19 それぞれの行動 加藤紅は、亭亭の帰りの遅さを気にしながら、猛勉強した。またそのかたわら、亭亭や艶淑らと相談してのことだったが、日本の若者と中国の若者とが交流する場を作ろうとしていた。
その一つがメールでの交流である。中国語でも日本語でも自由に書き込めるものとし、名前も『紡系会(fangxihui=つむぎつなぐ会)』とした。英語の「fancy」ももじっ亭亭、「空想」とか「思いつき」であれ、やがて日本と中国の若い者同士を結びつける役割を果たせたらいいと願ってのものだった。
紅たちの提案に応えて大胆な意見を展開する者も少しずつ出てきた。読めば勉強になる。だが、その分時間は取られた。嬉しい悲鳴である。
また一方で、時間を見つけては蘇州の街中を回った。その一つが蘇州大学西門前の始発から終点まで1元のバスで行ける虎丘である。ピサの斜塔に似て何度か傾いたままであると言うこの塔を見たいと思っていた。機会が訪れたのを活用した。
この丘で日本語を久し振りに聞いた。30元の入場料では、蘇州に住む中国人は、おいそれとは行くまい。
亭亭、艶淑と行った時には見られなかった寒山寺傍の京杭運河も見ておきたかった。 25元でも矢張り痛い。それでも建造物に特別の感慨がある。紅は風景の美しさよりも、中国人の意志が明確に示されるこうした人工物を好んだ。艶淑に歴史的事実は聞いていた。なるほど説明板には、隋のヨウ帝がバラバラに作られていた運河を結び付け、江南の物資を北京まで運ばせるようにしたことも記されている。元が統治した際に、この運河を整備し更に活用しやすいようにしたことも初めて知った。元の統治の仕方のもう一つの事実であった。その土木工事の成果が今に至っても活きている。目の前を走る船を見ながら往時を偲んだ。
いつでもだが、実物を見ることで新たな事実を色々知ることが出来る。
南京にいた時には、虐殺記念館にも二度行っていた。日本で見てきた記念館と違って、見る人の気持を余り考えていないように見えるのが惜しかった。配置の仕方がお粗末に見えた。高校の時の国語の教員が、虐殺記念館の名前の改称問題で、現地の新聞のインタビューに答えているのを中国の「YAHOO、雅虎」で検索していた時に偶然発見して驚いた。
恩師が言うように、「虐殺」の名前を消して観光に来る日本人に迎合しても何にもなるまいと思ったものだ。それでも一方で、日本企業誘致にマイナスになる条件を解消したいと南京市が考えたとすれば、それはそれで理解もできた。
祖父の妹の艶子おばさんは、南京への留学を決めた時、「虐殺記念館に行ったら共産党の不破議長の写真があるはずだから見てきたらいい」と言った。しかし、日本共産党関係者の写真はなく、社民党関係者を含めた共産党以外のものばかりが貼られていた。
ハルビンには留学した年に行っていた。『悪魔の飽食』と名づけられた細菌戦部隊731部隊の跡を訪ねた。この時も、艶子おばさんに聞いていた日本共産党の機関紙『赤旗』が森村誠一と組んで取り上げた「事実」は示されていず、その後に出版された他の人の本が何冊も展示されていた。ただの一冊、森村誠一著の「中国語翻訳本」が、事情を知る者にわずかに推測させるだけであった。
中国では「井戸を初めに掘った人のことを忘れてはいけない」との諺があるらしい。でも日中国交回復運動にせよ、中国侵略反対、日中友好の大切さを一貫して訴えてきたはずの日本共産党を無視する傾向は、依然として続いている。文化大革命の仕打ちをめぐって決裂した日本共産党と中国共産党とが30余年振りに和解したと言う今に至っても、依然として中国の日本共産党軽視は続いているのだ。そのことを、紅は思い知るほかなかった。能天気に見える艶子おばさんたちが可哀相になった。
「中国共産党は日本で言えば自由民主党と同じだ」と祖父は言った。艶子おばさんより祖父の言うことの方が事実に即しているようだ。少なくも二つの記念館を巡った限り、祖父の見解が当たっている。
加藤紅は亭亭と同じ部屋の艶淑に亭亭の帰寮の有無を何度も聞いていた。だが、ここに至って心配が一気に膨らんだ。荷物だけが着いて、本人は帰らない。
何か事故か事件に巻き込まれたのではないか。送り主はハルビンの朴金善とある。まさか亭亭がハルビンに行ったわけではないだろう。
紅は、小包の表に記してあるハルビン師範大学の朴金善に電話した。
経過は分った。しかし、その先が分らない。金善の心配そうな気配も電話口でうかがえた。
伊丹は、朝鮮戦争時に破壊された記念碑的橋に行った。まだ早い時刻のせいなのか誰もいなかった。その時、向こう側の橋に列車が入って来た。朝鮮からのだ。まさかと言う気持ちもあっただけに、驚きは大きかった。現実に列車は、核実験強行で世間が騒いでいる今の今も朝鮮から中国に走って来ているのだ。
この破壊された橋にはもう一度戻って来ればいい。今視界を横切ったばかりの列車の行方に興味が移った。列車の走る鉄橋の方を確かめたいと思った。戻ろうとした。
