16 北京
国際交流研究所主催の大学院生スピーチコンテストが予定通り、北京で開かれた。亭亭は、ハルビン師範大学時に書いた文章が選に入り、参加資格を与えられていた。コンテストと表彰式がある。
亭亭は夜汽車に乗った。ハルビンから来る時とは逆になる。だが、今度は、徐州始発でなく、上海始発の列車に蘇州から乗ることにした。費用は高くなるが、時間がなかったからだ。
蘇州駅まで加藤紅が見送りに来た。
紅自身は、つい最近、「外国人のための上海地区中国語スピーチコンテスト」で二位に入賞していた。上海圏の日本企業が、中国語を学ぶ日本人の若者を励ますために企画しているコンテストである。
優勝した学生は、主催企業の中に就職することが出来た。と言っても、本社採用ではない。当初は現地採用枠である。その内に優秀であれば本社採用になることもできるらしい。紅は就職を考えているわけではなかった。だが、亭亭にも勧められて出場したのだった。興味を抱いている「チャイニーズドリーム」をテーマに選び、亭亭のことを喋った。初めて出会った時の印象が些かドラマチックであったことを審査員は好意的に受け留めたのであろう。そして、意外や二位になったのである。
亭亭は、一位でもおかしくないのにと言いながらも、入賞を喜んだ。
今度は亭亭のコンテストである。それも規模が大きい。全国の大学院から選ばれて来るのだ。ついて行きたかった。自分の場合は別にして、こうしたコンクールが契機になって、就職も含めチャイニーズドリームが花開く場合があることを聞いていた。見届けたかった。自分は旅行しに行くだけだからと亭亭は言う。だからではない。お金と時間の双方が紅にはなかったのだ。
一方で、コンテストとそこで重要な役割を果たす審査員そのものには未だ懐疑的なままだった。自分が二位だったとは言っても、選外の人の中に自分より優れた人がいたと思っている。しかし、彼は、中国の現状に対する批判が的確過ぎ、上位につけるのを審査員がためらったからだとも思われた。
そして遠い頃の思い出が、いつものように頭をよぎる。
小学生の時だった。歳の離れた姉は高校演劇大会のための練習で、いつも夜の10時近くに帰って来ていた。香椎高校の演劇部に属していたのだ。
姉たちが選んだ福岡地区大会出場の最後の学年の演目は『ステップ バイ ステップ』と言うものだった。題名のイメージと違って太平洋戦争と中国からの引揚げ、そして戦後の諸問題をも考えさせた。姉の友達、高校生達自身による創作劇だった。あちこちに取材に行っているのも紅はよく知っていた。内容のテーマ性だけでなく、訴える技術もしっかりしていた。子どもでもよく分かった。
しかし、姉たちの劇は選に漏れた。そして厳しい時間制限をいわば無視した学校が選ばれた。確かに観客のウケを狙ったもので、面白かった。でもルール違反を承知で審査員はなぜその学校を選んだのか。答えは一つだ。コンクールの前からそこが選ばれることは決まっていたのだ。そうとしか紅には考えられなかった。
祖父の妹の艶子おばさんも見に来ていた。艶子は日本共産党員としてもずっと頑張っているらしい。不思議な人だ。彼女らは「引き揚げ港・博多を考える集い」の運動の一環として、この演劇を見に来ていた。何も知らなかった紅は会場でおばさん一行に出くわしてびっくりしたものだ。滅多に会えない人であるが、会う度に、歳を取っても気持の若いおばさんだと感心する。艶子もいい演劇を見せて貰ったと感謝し、また、審査には納得していなかった。
悔しがる姉たちを間近に見ていたので、コンクールそのものを、子ども心に嫌なものとして理解することになった。
今回の亭亭の入賞はどうなのか。亭亭の作文は優秀だったことは間違いなかろう。だからと言って、他に優秀であっても選に漏れた人がいないとは限らない。これが紅のいつもの考え方であった。
そんなことは、まだ亭亭には言っていない。しかし、紅がこの種の話をする時、子どもの頃の思い出がチラチラ掠めているのだった。
亭亭と紅とのやり取りを見ていた者がいた。
同じ外国語学院の院生だが日本語学部ではない。英語学部の陳燦燦である。燦燦は日本語は第二外国語で学んでいた。しかし余り得意でなかった。それでも日本に対しては一方ならぬ関心を抱いていた。日本人が居るとなるとつい目が向いた。側の中国人が見送られている人のようだ。
燦燦は離れて改札口に向かった。
