15 吉川から伊丹に 吉川は結局結婚した。理事長の娘とである。姓も変えた。妻の姓を名乗った。伊丹二郎の始まりだ。教務部長兼大学改革委員会の責任者、青年委員長の任が待っていた。東京と福岡を行き来する。遣り甲斐ある仕事だった。
美玲の親たちは仕事柄また延吉に引っ越した。吉川こと伊丹は知る由もなかった。 全てのつながりの糸は切れた。
それぞれが、それぞれの人生を歩んでいった。
美玲との縁が切れた分、伊丹は仕事だけに没頭することにもなった。
「少数精鋭」。これが東邦大学中国語学部設立以来の基本方針だ。 入学の学生には徐々に一層厳しい要求を出した。単位を落とした者には退学を勧告した。
欠席遅刻の報告を出身高校に出す大学は近頃増えている。が、東邦大学は、伊丹が就任してすぐに始めていた。それも退学勧告を伴っての報告として最も徹底している大学の一つとみなされてきた。
大学の中には、大規模校を目指した大学もあった。郊外に広大な敷地を確保して多数の学生を集めた。
日本人が少なくなる分、留学生、特に成長著しい中国の若者に頼っている大学も増えた。
しかし、中国人留学生は有力な財源だが、問題も多岐に亘ってきた。留学生のお金にまつわる問題が一番だった。アルバイトをしなければ生活できない中国人留学生は多い。しかし、仕事先は限られ、特に田舎に大規模な校舎を建てた大学では、留学生のための辛い仕事先さえも多くなかった。建設費が安かった分、学費を少しは操作できる。奨学金として一定の減免を施した。しかし、バイト先がないのは焼け石に水に近いところも多く出てきた。
一方、日本の少子化が引き起こす問題は、多くの人の予測を超えて進んだ。
伊丹二郎は、この状況を充分分かっていたわけではない。しかし、それらをも多少視野に入れた経営方針を堅持していたことになる。
公共交通機関対策も怠らなかった。地方都市ではあるが、大都市と大都市に挟まれた東邦大学は、列車の便も悪くなかった。快速電車が停まらなかった駅だったが、地元住民、自治体、建設会社や不動産会社などと一緒に陳情を繰り返し、停まるようになった。この意味は今となっては大きい。
交通の便とは全く別に、高校であれ、大学であれ、世間が評価するのは卒業後の進路であることを伊丹は承知していた。こつこつ伝手を頼っては一人一人の就職を依頼してきた。少数なればこそ出来た話である。
四半世紀近くも経つと卒業生が会社の人事を直接担当する場合もある。人事担当でなくても有力な人材として会社で認められている者が多かった。いわばコネの一種だが、単に関係者だとして採用してもらうことはない、と伊丹は説明して廻ってきた。
中国人留学生についても大量にではなく、各大学からの公費留学生中心に絞ってきた。大学の推薦に任せていたのを、伊丹自身が被推薦者への面接試験を課すようにもなった。それまで推薦されて来た学生の中には、必ずしも品行方正、学術優秀でない者も含まれることがあったからである。
面接試験を終えたら、必ず他の大学にも寄って東邦大学への留学を勧めて来た。
留学生と言えど、問題が出てくれば、中国の大学に連絡した。納入金の一部返還付きまでして身柄の引取りの要請も敢えて辞さなかった。そして、そうしてきた事実をも勧誘先の大学で忘れずに伝えてきた。
経済的な損失を恐れなかったのである。これは前理事長、伊丹の義父が私財を投げ打って作った学校であったことに負うところが大きい。借金が少なかったのである。この特質を積極的に活かして今日の東邦大学があることを多くの関係者は知っていた。伊丹二郎の功績と言ってもよかった。
この間、時々の困難な課題をも乗り越えてきた。順調だとみなされている大学である。理事長は二郎の義父から妻に代わっていた。各部門のスタッフとして若い世代、新しい人材が実働していた。
