蒼の揺曳
その1 思い出の地 列車が速度を落とした。乗客の群れは我先にと荷物を抱え入り口に向かう。ひと際の喧騒が耳についた。
亭亭は腰を下ろしたままだ。座席に座っての一晩はさすがに疲れた。寝台券は亭亭たちには勿体ない 。ハルビンの駅は久しぶりだった。そして次にこの駅に降り立つのはいつの日のことかを考えていた。
亭亭は人がいなくなり空いた座席に足を乗せた。やっと届く網棚の自分の荷物に手をかけた。重たい。亭亭が小柄な自分を嫌になる時だ。色々な資料を入れていた。おまけに母親が前夜無理に積めてくれた食べ物で、鞄は一層はちきれていた。母親の思いが迫ってくる。
群れの一番後から体の1.5倍はありそうな鞄を握り締めた。列車の降車口に足を乗せた。ホームまでの高さが1mもある。各車両につく乗務員が鞄に手を添えてくれた。危なかしくって見過ごせないからだろう。亭亭は抱え直して階段を降り、のろのろ進む。そしてまた階段。上がってやっと改札出口にたどり着く。切符を仕舞い込んでいて慌亭亭探す者が出る度、このおびただしい客達の列は停滞を余儀なくされた。
駅改札口を出るとそこには大人たちが押し合いへし合いでいる。お金になる人物を何人もが狙っている。てぐすね引いて待ち構えているのだ。多くの駅で見られるありふれた光景。
亭亭は寄ってくる群れには目もくれず、ただ前へ歩いた。黄色いTシャツに汗が滲んだ。Gパンが荷物と擦れあった。このままバッグを持ち続けるのは無理だと思った。亭亭のバッグに付属するキャリアは重すぎて、もはや役を果たしていなかった。車が回転せぬまま駅頭のコンクリート路面を滑った。ぶしつけな男達はお金に与ろうとしつこい。亭亭は「荷物預かり所」の前に立った。「幾ら?」亭亭は尋ねた。店番の男は「10元」と応えた。いつもの亭亭だったらどんなに重いものでも持ち歩いたろう。しかし今日の亭亭は違った。
荷物がなくなると元気になる。タクシーに乗らずに済む。駅前からバスでハルビン師範大学に向かった。すでに新学期は8月7日に始まっている。見知った誰かに会えるだろう。知った顔に会えなくても構わない。校舎を見ればよかった。図書室に行きたいだけかも知れない。ハルビンに降り立つことも、ましてや師範大学の門をくぐることなど、これ以後何時あることか。亭亭にはないようにさえ思えた。
バスを降りた。ハルビン師範大学は少し戻らなければならない。この余分なことも亭亭には惜しみたい気持ちになった。
なじみの校舎の警備のおじさんは替わっていた。にこやかな手を上げる小太りでなく、細身の中年男に変わっていた。身分証明書の提示を求められた。卒業生だと答えるとそれ以上の追求はなかった。エレベーターの係員は、亭亭を覚えていた。学生会の仕事をする時や教員の手助けの時だけ例外的に使える教員専用エレベーターに何度か乗っていたからだろう。
図書室は6階にある。閉まっていた。向かいの部屋も誰もいない。遅刻の学生が横を過ぎた。
先生達の部屋に行く気持ちはなかった。学部長の部屋も書記の部屋の鍵も掛けられていた。以前からそうだったから、亭亭は驚かなかった。
学生食堂辺に行く気になった。最後の自分たちの部屋だった棟はその先にある。小柄な亭亭に話しかけてくる者は誰も居なかった。それが亭亭にはむしろ有り難かった。
寮の窓の一つ一つを見上げた。思い出が甦る。みんなはどうしているだろう。亭亭は卒業後の同級生たちのことを思い浮かべた。特に親しいわけではなかったが、玲玲の顔が浮かんだ。すでに日本に行っているはずだ。
それから不意に吉郎の顔が浮かんだ。見上げるほどの上背の男だ。大連で仕事をしている。苦労人の持ち味を発揮しているだろう。大男に似ぬ細やかな配慮が他の同級生の中でも目立った。亭亭にも新鮮に映っていた。
卒業後家に帰って居た時も電話を何度かもらった。懐かしい一人だ。でもそれ以上にはならない。既に過去の人だった。
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