と、自分のいる場所の一段下のはずれに何かの動く気配を感じた。人がいる。男がいるのだ。
よく見ると、朝方ゴロゴロ大きな荷物を引っ張っていた男のようだ。白いジャンバー姿で大きなカバンも持っている。
急ぐ気持もあったが、少し気になった。男は回りに人がいることなど気にしていないように見えた。誰もいないと思い込んでいるようにも見えた。事実伊丹以外には誰もいない。重そうに見えるカバンを持ち上げたままじっと河の中を見ている。
重すぎたのかカバンを下ろした。ジッパーを開けた。大きなモノを取り出すようだ。 人形だ。人間の大きさに近い。人形は青い服を着ている。何をするのだろう。伊丹は気になった。戻る気持が暫し消えた。
男は人形を抱え上げた。まさか河の中に入れる積りではなかろう。
伊丹の位置は男の視界から少し外れていた。
男は投げ落とそうとして、ためらっているようだ。しかしまた男は抱え上げた。 伊丹は人形と思っていたが、人間そのもののようにも見えてきた。
「やめろ」思わず声が出た。男は突然の声に驚いて振り返った。 伊丹は走り出した。
男は慌てた。自分以外にこの橋の上に人がいるとは思いもしていなかった。男は瞬時ためらった。
しかし、逆に思いもしない行動に出た。人形を抱えたまま河に飛び込んだ。
伊丹は駆け寄った。白いジャンバーの男と共に人形の蒼い服が河の中に沈んでいく。男の腕から離れた後の人形は伸びやかに漂っているようにも映った。
伊丹は泳げない。泳げても飛び込める人はそんないるものではなかろう。
伊丹は今度は警備員のいる場所に走った。
慌しい人の動きがあった。
国境警備隊は、朝鮮との国境線を越え対岸に逃亡しようとしているかを念入りに確かめていた。
しかし、それはなさそうだ。
吉郎は飛び込んで一息入れた後、抱えていた亭亭の体を放しそっと前に押しやった。ジャンバーを脱いだ。脱いですぐに方向を変えた。元の橋脚に向かった。脱げそうになったGパンのバンドをきつく締め直し、もう一つ上流、朝鮮からの列車を運んでいた鉄橋まで一気に泳ぎ、呼吸を整えて更に上流を目指した。先刻駅前からまっすぐ伸びた道から降りて来る岸辺を左手に一瞥し、飛び込んだ橋桁からできるだけ遠くに、息の続く限り泳ぎ切った。
警備隊か警察かの船が出て行った。
伊丹は名刺と共に宿泊ホテルの部屋番号を伝えた。
列車の確認どころではなかった。疲れた。しかし、気になる事件である。見届けたいと思ったが、取り敢えずは部屋に戻ることにした。
翌朝のニュースには何も報じられていなかった。自分の見たことが夢だったのかと一瞬自問自答さえした。報道されないことは別に珍しいことでもない。破壊橋の警備隊の所に行った。行方不明になった息子の顔写真を載せたチラシを持った男が大声で喚いているのに出くわした。
伊丹は、女の方は意識不明ではあるが、死なずに助けられ現在丹東市警察病院で保護中、と聞き一安心した。それ以外は何も聞かされないし、何の意見も聞かれなかった。男は見つかってないようだ。
先入観なしに犯人捜しをしたいようにも見えた。第三者のとりわけ外国人の意見を聞きたくないようにも見えた。だからでもなかったかも知れないが、飛び込んだ男に似た人物を朝早く駅前で見た事実を伝える時間も気持ちもなくして日本に戻った。後ろ髪を引かれていた。中国に来る時には事件解決の目途が見えるまで何度でも来たいと思いながらの帰国だった。
十月も下旬となると暮れ方は早い。寒さも厳しい。吉郎には寒さよりも疲れが身にしみた。吉郎はシャツを脱いで固く絞った。絞っては頭をごしごし拭いた。Gパンも素早く脱いで素早く固く絞った。
絞りながらも、動悸は続いていた。人がいたことの驚きは今でも消えない。しかし、一方で、見つかったお陰で亭亭の亡骸は早く見つけられる可能性が大きくなる。幾ら神経を失った死者であっても、寒い河の中に何日も放置するのは可哀相過ぎる。そう思うと少し気が楽になった。
乾かないままの黒いシャツとGパンは、薄暗がりの中では濡れていると気づかれない。
それから駅前に向かった。自転車を探した。
鍵のかかっていない自転車を1,2台見つけることは難しくない。
高速道路の入り口近くで乗り捨てた。大連ナンバーのトラックを見つけては止めて依頼した。
3台目で気のいい運転手に巡り合えた。ついている。運転手は吉郎の愛想いい顔にほだされたのだった。
月曜日の朝、吉郎は何食わぬ顔で会社に出た。吉郎の異常であるはずの気配に気づく者はいなかった。それどころではなかったからかも知れない。会社が生き残るかどうか、自分の食い扶持がどうなるかの運命の方が問題なのだ。一人の男の心の動きに関心を抱かせる余地を残してはいなかった。
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