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作品名:遺された歌 作者:卯月

第9回   9 開いた扉
   9 開いた扉

 ムクはもう、したいことや思っていることを文字でかなり伝えられるようになった。もちろん知っている言葉の範囲内だから複雑な感情は表現できないが、だいたいのことはそれで何とかなっている。伝わることがわかったからだろう、態度も落ち着き出した。落ち着いて次に何をやるべきか考える。あるいはすぐに行動する。そしてよく笑い、よく食べ、そして時には怒る。ときどきうまく伝わらずイライラすることもあるが、そういうときは私は辛抱強く言葉を捜してやる。「そとにいきたいのに、あめでいかれないからいやだね」とか「このまえたべたカレーが
おいしかったから、またたべたい」とか、少し長い文を教えると、ムクはまじめな顔でじっと考えている。
 この子にこんなに豊かな思いが詰まっていて、そしてそれが言葉という出口からあふれ出てくるのを見ることが出来るなんて、出会ったころに想像出来ただろうか。短くなった古着のスカートを見ながら、私はこの子に服を買ってやりたいと思う。読み尽くしてしまった絵本のほかに、新品の本を買ってやりたいと思う。ちゃんとしたレストランで、おいしい食事を食べさせてやりたいと思う。ぬいぐるみや人形もほしいだろう。ミヨコさんの持っているようなピンや指輪や腕輪もしてみたいだろう。
 私はハローワークへ仕事を捜しに行く。

 仕事はない。そう簡単に見つかるはずはなかった。学歴も資格もなく川原の掘っ立て小屋に住む人間に、日雇い以外の仕事が回ってくるわけがない。そんなことは知っていたはずだった。知っていて私は自分の意欲にわくわくしていただけだ。面接を受けられればいい方だった。それだってハローワークの窓口の機嫌一つでなくなったりもする。
「ヒロさん、ねえ。あなたなんで今頃ここへ来るの? あと五年早ければもうちょっとましな仕事があったのに。五年間何してたわけ?」窓口の男は薄ら笑いを浮かべながら言う。
 私は椅子を蹴って立ち上がりたくなる。----あんたこそ五年間何してた? ここに座って偉そうにそういうことを言ってただけだろう。それがそんなに素晴らしいわけ? それがあんたの人生なわけ? オレはあんたみたいになりたくないから五年、いや十五年こんなところに来なかったんじゃないか!
 しかし私はムクの顔を思い浮かべて言葉を飲み込む。飲み込んで、窓口男がパソコンの画面を見ながらぶつぶつつぶやくのを聞く。「ないよねえ……年齢がねえ……せめて住所があればねえ……」
 これが社会だ。私が背を向けてきた社会だ。

 私はそれでも歯をくいしばって職捜しに通う。いくつか面接までこぎつけたが、全部落ちた。これでもう後はないという会社の面接に落ちたとき、私はムクが来て以来自分に禁じていたことを破ることにする。
 行きつけの飲み屋での久しぶりの酒は、喉から胃から体中に染み渡った。……ああ私は一体何を頑張っているんだろう。最初から無理だったんだ。一日だけの仕事の後、こうして持っている小銭を勘定しながら飲んで帰る生活でいいじゃないか。それ以上は望まないはずだった。明日なんてなくていい。今日生きていればそれでいい。これもムクのせいだ。あの子が来たおかげで私の生活はめちゃくちゃだ……。
 酔いはあっという間に私を潰す。


「ヒロさん、ヒロさん!!」飲み屋のおやじの声で目を覚ました。「大変だよ、あんたんとこの女の子が……」
「起きて! ヒロさん!!」
 聞いたことのある声が重なって私は肩をゆすられる。よだれを拭きながらゆっくり目を開けると、はげ頭のおやじとタケさんの険しい顔が私をのぞきこんでいる。
「なに?」
 居酒屋のカウンターでつっぷして眠っていたらしい。頭がズキズキする。でもおやじはともかく、なぜ川原のタケさんがここに? そのタケさんが血相を変えて私の耳元で叫ぶ。「ムクちゃんが溺れたんだ!」
「えっ?」
「川で。ミヨコさんが目を離した隙に。救急車で運ばれた」
 私は我に返る。「どこに」
「A病院」
「いつ」
「二、三時間前だ」
 私は店を飛び出そうとして、あわててズボンのポケットからあるだけの小銭をカウンターに置き、おやじの心配そうな顔を後に店から走り出る。
「ケンさんが一緒に行ったから。オレはミヨコさんが待ってるから帰る。タクシーで行くといい。これ」
 後ろから追ってきたタケさんが、私の手を取って握りしめた。「みんなからのカンパだ」
 手を開くと、千円札が何枚かといくつかの硬貨があった。
「早く行ってやれ。あんたがいそうな場所を捜しててずい分時間がたっちまった」
 私がお礼を言う前にタケさんは向こうから来るタクシーに手を挙げ、「落ち着いてな」と言い残して足早に立ち去った。

