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作品名:『蒼の揺曳』 作者:あるが  まま

第18回   その18 交錯 
その18 交錯   

吉郎は素早く行動した。

「母さん。今週は帰れた。日曜の仕事はもう無くなった。今駅に着いたので配達弁当頼んでおいてよ。お腹減っているから。」

「それはよかった。それにしても、いつも忙しいのね」美玲は応えて電話を切った。
それから一時間。また吉郎の電話が入った。

「母さん。ご免。友達に誘われて、食べに行く。でも弁当は美味しかったと、小父さんに言っといて。勘ぐられるのは嫌だから。」

「勘ぐられるって何を?おかしな子ねえ。」

「いやあ、例えば、母さんが嫌になって戻って来なかったのではないか、とか。そんなことはどうでもいい。とにかく帰って食べたことにしといてよ。お願い。」

吉郎は北京駅では座席無しの丹東行き切符しか買えなかった。列車を待つ間、何気なしに亭亭のバッグを見ていた。その時、丹東行きの切符を見つけて驚いた。亭亭は丹東に行く積りだったのだ。何をしに行きたかったのか。不思議な一致だと思った。

そしてその切符を使った。カバンが大きいので一番入り口側の人と切符を交換した。幸い亭亭が窓際の切符を買っていたので喜んで貰えた。吉郎は大きなバッグは通路に置いて自分で見守ることが出来た。そして丹東まで来た。

伊丹二郎は、駅前ホテルで朝を迎えた。昔と違って6時過ぎには目が覚める。朝食は食べなくても済むのだが、外に出ようと思った。雰囲気を知るためだ。

昨夜は気づかなかったのだが、赤銅色の大きな銅像が否が応でも見えた。毛沢東像である。大学などでも残しているのが少なくなっている。それが駅の真ん前にあるのでびっくりした。

北京からの列車が着いて人が出て来る。担ぎ屋もいる。朝鮮語が飛び交っている。ここは地理的に朝鮮と接していると言うだけでなく、朝鮮の諸々が生きている場所なのだ。

白いジャンバー姿の男が大きなバッグをゴロゴロ引いているのも見えた。この大柄な男が朝鮮族かどうか、伊丹には分からない。

駅前の食堂に入った。その地の事情を聞くためである。朝鮮戦争記念館は少し離れた場所にあるのは知っていた。朝鮮からの列車が今どうなっているかを知りたかった。

お粥を運んできた若い子は、知らないのか年配の男を呼んだ。

男が応えた。「週に2回は来る。着いた翌日には北京まで走って行く」。

伊丹は驚いた。今でもそうかなのかを聞き直した。やはり、そうらしい。

男は暇なのか、椅子を引き寄せてきた。日本人と話をするのが珍しいのだろうか。伊丹に興味を持った眼差しで「どこから来たのか」「丹東には何時着たのか」「中国は好きか。丹東はどうだ」など次々に質問してくる。

「マントウが美味しいよ」と言う。伊丹は多く食べることができないのだが、話し相手になってもらっていることもあって、マントウも一つ頼んだ。

中国に来てお粥を頼むと、ぬるいのが出てくるのを何度も経験している。ここのは幸い熱い。しかし、話をしているうちにぬるくなっている。冷めたお粥になっても話の聞ける方が伊丹にはありがたいのだ。

気がつけば1時間以上店にいたことになる。

駅前広場をぶらぶらした。改めて毛沢東像を眺めた。一頃憧れていた人が手を挙げて立っている。中学生の頃、生意気にも古本屋で『毛沢東選集』を買った。それもまだ捨て切れないでいる。それにしても文化大革命をどうして引き起こしたのだろう。伊丹はいつも考える。自分が若かった頃から疑問を抱かざるを得なかった思い出が蘇って来る。