翌朝早く燦燦は即席ラーメンのカップを持ち、列車内の給湯所にお湯を貰いに行った。大勢の同じように考える乗客で給湯所が混む前に済ませたかったからだ。
すると、そこに既に一人いた。同じように考える人に好感を持って近づいた。あっと声が出た。
蘇州駅で日本人といた学生だった。思わず「おはよう」と日本語で声をかけた。亭亭だった。亭亭は燦燦に見覚えがなかった。しかし、人懐っこい丸顔に思わず笑みを返した。
「あなた、蘇州駅で日本人留学生と話していたでしょう。」 「あなたはどなたですか。」 「ああ、ごめんなさい。私も蘇州駅から乗ったの。陳燦燦と言います。よろしく。」 「そうですか。よく分からないけど、あなたは悪い人ではないようだし。」 「勿論。悪い人ではないつもりよ。」 「李亭亭と言います。よろしく。」 「またどこかで会えると思っている。さよなら。」
亭亭はカップラーメンを食べた後、また横になっていた。北京に着いたことに気づかなかった。
時間が多くあるとは思っていなかったが、スピーチの練習をしていた。乗務員が声かけして廻って来て、慌てて荷物を片付け列車から降りた。
陳燦燦はどうしたろうか、燦燦と言葉を交わした今朝方のことをちょっと思い出した。
長い線路下の地下道を通っている時、北京市内の地図を売っていた。4元出して買った。
早速丹東行きのバスターミナルを探すも分からず、店員に聞いた。「バスより列車がいい。安全だし」「列車の切符はまだありますか」「外に出て左だ」と言う。
亭亭は北京に来たついでに一日学校は休んでも、鴨緑江で北朝鮮と境をなす国境の町丹東を見ておきたかった。北朝鮮の核実験を受けて国連安保理は、「制裁措置」を決議し、中国政府もこれを容認した。その具体的手立てとして中国は北朝鮮への送金停止と丹東地域に壁を作ったとも言う。紅が日本のニュースを見て教えてくれたことではあった。
朝鮮にも国境の様子にも、関心のある亭亭としては、この際一目見ておきたいと思った。自分の見聞した話を紅が喜ぶと言う気持もあった。
表彰式の終わった後で北京駅に行けば間に合うことは事前に調べていた。コンテストへの参加者が集う夜の懇親会を欠席することは少し勿体無いと思った。しかし、ここは二度と行けないだろう丹東行きを優先させることにした。
切符はすぐ買えた。147元。後は丹東に着いて帰りの切符を買うことにしている。蘇州まで一日余30数時間で着くはずだ。月曜日の授業を欠席することは班長に伝えていた。
安心した気分になって、それから地下鉄の北京駅に向かった。時間は充分にある。
景色を見ながら入り口を探した。人の数も少ない。お金にありつこうと群れてくる男たちもいない。
亭亭は駅の表示で、地下鉄が一周するのに小一時間かかることを知った。実際に経験してみようと思った。はじめ満員だった車両もその内、降りる人が多くなり、座ることもできた。
子どもの頃の珍しい一つの出来事が思い出された。
ある日弁当を詰めた母親が、バスの走る道まで馬車に乗せてもらい、バスに乗ったら0.5元で行ける所まで行く、と言い出した。自分の誕生日がその年は日曜日と重なっていた。「今日は特別」と母は笑って言った。
亭亭は背が小さく110pに満たないので無料だった。
亭亭は母がどう言うつもりでそんなことを思いついたのか分からなかった。だが、嬉しかった。
バスに乗るなど、経験したことがなかったからだ。親子二人が家を離れる時は、歩いて行ける範囲に限られていた。バスに乗って、すぐ窓の外を眺めた。運転している様子をじっと見たりしたものだ。
北京の地下鉄1号線は、ぐるりと街を一周する。地上に出ることはない。いつまでも地下だ。それでも駅が近づくと明るくなる。駅は同じようで同じではない。それを見ていると楽しかった。3元で、何周も出来た。亭亭は二度北京駅を迎え、それからまた20数分をかけて西直門で降りた。1949年国民党に替わるべく毛沢東らの解放軍が無血入城して来た地点だ。
目的地の北京外国語大学までのバスは、買ったばかりの地図で確かめていた。634路だ。ところが亭亭には634のバス停が分からない。小さな町でも、バス停を探すのは多くの町で難しい。二度聞いてやっと見つけた。
魏公村路西駅で降りた。交通整理の小父さんに聞くと、大学はすぐそこだと言う。
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