その20 接近
娘の亭亭からの連絡は、途絶えたままだった。電話で北京の後にどこかに行くとは確かに言っていた。それがどこか判らない。
郭明は虎頭の村から虎林にも出かけ、そこの虎林警察署を何度も訪れた。
「娘を探して欲しい」とお願いし続けた。しかし、狂ったような訴えも何の効果もなかった。警察の壁には、何人かの行方不明になった身内の写真と特徴を伝えたビラが貼ってある。何人いるか見当もつかない数のようだ。チラシを横目で見て、立ち会った警官は、仕方ないことだと郭明に言い訳した。
郭明は出直すほかなかった。また時間を作って出向いて来るだけだ、と思った。
加藤紅は、無駄と思いながらもハルビンの朴金善に電話をした。心配の息遣いが窺えるだけだった。
丹東までは行ったのだろうか。それも分からない。ハルビンが駄目なら、探す手がかりは丹東以外全くないのだった。
手がかりが見つからない上に、どこに行くにしても、紅にはお金と時間もない。
そんな時、不意に思いついた。亭亭が、チャイニーズドリームについて語らっている時、同級生のことに触れたことがあった。その男は大連にいる。日本企業の名前は「ブルーワールド」と言った。似た名前が多いから勘違いしているかも知れないが、紅も聞き知っていた。その男の名前も聞いていたのだが覚えていない。
亭亭も余り好きな友達ではないようだった。しかし、紅は面談する値打ちのある男である気はしていた。ストレートに表現するらしいその男の生き方に興味を持ったのだった。亭亭は好むまいが、紡系会の紹介もすれば交流の輪が広がるとも思った。その男が出世街道を駆け上がっている姿を想像した。
頑張りの元は貧しさだろう。ハングリー精神ほど強いものはない。貧しさの実態とそこから抜け出るためのいかなる発想を持つに至ったかが、そして事実、人と異なるいかなる努力をしてきたか、現にしているかが、紅の関心事であった。
大連で面談をさせて貰い、関連の資料も集めたい。
その後、丹東に行くことにした。そしてまた大連に戻ってそこから福岡に帰ればいい。学費稼ぎの日本でのバイトの日数が少し減るが、大きな目的のためには、それほどの痛手にはならない。紅はそう考えた。
亭亭の写真を用意した。亭亭の友達が紅と二人並んだ写真を撮ってくれていた。 丹東の地図も見に行って少しメモ書きした。
国境の向こう、朝鮮の新儀州を亭亭は見たかったのだろう。鴨緑江を見ながら故郷のウスリー河と比べていたろう。国際情勢と国境沿いの町の変化の有無が、丹東を訪問するにあたっての亭亭のテーマであったはずだ。そしてそれは、紅にとっても興味ある話題であった。
亭亭に関する何らかの手がかりが得られたら儲け、得られなくても大連に行けるのだから損にはならない。紅は自分に言い聞かせた。
丹東で事件に巻き込まれたとすれば、地元の警察は何か情報を持っているかも知れない。警察用語の幾つかの確認も必要だった。紅は必死になった。
亭亭と同じ部屋の艶淑が、自分も行きたいと言って来た。日本人の友達が行動を起こしているのに、どうしていいか分からなかったとは言え、何もしていない中国人である自分が許せない、と言うのだ。艶淑はその後黒龍江省に行くとも言う。福建省龍岩育ちの艶淑は、北の地を知らない。冬の寒さの実感がないことをいつも悔やんでいた。 冬休み入ったらすぐ出かけることにした。春節に近づけば近づくほど切符を買うことは至難の業であることを紅も知っている。
二人で暗い内から切符を買いに出かけた。こんな時、暗くて本も読めない。だから一人だと待つ間が、一層辛くなる。学期末試験対策を頭の中で少し試みるだけである。
二人だと、いろいろ話すことができる。お互いに日ごろ思っていることを話す相手として、亭亭を除けば、これ以上の相手はないように思った。
加藤紅と濾艶淑は、丸一日硬座に揺られていた。でも二人は若かった。大連に着くや、昼ご飯も後にして、すぐ商吉郎の会社に向かった。大連外国語大学からさほど遠くない所にある。近くに京劇の劇場もあった。が、閉っていた。日本が占拠していた当時、政治的思惑もあって建てた西本願寺の跡を、今、劇場にしているのが可笑しい。
その横を抜けた。明るく広い事務所は、日本企業のものであることが分かりやすい。しかし、ここブルーワールドは少し灯りが少なく感じられた。受付と思われる場所にも誰もいなかった。