 タクシーの中で私は、すべてが夢であってくれと祈った。ムクが溺れたこと、いやそれよりムクという子がうちに来たことそのものが夢なんだと。そう、全てが夢ならば私はこんなときに酔いつぶれていた自分を責めなくて済むし、このまま川原に帰って寝ればよいのだし、仕事を捜す必要もないし、全てはもとのままだ。
 でも同時に頭の半分ではムクの無事を祈っていた。絶対に死なないでくれ。生きていてくれ。お前がいなくなったら私は……。
 病院に着くと札を何枚か運転手に渡し、釣りも受け取らずにタクシーから飛び降りる。夕暮れ間近の病院には出入りする人が誰もいない。私は正面入口を通り越し、救急センターの赤いランプ目指して全速力で走った。
 自動ドアが開くのももどかしく、扉にぶつかりながら中に入る。受付で名前を言い、ムクがどこにいるか聞く。集中治療室。どうしてこの女はこんなにのんびり話すんだろう。あの廊下をまっすぐ行って突き当たったら右に行って……。私はまだ説明が終わらないうちに廊下を走り出す。何人かの人にぶつかったがあやまっている余裕はない。
 集中治療室の扉が見えた。「治療中」のライトが目に入る。そのまま治療室に飛び込みそうになったとき、誰かに腕を掴まれた。
「今治療中だ」
 ケンさんだった。「大丈夫、ムクちゃん生きてるよ」
 私は返事ができず、ケンさんをじっと見るだけだ。
「意識はまだ戻ってないけど、きっと大丈夫だ」
 その場でへなへなと座り込みそうになる。治療室わきの長椅子に座ったケンさんは、私を隣に座らせると静かな声で話し始めた。
「俺今日はたまたま家にいたんだ。誰かがドアどんどん叩くんで出たら、ミヨちゃんが泣きながらムクちゃんがいないって。タケさんと捜したら、橋の下の渦巻いてるとこで溺れてた。ほら、昨日の雨で川は増水してたからさ。知ってると思うけど、ムクちゃんこの頃行動範囲が広がっただろ。ミヨちゃんが追いつけないときがあるみたいなんだ。ちょっと目を離した隙に川に入っちゃったらしい」
 私は頭を抱えて座り直す。
「悪かった、俺たちがいながら」
 いや、いいんだ。悪いのは私だ。私が早く帰ってさえいれば……そのとき治療室のドアが開いた。私は弾かれたように立ち上がる。青い上衣を着た医者を前にして言葉がつまる。喉がカラカラなことに気づく。舌が喉に張り付いている。
 医者が私を見て言った。「お父さんですか」
 私は思わずうなづいた。医者は事務的に続ける。「一命は取り留めましたが、まだ意識は戻りません。右足を骨折しているし、外傷もあるので、入院して一晩様子を見ましょう」
 私の舌は張り付いたままで息もできない。何も言わずにらんでいる私に代わって、ケンさんが頭を下げたのがわかった。その後、移動ベッドに寝かされたムクが看護婦に囲まれて出てきた。私はかけ寄ってベッドにしがみつく。「ムク、ムク!」
 初めて声が出た。その大きさに自分で驚く。でもムクは目をつぶったままで、ピクリとも動かない。腕に刺さった点滴の針や、腕の包帯や顔のガーゼが痛々しい。針を抜こうとした私の手をきつく掴んで、看護婦が言うのが聞こえた。「今から病室に移動します。大部屋になります。受付カウンターで入院手続きをしてきてください」
 私の前をムクを乗せたベッドが通り過ぎる。呆然と見送る私の肩をケンさんがたたく。
「いっしょに行こうか」
 私は首をふる。
「わかった」
 去ろうとするケンさんに向かって私はあわてて言う。「ありがとう、世話かけた」
「いいって。じゃ」

 ケンさんが去った後の暗い廊下を、私は受付まで急ぎ足で行く。ムクが最後の急患だったのか、病院内はさっきより静かだ。受付の女性は替わっていた。出された書類にウソの住所を書き、ウソの名前を書き、続柄に長女と書く。幸い入院費と治療代は退院のときでよいというので、印鑑の代わりに拇印を押して入院手続きを済ませ、教えられた病室に向かう。
 エレベーターに乗って五階、いくつもある病室の一つにムクは寝ていた。ベッドは六つあるが、患者はムク一人だけだ。私はベッドの脇に立ち、ムクを見つめる。ガーゼと同じように白い顔だ。生きているのだろうか。私は息をしているのか、心臓が動いているのか確かめることもできず、ベッドの脇に立ち尽くす。
 私にはわかっていた。あの扉が開くのが。何年もカギをかけて閉ざしていた心の奥の奥の扉。もう抵抗はできない。私は目をつぶり、扉がギィーッと音を立てて開くのを感じている。
 
   

