その2 再見ハルビン
早めにハルビン駅に戻った。改札は出発30分前だがそれよりも30分以上前から改札口前に立った。大きな荷物だから遅くなると置き場さえない。おまけに亭亭は背が低いときている。昨夜の虎林から乗車した経験で懲りていた。
改札口の一番前に並んでいたが割り込み男にまず先を越された。ホームに着く前に大方抜かれた格好だった。列車内は、亭亭が着いた時はごった返していた。空いた棚を探し座席に足を乗せて荷物を担ぎ上げようとした。不意に誰かが荷物を取り上げた。相手を睨むように見たら吉郎だった。見覚えもある笑みのまま、近くの荷物を動かして亭亭の大きな重い荷物を軽々と納めてしまった。亭亭は人の座席にたったまま見惚れていたのだが、慌てて降りた。
「ありがとう。偶然ね。出張で?」吉郎は笑うだけだった。「助かったわ。小さいと損ね。」
「やっぱり蘇州に行くんやね。」 「もう何度も言ったでしょう。私は勉強したいの。」 「勉強だったら大連でもできる。」 「それについても何度も言ったでしょう。私も私の母さんも大学院なら蘇州大学、と決めていたのだから。」 「寒山拾得の話は何度も聞いた。でも納得できない。」
「もうすぐ出るよ、この列車。あなたはどうするの。」 「乗って行く。」 「どこまで?」 「蘇州。」 「嘘でしょう。」 「うん。瀋陽まで。」 「夜よ。」 「分かっている。」 「あなたも変な人ね。」
吉郎は何も言わない。
「もうこの話止しましょう。さっき玲玲のこと考えていたのだけど、彼女達どうしているかなあ。」 「なあにも変わっちゃいないさ。」
亭亭は吉郎の口振りから、今でも玲玲たちの日本留学を面白くないと思っていることがよく分かった。親の経済力の違いを見せ付けられていたからだ。
自然に仕事の話になった。電話口で聞かされているから珍しくはなかった。でも今日の手助けに感謝する気持が吉郎の自慢話に耳を傾けさせることになった。
吉郎の仕事は順調なようだ。忙しくて土曜日曜もない毎日だが、それも吉郎には悪くなかった。むしろこの忙しさの中で、給料も上がり、昇進して会社内の地位も安定する。そして亭亭を迎えると言う。
亭亭は、吉郎が自分を迎える話には興味を失っていた。が、自分が大学院を出た後、大学の教員にならなければ日本企業に勤めるだろう。苦労した者達は報われるはず、と思っていた。
いつもだったら「もう分かった。今忙しいの。またいつかね。」と話を切っていた。しかし、今日はいつもと違って話を遮らなかった。吉郎は、無理してハルビンにまで来ていてよかったと心から思った。
亭亭は聞きながら思い出していた。卒業試験直前の最後の授業の時の話だ。
「五年後の私」をテーマにし、各人の考えを一通り語らせた。皆それぞれに語り、同級生のしゃべるのを聞き取る授業になっていた。直接の目的は日本語の会話能力を高めることだったが、四年生にもなれば一、二年の会話の授業と異なるのは当然だ。人生観、生き方を改めて問い直すことも意図されていることは誰にも分かっていた。
前の週から予告されていたこともあり、概して多くの学生は真面目に考えていた。
「見当がつかない」と断りつつ、「少しでもいい仕事について元気にがんばっている」と応えた学生が多かった。「日本に行けたらいいな」と願望を率直に語る者もいた。今決まっている仕事を続けていると考えている学生は多くなかった。嘘をついても構わないとばかりに適当に面白おかしく語る学生もいた。
亭亭はそんな時でも、漠然とした言い方は好まなかった。嘘をつく気にはなれない。「大学院で、文殊菩薩の願いにも近づきながら、その後はどこかの大学で日本語教員をしています。苦労人の母が今の場所から飛び出て私の元に一日でも早く来たくなるように努めています」。他人には面白くもないだろういつもの気持を述べていた。
吉郎も亭亭に似たところがある。それが吉郎に興味を持つことになったきっかけでもあった。吉郎は言う。「大連で日本企業にのブルーワールドに勤め、出世して五年後とは言わず三年で好きな人と一緒に過ごしている。その後、日本に仕事場を移して二人の子の父親をしていることが夢。」と締め括って少し笑いを誘った。
何時聞いても自信ある口振りだし、日本語も見事である。またこれは嘘でもなんでもなかった。亭亭とその周辺の友達にはその決意の程がよく分かった。吉郎は今採用が決まっている会社を辞めるどころか、出世して高給取りになり、亭亭と生活している状態まで具体的に想定しているのだった。
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