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作品名:『蒼の揺曳』 作者:あるが  まま

第10回   10 寒山寺
    その10 寒山寺

艶淑、紅そして亭亭の三人連れは、大学の西門前から駅近くまで出、寒山寺方面行きのバスに乗り換えた。

距離は余りないからすぐに着く。でもバス停から寺までは少しの距離があった。

楓橋路に戻る格好で15分も歩いたろうか。1500年も前に造られた北京と杭州を結ぶ運河は、寒山寺の向こう側にあって、ここからは見えない。寺の黄色の壁が鮮やかで、その先の塔も近づいてくる。

塀で囲われたお寺の入り口がどこか、三人とも分からず少しモタモタした。

小さな入り口の前の小さな椅子に腰掛けた男が二人いた。右手であっちと指示した。

ぐるっと廻る感じで入場券売り場に出た。

さほど大きくはない門をくぐった。寺内に入ると大勢の人がいる。幾つかの建物を一つ一つ抜けて行くと二人の像が見えた。寒山殿だ。

紅は思った。中国人との美意識の違いである。入ってすぐの四天王にも感じていたが、金色に輝く寒山拾得像は特に似合わないと思った。カラオケバーで歌っているように見えるのも好きでない。

一方で高校の漢文で読んだ張継の詩を紅はすぐにも思い出した。この寺のいたる所にこの詩の書があるのにも気づいた。何気なく見ていて、「李大?」と記されたのも目に飛び込んできた。五四運動の指導者で中国共産党の創始者の一人でもあることは知っていた。高校時代の国語の教員から聞いたことがある。蒋介石が国共合作を嫌って、孫文亡き後、上海で白色テロルを強行した時期、東北地域の軍閥張作霖がこの偉大な共産党員を殺したのだと言う。これら珍しい人たちもここに来、求められては張継を偲んで書いたのだろうか。紅は面白いと思った。

「姑蘇城外寒山寺 夜半の鐘声客船に到る」、口に出した。

船はどこを走っていたのだろう、と不意に思って、紅は二人の方を振り返った。

艶淑は寒山寺の殆どに興味を抱いていなかった。張継の詩は暗記させられていたので知ってはいた。隋の煬帝が造らせた大運河、京杭運河と名づけられている運河の船の集積地が、蘇州ではここ寒山寺に隣接していることも既に思い出していた。張継は北京からの長い旅の途中、寒山寺に近づいて来た頃に鐘の音を聞いたのだと言う。

日本人ツアーを案内する中国人ガイドが、「寒山は乞食です」、と説明しているのも耳にしながら、諸々の歴史的事実を、艶淑は思い出すことになった。しかしそれはそれとしても、来てはみたものの寒山拾得にも寒山寺そのものにもそれ以上の興味を持つことは出来なかった。

ただ、二人の友人がそれぞれに抱くものは異なるにせよ、感じ入っている顔を盗み見るのは楽しかった。それだけでついて来た甲斐があったと艶淑は思った。

その時だ、亭亭が「あっ」と声を上げた。何事ならん。紅も艶淑も亭亭を見た。

亭亭の目は、目の前の金色の二人像を依然として見ていた。森鴎外の『寒山拾得』が鮮やかに思い出された。「寒山拾得」と「普賢文殊」。不思議な構図のこの像を見ながら気づいたのだ。

いつもは忘れてしまっているほどの、存在感もなく変哲もない父親の名前は、ここから来ていたのだ。母が語る時に出ていた叔父の名前「普殊」も、同じく普賢・文殊だった。会ったことなどない叔父だが、彼の名前もまたこの二人の僧にからんでいたのだ。

亭亭はこれまで気づかないでいた迂闊さを恥じた。

全てが分かった。

二人の息子に、普殊、文賢と名づけた祖父の願いに今出会った気がした。

これだったのかあ、と改めて複雑な気持になった。父の兄弟の名前の由来、父の夢、母の願い、そして森鴎外の『寒山拾得』にからんだ自分の卒業論文、これらが交錯し暫し頭を占めた。

電話のコールサインが鳴った。亭亭のだ。

商吉郎からだった。「無事に着いている。ありがとう。」亭亭は素早く電話を切ろうとした。が、相手の要求に応える形で「今、友達と一緒。念願の寒山寺。」それだけを付け加えて切った。

