 見つけて通報した者を疎ましく、恨みにも思う。でもそれをもよかったと解釈したい気持ちにもなっていた。
美玲の思惑と無関係に鴨緑江は目の前を青々と流れている。その対岸の朝鮮、そして韓国。半島の先はまた海だ。昔「逆巻く」と吉川が教えた玄界灘の冬の様子をも想像した。
突然、寧安駅の待合室の蒼さが美玲の頭を覆った。深い海の中で生きようともがいてきた自分をもう一人の自分が見ていた。 (『玄海を跨ぐ第一部 蒼の揺曳』完)
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