中国語と英語の力をつけると言う目標に、更にもう一つの力を全ての学生に要求していた。総合的な識見を有すると言う当初からの目標をより具体化する必要に迫られてもいた。しかし、伊丹の仕事ではなかった。
伊丹は、学生募集だけは引き続き担当した。伊丹が好んだというだけでなく、中国の各地の大学担当者側が要請した。誠実に鋭く面接する伊丹の教育姿勢にもだが、終わった後の日中関係、更には国際関係の今後を大胆に予想する伊丹の博学に触れたいとして、いつも彼の來校を要望していたからでもある。伊丹は、外務省に勤めていたと言う肩書きだけでなく、その後も常に最先端の情報を集め、勉強していたのだ。
近頃は、仕事が楽になったこともあって、仕事が終わると伊丹の個人的な関心での、短い旅を始めていた。渡り鳥の実態に興味を抱くと、日本と中国を行き来する「交流」の実際を見に行った。チチハルの仙鶴湖はジャロン自然保護区とも呼ばれているらしい。巨大な湿原に心を奪われた。丹頂鶴のゆっくりした舞はいつ見ても気持がいい。その鶴を育む大地と重ねて見ることのできる幸せを伊丹は感じたりした。
今回は、チベットのラサ行きだった。ラサ大学訪問が仕事なのだが、それとは別の楽しみも伊丹は抱いていた。開通したばかりの青蔵鉄道で上海からラサに行くことそのものである。列車が富士山よりも高い所を走るなど日本にいては想像し難い。50時間にも及ぶ列車の旅は、伊丹にとっていわば「冥土の土産」に相当する。3両の連結機関車に牽かれた14両編成は、伊丹が今まで見たことのない景色をゆっくり展開して見せた。ヤクが高原のあるとも見えない草を食んでいる。
ラサではチベット族の多く住む場所に宿を取った。すぐ近くの大昭寺や小昭寺の周りの店や客はもとより町全体がチベット族の居場所であるようだ。プタラ宮の主であったダライラマが印度へ亡命したニュースは伊丹がまだ若かった時代に耳にしていた。彼の夏の間の離宮も見学したが、既に荒廃している箇所が多かった。チベットの歴史書も本屋で目にしたが、ダライラマが権力の頂点に戻ることは考え難い気もする。
帰りは成都まで飛んだ。濃霧のために6時間も遅れたラサからの出発になったので、三国志の蜀の拠点の散策は止めにした。飛行場が目の前に見えるホテルを紹介してもらい、翌夕には南京に飛んでいた。高校時代の友達が、南京で日本語教員をしていることが分かったからだ。その後、蘇州の北、黄海にも接する塩城の丹頂鶴の保護地も一目見て蘇州に入った。
どちらが本命か言えなくなっているが、『上海地区外国人スピーチコンテスト』で二位になった蘇州大学留学生が福岡出身だと聞き、その顔を見たいと思っての蘇州行きにもなった。
その学生、加藤紅は、日本では受験競争に負けた側に属する。しかし、実際に会った加藤は実に魅力的であった。こうした若者を自分の大学はもとより、全国の、とりわけ有力とされる大学が今以上に獲得していく努力をしたい、しなければならない、と率直に思った。
それらの感想を抱けるとは伊丹自身予想していなかった。だから、その間の旅の成果の有無にかかわらず、今回は、更に足を延ばすことにしていたことになる。上海から飛んで行ける丹東である。
かねてから朝鮮戦争時の中国義勇軍に参加していた日本人兵士の痕跡を尋ねたいと思っていた。そう思ってもこれまではそれだけで丹東に足を向ける時間がなかった。今回は、時節柄でもあるが、興味を抱いていた朝鮮と中国を行き来する列車を見たいとも思ったのだった。
日本を出る前、航空券は、福岡から上海までと、大連から福岡に戻る往復券として購入していたのである。
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