新しい蘇州の電話に切り替えよう、と亭亭は思った。

自分は現状脱出を図るために必死に生きたい。だから逆に仏教的と言うより道家的な生き方にも憧れる。『寒山拾得』を選んだ遠因は、自分の奥底に矛盾して存在するそうした深層心理の反映なのかも知れない、と亭亭は思っていた。しかしそれだけではなかった。私の中に流れる血も関係していたのだ。

卒論を書き終わっても、そして今の今まで気づかなかった父親の名前の由来。それを体得した。深く感じてしまった。

今の瞬間の父親の存在を、事前に意識していたらもっと違った卒論ができていたかも知れない。

亭亭は少し悔しく思った。しかし、それも含めて自分の運命の不思議さを確認することになっていった。

寒山寺は来てよかった。来なければ気づかない大事なことがある。亭亭は心から思った。

京杭運河を見るのは、もうどうでもよくなった。遠くから確認すれば充分なのだ。

次は、もう一度徐州に行ってみよう。徐州でも少し時間をかけると、何かの発見があるかも知れない。亭亭は決意した。

一昨日は徐州からの列車の中だった。徒労に終わった徐州での数時間のことがまた思い返されてきた。列車の中でも何度か考えていたことであった。

ちょうど二ヶ月前のことになる。

卒業して虎頭の家に帰った時、母の郭明が2枚のボロボロになった紙を見せた。10月国慶節休みの話の時には、母が一言も触れていなかったもののようだ。

一枚には「郭明」と記されていた。

「子どもの時に父ちゃんに書いて貰った紙は失くしてしまったと言っていたろう。これはね、だから一緒に住むようになった時、もう一遍書いて欲しい、と言って書いて貰った物。このお守りと一緒に大事にしているんだ」小さな青龍刀を一緒に見せた。

「そうだったの。これもいい話ねえ。」
郭明は少し恥らったように横を向いた。

「じゃあ、こっちのは。」さらにボロボロになった紙を見た。
「それそれ。これを見て欲しいと思ってね。」郭明は亭亭の顔をうかがった。

女文字だった。「楊青 徐州 獅子山」とかすかに読めた。

「これ、なあに。」
「これはね。父ちゃんが事故で死んだと聞いて、お前を負ぶって駆けつけた時、父ちゃんの持ち物だと渡された中に入っていたんだ。捨てようかと思ったけど、そのまま取っといた。大事なものだったろうからね。」

「お父ちゃんの、大事な思い出の人なのだろうか。」亭亭は若い日の父親を想像した。

「あのね、徐州と言うのはね、蘇州と同じ江蘇省の市よ。」

「えっ、そうなの。そうだったのか。」郭明は何度も繰り返した。

「蘇州に行ったら調べてみておくれよ。」母は改まった言い方をした。

「えっ、探すの?探すと言ったって、・・・・。」

亭亭は返答に窮した。でも母の頼みである。

「うん、調べてみる。」自信は全くなかった。でもそう応えなければならない母の気迫を感じていた。

亭亭は、蘇州に向かう時、ハルビンから徐州行き列車の切符を買った。これがハルビンから上海方面に行く一番安い切符でもあったのだ。

徐州駅に着いたら、安宿に荷物を置いて、獅子山を探してみる、そして宿に戻り翌朝の列車に乗って蘇州に向かう。

この計画通りに行動してきた。

所詮、疲れた身体では亭亭の行動力でもたかが知れていた。獅子山は、徐州駅からさほど遠くなかった。漢代の兵馬俑博物館や、お墓があった。そこに楊青が住んでいたとは思えない。「獅子山」は住所でないのだろう。それらを知っただけで、追究するのを止めた。気力が続かなかった。

宿に戻ると部屋には3人の女性がバラバラにいた。何となく気になる人物たちであった。フロントに預けていた荷物をしっかり抱えたまま、うつらうつらしながら、朝8時の列車を待ったのだった。

しかし、寒山寺での発見で、亭亭は親のゆかりの地を歩むことも自分に与えられた義務、仕事である気がした。いつ行けるか定かではない。しかし次は、もう一度の徐州行きだ、と亭亭は心に決めた。


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