20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:遺された歌 作者:卯月

第8回   8 傷より痛む場所
   8 傷より痛む場所

 マモさんは変わり果てていた。ドアにもたれてこっちを見るマモさんは、頬はやつれ、
髪の毛はもつれ、ヒゲは伸び、シャツはヨレヨレ、目だけが前に増してギロギロ光ってい
た。どこから見ても浮浪者だ。しかも年齢より二十才くらい老けて見える。
「おまえ、変わったな」それがマモさんの第一声だった。
 そっちこそ、という言葉を飲み込む。「どこにいたの」
「いろんなとこだよ」
「タエコは?」
 マモさんはオレをギロリとにらんだ。「あいつとは別れた」
 そしてオレを押しのけて部屋に入り、今までそうしてたようにゴロリと畳の上に寝転ぶ。そのやせた背中を見ると、今まで言おうと思っていた言葉が全部引っ込んでしまう。オレの口から出たのは一言だけだった。「お帰り。マモさん」
「ああ。しばらく厄介になるから」こちらを向いたマモさんはニヤッと笑った。「と言っ
てももともとここは俺んちだった」
 二人は声を合わせて笑った。久しぶりだった。


 でもオレたちは元通りにはならない。オレには女の子がいて、マモさんは何もかも失く
してきた。オレは仕事は一人分しかしていないし、マモさんはまた何もせず一日じゅう部
屋にいる。ポスターがはがされていることやギターをしまったことについて、わかってい
るのかいないのか何も言わない。言わないでゴロゴロしている。オレは女の子が来るたび、そんなマモさんを追い出さなければならなかった。
 音楽をしないマモさんはただのクズだ。あんなに会いたかったのに、喜んでもらいたく
てベースも買ったのに、ほめてほしくて曲まで作ったのに、今はもう邪魔でしかない。タ
エコのこともあった。彼女はマモさんが帰って来てから、オレを訪ねて来なくなった。も
ちろんマモさんとオレ二人がいる場所に顔を出したくはないだろう。でも連絡くらいくれ
てもいいと思う。彼女と会っていたときはマモさんの穴埋めだと思っていが、それは間違
いだということがわかった。マモさんがいてもオレはタエコに会いたいのだ。彼女は周到
に自分の住所も電話番号もオレに知らせてはいない。いつも会いに来るのは彼女のほうか
らだったのだ。マモさんに聞けば連絡先はすぐにわかっただろう。でも口が裂けても聞くことは出来なかった。そしてマモさんがいることがよけいタエコを思い出させた。
 どうして帰ってきたのか。帰ってきたのに、なぜそんなふうにばかりしているのか。オ
レはマモさんがクスリに手を出しているのではないかと疑い出していた。ときどき様子が
おかしいことがあるからだ。すごくはしゃいでいるかと思うと、死にそうな顔をして横に
なっている。オレの財布から金がなくなることもあった。オレは金の管理がいいほうでは
ないから、証拠は何もなかったのだが。
 そういうマモさんを見るにつけ、タエコの存在はオレ以上にマモさんにとって大きかっ
たのだということがわかる。転がり落ちていくマモさんを引き留めていたのはタエコだっ
たのだ。いつも最悪の状態を迎えると、タエコが救っていた。彼女が意識していたかどう
かは別として。二人に何があったのかはわからない。タエコが放り出したのか、マモさん
のほうから出てきたのかはわからない。それにしても、とオレは思う。マモさんは甘えす
ぎなんだ。オレにも、タエコにも。
 ある日、ちょっとしたことで言い合いになり、激しいケンカになった。
「邪魔なんだよ、はっきり言って」
「おまえを拾ってやったのは俺だぞ」
「そんな昔のこと引き合いに出すなよ」
「本当のことだろ」
「今はただの飲んだくれじゃないか」
「おまえにはそう見えるかもしれないがな」
「それ以外に見えるわけない。うざったい役立たずのおやじだ」
「おまえこそ遊びまくっている役立たずのガキだ」
「働かないヤツは出てけよ」
「俺は崇高な仕事を頭の中でしてるんだ。出来ない奴がやっかんで言うな」
「崇高か何か知らないけど、形にして認められなきゃ意味ないだろ」
「こんなクソな世の中に認められてたまるか」
「そんなクソな世の中にさえ認められないあんたは、クソ以下だ!」
 マモさんはあやまらない。前のようにオレがほろりとくるような言葉も言わない。だか
らオレはほろりともせず、許しもせず、ドアを音を立てて閉め、外へ出る。
 繁華街で気の済むまで飲み歩く。行きずりの女の子と悪ふざけをする。名前も知らない
酔っ払いたちと、通りを大声で歌って歩く。肩がぶつかった若者と殴り合いのケンカをす
る。通報を受けてやってきたパトカーを見て、路地に逃げ込む。
 赤提灯のともる屋台で一人飲み直していると、どうにもやり切れなくなってくる。何が
どうなってしまったんだろう。どうして昔のようになれないんだろう。オレの夢はどこに
行ったのか。マモさんの夢はどこに行ったのか。何かが小さくズレて今大きなズレになっ
ているような気がする。どこで何がズレたんだろう。取り返しはつかないのだろうか。
 となりで飲んでいた女の人が、オレの顔の傷に気づき、何も聞かずにバッグからばん創
膏を出して貼ってくれる。でもそこよりもっと痛む場所があった。だれもそれには気がつ
かない。そしてそこはばん創膏を貼っても治らない。オレは立ち上がって屋台を出る。


