その22 再会
「また、日本人の訪問か。ここにはあなたたちが望むものは何もないよ。」 二人を受付けた警察官は素っ気ない。紅と艶淑は聞いてもらおうと更に身構えた。
「私たちの友達が丹東に行くと言ったまま、戻らないのです。もう二ヶ月が過ぎました。何か事件に巻き込まれているのではないかと心配しています。」紅は頭を下げた。 「どんな小さなことでもいいので、若い女性に関係した事件か何かありませんでしたか。」艶淑が問い、また、続けた。
「友達は、紺のデニムのGパン上下に、黄色いTシャツか、青色のTシャツを着ていたと思います。」
机の反対側にいた別の警官が、「君の担当の意識不明の女性に関係があるかも知れない。なあ、どう思う。」と受付中の同僚に声かけした。
「そんなことある訳ないでしょう。Tシャツの黄や青は誰でも着ている。」
「どんなに悲しいことでも私たちは受け止めることが出来ます。教えて下さい。人違いであったとなっても構いません。」紅は更に頭を下げる。
「お願いします。その女性のことをもう少し詳しく教えて下さい。」 「お願いします。」
「病院に連れて行ってみたらどうか。すぐ近くだし。人が来たら受付の仕事を私が代りに務めてやるよ。今は幸い暇な時間でもあるから。」前の机からの援助の声だ。 件の警官はまだ躊躇っていた。
その時、奥の方から署の幹部と一緒に一人の日本人が出て来た。 紅はその人物の顔を見て、驚いた。男も気づいた。
「伊丹先生ですね。」 「あなたは、確か加藤さん。どうしてここに。」 「先生こそどうされたのですか。」
二ヶ月前に二人共顔を合わせていたことを思い出した。 件の警官が、躊躇いながら渋々腰を上げかけた時だった。
事情を確かめた幹部はすぐに命令を下した。 「すぐ連れて行きなさい。」
「ありがとうございます。」
車のある外に出ながら、「あんたたちの友達とは関係がないと思うけどな。仕方がない、連れて行くよ。」警官は小さく一人ごちた。
伊丹も同行を願った。三人ともパトカーに乗るのは初めてである。何もなければうきうきした気分になれるはずだった。
病室には色々な管に巻かれて横たわった病人がいた。心臓は動いているとの話だが生きている気配もない。
顔の見える位置まで進んだ。「亭亭だ。」二人同時に小さく叫んだ。
警官はまさかと思っていた。が、被害者の身元が分かったのだ。この丹東まで探しに来た二人の友達であるのは間違いないようだ。
この後の行動は速かった。すぐ本署に連絡した。本署からの確認があった後、黒龍江省虎林の警察にも連絡が行った。虎林では、被害者と思われる女性の母親から再三再四の督促を受けていたことが伝えられた。虎林署ではその旨の回答を丹東に返してすぐ、虎頭にも電話を入れた。
連絡を受けた郭明は、即座に娘に会いに行く、と答えた。仕事先には急用で戻らなければならなくなって申し訳ないこと、いつ来られるようになるか分からないことをも伝えた。
仕事を斡旋してくれる親方の所にも連絡した。今まで一度として仕事を断らなかったことは勿論、休んだりしたことのない郭明である。だから、誰もが余程の何かが起きたに違いない、と理解を示した。
郭明は、学費のために貯えていたお金の全てを取り出した。その足で虎林からの列車に乗りたかった。でもその虎林までのその日のバスは既にない。警官もそれは承知していた。母親の娘を思う必死さは言われなくても分かる。
切符の買い方と併せ、明日の夜にハルビン駅で乗り換え、明後日の朝には丹東に着けること。丹東の駅には向こうの警官が迎えに来ること等など、旅慣れていない郭明に、警察はこと細かに紙にも書いて教えた。そして、一時間余の距離をこの可哀想な老女のためにパトカーで送った。
郭明は字が読めない。必死に記憶したことをパトカーに乗ってからも何度も反芻した。 虎林駅前で郭明は警官になんども頭を下げた。断る郭明の言葉を退けて切符売り場まで警官は着いて行った。座席なしがいい。一番安く出来るだけ早く着きたい、郭明にはそれだけしか頭になかった。
紅も艶淑も、驚き悲しむだけでなす術もない。
待っている間に亭亭の母親が明後日朝丹東に来ると言うことが分かった。その間どこかに行くにせよ、とにかく、残ってお母さんに会うことにした。
伊丹も残りたかった。だが、そんなには待つ余裕がない。自分はまた来ることが出来る。今回、蘇州で面会した加藤紅に再会できた。それで、被害女性が亭亭と言う学生であることも分かった。それらを喜びにすることにした。
その紅とは今後連絡を取り合うようにした。何かあった時、何かして欲しいことがあった時には電話をするように紅にメモ紙を渡した。日本と中国いずれでも使えるのと、中国だけで使っている両方が記してあった。
明日の便の飛行機に乗るのだが、それまで自分の知る丹東を二人に紹介してもいいと思った。出発まで一日近くもあるのだが無駄にはなるまい。そう言い聞かせた。翌日二人と別れた後に上海に行き、翌々日の午前中に訪問する旨、寧波大学にも電話を入れた。
郭明は、二日車中で過ごした。9時過ぎに丹東駅に着いた。迎えの警官は大きな声で「郭明さん、郭明さん。」と誰彼になく呼びかけてくれていた。
パトカーで丹東の駅から病院に連れて来られた。 紅、艶淑も亭亭の母親の登場を待っていた。
郭明は着くや否や、娘の変わり果てた姿に接した。周りの人たちの存在も目に入らないようだ。
親として娘に呼びかけるしか出来ない。「亭亭、亭亭。」「応えてよ。亭亭、亭亭。」 「亭亭、亭亭。これは何ですか」「これはお母さんです。」「これはなんですか。」「これはお母さんです。」「これは何ですか。」「これはお母さんです。」 郭明は娘の体にしがみついた。揺すぶった。
「ねえ、気がついてよ。お母さんよ。」 「亭亭、あなたは私の夢なのよ。お母さんと父ちゃんの宝なのよ。ねえ、起きてよ。目を覚ましてよ。」 「これは何ですか。これはお母さんです。」
「あんたが北京にいると教えたのがいけなかったんだろうね。許してくれえ。お母さんが悪かった。」 「頼むから起き上がって、お母さんを叱ってよ。お願い。」
郭明は死んだようになったままの娘の体の上に自分の体を投げ出してしまった。 「これは何ですか。これはお母さんです。」「これは何ですか。これはお母さんです。」
郭明の繰言が途絶えることなく続いた。誰も止めることが出来ない。止めさせようと思わなかった。涙を流すだけだった。
「ううん。」苦しそうな声が郭明の繰言と重なるようにして小さく聞こえた。その場にいる誰もがその声を聞いいた。
郭明は跳ね起きた。「亭亭。亭亭。気がついたのか。お母さんですよ。」それへの反応は何もなかった。でも何かが生き返ったことは確かなのだ。
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