 ドアがただならぬ音でノックされたのは、夜中の一時を回った頃だろうか。オレはマモさんの帰りを待っていた。
 仕事から帰ると、マモさんがいなかった。いつもならまた飲みにでも行ったのだろうと気にしないのだが、そしてその通りに飲んで帰ってくるのが常だったのだが、その日はなぜかイヤな予感がした。そしてマモさんの行きそうな場所を捜して回った。カギはあけたままで。だってマモさんはカギを置いていったのだから。どこを捜してもマモさんはいなかった。部屋でまんじりともせず待ちながら、今晩一晩帰ってこなかったら警察に捜索願いを出そうと思っていたところだった。オレはドアのノックの音に弾かれたように立ち上がり、何歩もない玄関まで走っていってドアを開けると、そこにいたのは青い顔をしたタエコだった。
「ああヒロくん。マモルがね、マモルが……」
「マモさんがどうした」タエコがここへ来たのは久しぶりだと思うヒマもない。
「薬飲んだの、睡眠薬いっぱい。今病院に運ばれたわ。ああ、どうしよう」
 タエコはそのままオレの腕の中に倒れ込む。オレはタエコを支え、大急ぎでアパートを出てタクシーを拾う。タクシーの中でタエコは泣きながら説明する。今日ふらりとマモさんが訪ねてきたこと。追い返すわけにも行かず、少し話して自分は仕事に出かけたこと。深夜戻ったら、ソファの上で仰向けになっていたこと。そばにはウイスキーと睡眠薬の空ビンが落ちていて、何度呼んでも揺すってもたたいても起きなかったこと。
「あわてて救急車を呼んだの。いっしょに行こうとしたけど、ヒロに知らせたほうがいいと思って。だって、だって万が一……」
 オレは震えるタエコを抱きしめる。ゆうべマモさんを抱きしめたように。それ以上二人は何も言わなかった。

 病院のベッドにマモさんは横たわっていた。布をかけられ、顔だけ出して。目はつぶったままだ。とても白い顔。
「残念です。手は尽くしたのですが、手遅れでした」医者がすまなそうに言う。
 声を上げて泣き出すタエコ。オレはひざまずいてマモさんのやせた頬と、広い額と、形のよい眉と、くぼんだ目をなぜる。
「マモさん、起きて。いっしょに家に帰ろう」
 でもマモさんは起きなかった。いっしょに家に帰りもしなかったのだ。



 私は顔を覆った。涙があふれ出てくる。あのときまったく流れなかった涙が、時を越えて今私を飲み込む。
 ああ、神様。どうかマモさんを連れて行かないで。マモさんを邪魔者扱いしたオレがいけない。罰を受けるのはオレの方だ。マモさん、ごめん。マモさん、許して。だから行かないで。一番大事なのは金でもレコードでも女でもない。夢を一緒に見られる人なんだ。その人さえいれば自分は生きていられる。酒を飲んでもいい。昼間からゴロゴロしていてもいい。その人と一緒にいられるなら、それでよかったんだ。どうしてそんな簡単なことに気づかなかったんだろう。どうしてそのことをしっかり心に止めて、笑って過ごせなかったんだろう。
 俺の居場所。それはマモさんと過ごしたあのアパートだ。それなのに俺は逃げた。受け止めず、逃げた。だからマモさんは行ってしまったんだ。そのあとだって俺はずっと、立ち向かわなければならないものから逃げていた。マモさんはなぜ死んだのか。俺はどう生きていくべきだったのか。全てにふたをし、考えることを避け、そして今までずっと時間の外で暮らしてきた。ここではないどこかなんてない。永遠の自由なんてないんだ。それを信じて、それを信じるのが生きていくことだと思い込んで、俺は全てを拒否してきた。どんなに世の中がクソでも、その絶望と苦しさと、散らかった希望と夢とを集め、全てを一つにしたときに見えてくる道を捜さなければいけなかった。それはとても難しい。間違うかもしれない。でもやり直すことは出来る。逃げて破滅してしまうより、刻まない時の外で生きるより、それはずっとずっとましだ。永遠の自由なんてない。でもその代償を見つけることはできるはずだ。
 俺は大声を出して泣く。泣きながら思う。俺の居場所はここ。ムクのいる場所だ。彼女と生きていく、それがやっと見えてきた俺の道だ。
 ああ、ムク、生きてくれ。そして、俺といっしょに家に帰ろう。今度こそ、ほんとうに、家に帰ろう、俺と一緒に。

 俺はふいに視線を感じて泣くのをやめる。ムクが目をあけてこっちを見ていた。俺は涙をふき、彼女を見つめる。ムクはゆっくり手を伸ばすと、俺の腕をさわった。俺はその手を握る。細く白い手をぎゅっと握る。ムクがかすかに顔をしかめる。俺は手を放し、ムクの頭の後ろに両手を入れ、呼吸器ごとムクを抱きしめる。そして全てのものに感謝する。


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