ほどなく現れた若い中国人に、紅と艶淑は尋ねた。ハルビン師範大学を卒業してこの会社に入った男性が、商吉郎であることはすぐ分かった。その吉郎に会いたい旨伝えた。 隣の部屋に一人の男とやや年配の女性が話しているのが見えた。受付けた女性は、その男に声をかけた。男が振り向いて立ち上がった。大きな男だ。吉郎に違いない。ちょっとひるんだ。でもやりかけたことだ。
目の前の大男に、紅は、笑顔で問いかけた。「商さんですか。」「ハイ,商吉郎です。何か。」上手な日本語である。
「私、加藤紅と言います。チャイニーズドリーム、サクセスストーリーと言う研究テーマのことで、質問をさせて欲しいのですが」
商は、仏頂面から持ち前の笑顔を見せ始めていた。さすが有能な営業マンである。
「自己紹介が遅れてすみません。私は蘇州大学大学院中文学部に籍を置く者です。」
この時、対手の顔が歪んだように見えた。亭亭に関わることを気にしたのだろうか。しかし、紅は気づかぬふりして話を進めた。「私はあなたの夢を聞きたい。そして夢に向ってどんなことをしているかをも聞きたいのです。」
吉郎は再び仏頂面に戻っていた。「何も答えるものがありません。お帰り下さい。」 先ほどの受付の女性が、お白湯を持って来た。瞬時沈黙の時が流れた。
「私が相手しなければならない人も待っていますし、お相手はできません。ゆっくり飲んでお帰り下さい。」吉郎はかけていた椅子から立ち上がろうとした。
「ちょっと待って下さい。お忙しい時にすみません。私の言い方が悪かったら謝ります。少しだけでいいから話を聞いて、お考えを聞かせて下さい。私達は中国と日本の若者の交流の場も持っています。今は駄目でも、その紡系会の掲示板にお考えを書き込んでいただくことでもいいですから。」
艶淑も座るように促し、吉郎が腰を下ろすや、逆に席を離れた。向こうの部屋で一人にさせられている人の相手をしないと、吉郎も気になるだろうと思ってだった。
紅は艶淑の気遣いに感謝しながら、自分の研究テーマについてしゃべった。
でも吉郎は話の腰を折るように、「私には夢などありません。昔はあったかも知れません。でも今は全くありません。お役には立てません。」
その時、部屋から艶淑と年配の女性が近づいて来た。
「お母さん。」吉郎が思わず叫んだ。
「この子の誕生日祝いにかこつけて、こんな所まで来ています。」母親らしい笑顔を息子に向けながら、客である二人にも優しく微笑んだ。
「この子には野望と言ってもいいものを子どもの頃から持っていましたのよ。」 「もうないよ。言わないでよ。」
「あなたはどうしたの。昔は聞かれなくても誰にでも正直に言ってたでしょう。」
紅は思った。もはや聞くことはできない。
「失礼します。」二人に頭を下げた。 「すみませんねえ。遠くから出かけて来られたのに。で、これからどうされるのですか。」
紅は口よどんだ。艶淑が答えた。「今から丹東に行きます。」吉郎がまたひるんだ。
「まあ、丹東ですか。またどうして。」
紅は応えなかったが、艶淑は「友達を探しに行くんです。いや、会いに行くんです。」
「お母さん、もう止めなさい。」吉郎が激しく腕を引っ張った。
「痛いわよ。放しなさい。」
紅と艶淑はいたたまれず頭を少し下げた。「急ぎますので失礼します。」
ドアを開け、勢いよく飛び出した。美玲にはあたかも逃げるように映った。自分たち親子の険しい雰囲気を嫌ってのことであることははっきりしていた。
二人が外に出るや、美玲は息子をなじった。「あなた、今日はおかしいよ。どうしたの。」
吉郎は「何もないよ。」と部屋に戻っていった。事務の女性が怪訝な眼差しを向けた。
吉郎は何も言わず、荒々しく椅子を引き寄せた。
「あなた、亭亭さんと何かあったのね。」後を追うように部屋に入るなり、「言いなさい。何があったの。」
「あなたは、あの二人が来てからおかしくなった。あの人たちは蘇州大学生だと言うじゃないの。亭亭さんと何かあったの。何があったの。」「吉郎、言いなさい。」
吉郎は頑として口をつぐんだままだった。
ほとんど見せることのない不貞腐れた息子を見て、美玲は確信した。ただ事ではない。
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