少し歩いて鴨緑江まで出た。岸には油が浮いていた。中国の河が綺麗になる頃、中国は素敵な国になっているだろうとここでも思いながら、伊丹は暫く見入っていた。

対岸は朝鮮の新儀州である。建物は少ないのだが、煙が上がっている。河の向こうが別の国とは考え難い。自転車が建物と建物の間を横切るのも見えた。

店の男に言われるまでもなく、行く積りだった朝鮮戦争時に破壊されたままの橋の所に行きたいと思った。その手前にもう一つ橋がある。鉄道だ。

鴨緑江はすぐ近くであることを吉郎は知っていた。歩きながら旅館を探した。通りを一つ入った所に宿を決めた。少し無理して個室を選んだ。

大きなカバンを部屋に置いた。ジッパーを開く。息を確かめる。中の「モノ」をそっと外に出す。猿ぐつわのハンカチを新しいのに取り替える。ズボンなども替えたいが、これは今まだ仕方ない。また少し薬を嗅がせた。

カバンの中の汚物受けにしていた固めの広いビニール袋を取り出した。きれいにして、再び「モノ」を納めた。

自分のカバンに入れていた亭亭の貴重品入れ小バッグを整理した。前にも見ていたが、色々なものがある。吉郎は自分が買った座席無し切符は既に捨てていた。使い古しの証拠の残る切符を亭亭のバッグに戻した。ジッパーを閉め鍵をかけた。

身元が分かりそうなものは、全て幾つかのゴミ袋に入れ何箇所かのごみ入れに捨てた。
離れて見るのと違って鴨緑江の岸辺の水は余りに汚かった。河の中ほどの水でなければ可哀相過ぎる。吉郎はすぐに川下に向かった。ペットボトルの水を買った。亭亭の下着やGパンも買いたかったが、ちょっと気が引けてしまった。

少し歩いたが、やはり水が汲めそうな場所は見つからなかった。時間はない。急いで戻った。シャワーの湯を調整して再びカバンから出す。浴室に寝せて丁寧にズボンを取った。異臭が鼻を突いているはずだが吉郎は気にならなかった。意識をなくした身体は重い。便器に座らせ全身で支えながら、更にシャワーの湯を何度もかけた。タオルで綺麗に吹き上げた。

女をベッドに寝かせバスタオルを身体に巻いた。もはや気づかれることはないと思っている。しかし、どこかでは気づかれてもいいという気持ちになっているところもあった。

それからまだ出しっ放しにしていたお湯で、下着とGパンを洗った。少しでも水気を少なくするために、もう一枚のバスタオルに巻き込んで何度もしっかり絞った。ベッドの端に広げもし、その上に横になって、次の行動を考えた。

並んで横になる最初で最後の時間である。束の間の幸せも感じていた。

しかし、長く楽しんでいるわけにはいかない。吉郎は立ち上がった。

朴金善はおかしいと思っていた。表彰式後の写真撮影に出なかったのは仕方ない事情があったのだろうと思っていた。懇親会に出ないことも聞いていたから驚くこともない。電話がないのはちょっと気になっていた。電源を切らしてしまっているのだろうと思うことにした。

それが、部屋のチェックアウトの時に、問題を感じた。

翌日の午前中、日本学センターの図書室で修士論文の資料集めをした。荷物を預けていたので、フロントに戻ると、「あなたは、蘇州大学の崔亭亭さんのお友達ですね。」と問われた。

「それが何か」
「崔さんは荷物を忘れたままお帰りになっているのです。彼女の代わりに荷物を受け取って下さい。」
「ちょっと待って下さい。私はハルビンで、彼女は蘇州です。ちょっと場所が違い過ぎます。」
「分かってます。何人かの方にお聞きしましたら、あなたが適役だと言われました。あなたがカバンを預けていると分かっていたので、お帰りをお待ちしていました。」フロントの彼女は自分の知っている中国人に珍しく、にこやかで、きびきびしていた。

確かにそうだ。北京では崔亭亭の一番身近にいる人間は自分なのだ。金善は理解できた。住所は聞いていた。これを送ってやればいい。

一つのカバンを肩にかけ、もう一つの自分のカバンをゴロゴロ引いて金善は郵便局に向かった。行き過ぎの人が怪訝な顔をして振り返った。気にし亭亭も仕方がない。郵便局はすぐ近くにあることは知っていた。近くでよかったと思った。


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