 部屋に帰ると、マモさんはめずらしく布団の中で眠っていた。暖房をした気配はないか
ら、寒かったのだろう。オレは顔だけ洗い、となりに並べて布団を敷き、そのままもぐり
込む。残っていた酒のせいか、すぐに眠りに落ちた。
 どれくらいたっただろう。物音でオレは目を覚ました。初めは何の音かわからなかった。何かが詰まるような音。もれるような音。水道管だろうか。オレは目を開ける。違う、水道管じゃない。もっと近くだ。
 マモさん? オレはとなりの布団を見る。暗い中で目をこらすと、掛け布団がかすかに
動いている。そしてその中から音が----声がもれ聞こえる。押し殺した、うなるような、
震える声。
「マモさん。どうしたの」
 ささやいたつもりが、思いがけず大きく響く。一瞬声が止まり、そして掛け布団から少
しだけ出ていた髪の毛が引っ込む。すっぽり布団にもぐってしばらくすると、また押し殺
した声が聞こえ始める。オレは起き上がった。部屋を凍らせていた冷気が、瞬く間に肩に
乗ってくる。
「マモさん」
 言いながら布団の上からマモさんをたたく。すると、イヤイヤをするように布団が左右
に揺れ、声が----嗚咽が大きくなる。オレはマモさんの布団をはぐ。
 マモさんは布団の中で丸くなって泣いていた。肩を震わせ、手で顔を覆い、赤ん坊のよ
うに泣いていた。オレはにじり寄って、マモさんを抱き起こす。マモさんはされるがまま
に起き上がると、顔を覆ったまま今度は、あたりをはばからず大声で泣き始める。
 オレは胸を突かれた。思わずTシャツの上にパジャマを着たマモさんを両腕で抱きしめる。マモさんはオレの腕の中で、無防備に泣き続けた。凍える部屋の中で、マモさんの吐息と、オレの服をぬらす涙が温かい。
 オレに出来たのはこれだけだ。泣きじゃくる友人を抱きしめることだけ。それ以上のこ
とは出来なかった。


 次の日オレは二日酔いの頭を抱えて、まだ寝ているマモさんを残して仕事に行った。行
かなければならないことなんてなかったのに、何となく顔を合わせるのが照れくさかったのかもしれない。それきりもう会えなくなるとわかっていれば、仕事になんか行かなかった。一日マモさんといっしょにいて、イギーやジョニーの歌を聴いていればよかった。ギターを押し入れから出してきてマモさんが弾き、オレがそれに合わせてベースをつけてみればよかった。いっしょに食べて、いっしょに眠りにつけばよかった。
 それはすべて後から思ったことだ。人生には判断を誤るという瞬間がある。


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 2035