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作品名:遺された歌 作者:卯月

第7回   7 ピック代わりの十円玉
   7 ピック代わりの十円玉

 タエコさんが悪いわけじゃないと思う。けれど、あれから間もなくマモさんは仕事を辞
めた。金のためだけの仕事は悪魔に魂を売るようなもんだ、そう言って一日じゅう部屋に
いて酒を飲み、音楽を聴いてはゴロゴロするようになった。オレはそれでもがまんした。
マモさんには時間が必要だし、きっと芽が出て花が咲く日が来るだろうから、その日を二
人で迎えられるように今はがんばろう、と。
 でも仕事から帰ってきて、部屋じゅう散らかし、だらしなく酔っ払っているマモさんを
見ると、そういう気持ちもどこかへ行ってしまうことがあった。
「何だよ、酒ばっかり飲んで。少しはこっちの気持ちも考えろよ」
 オレが散らかった酒ビンや紙クズを片づけながらどなると、マモさんはうつろな目でニ
ヤリと笑って言う。「ヒロちゃん。今日はいくらで魂を売ってきましたか」
 オレはカッとなってマモさんの胸ぐらを掴む。「いい加減にしろ! こんなことしてて
楽しいのかよ!」
「えへへ。楽しいです」
 思わずなぐろうとして手を上げると、マモさんは首をすくめて恐怖に顔をひきつらせ、
あの大きな目を潤ませてささやく。「怒らないで。怒らないで、ヒロ。俺をわかってくれ
るのはおまえだけなんだから。俺が愛しているのも」
 オレは手を放す。マモさんは両手で顔を覆ってつぶやく。「すまない。こんな俺で」
 それでおしまいだ。オレはマモさんを許し、マモさんはまた酒を飲み始める。


 その後タエコさんはオレの前に姿を現わすことはなかったが、常にその影は感じていた。オレが早めに帰ったりすると、あの匂い----香水と化粧と煙草の混じった匂い----が残っていることがあった。そんなときのマモさんはでろでろに酔っ払っていたりしない。壁に寄りかかって音楽を聴いているか、ノートに何か書きつけているか、ぼうっと窓の外を眺めているかだった。流しはきれいに片づけられていて、ゴミも散らかっていない。それでもオレの胸はザワザワした。必要以上にマモさんに意地悪になったりした。
 何の権利があってオレにそんなことが出来るというのだろう。部屋は片づき、マモさん
は落ち着いていて、もしかしたらちゃんと食べて健康的に半日過ごしたかもしれないのだ。何よりも酔っ払っていないし、前向きに創作活動をしている。マモさんが飲む割に金が減っていないのは、きっと彼女が援助しているからだと思う。だいたい、友だちに恋人の一人や二人いたって不思議でもなんでもないじゃないか。それをいっしょに喜ぶのが友だちってもんだ。オレにだってそんなことはわかっている。
 でもそれならオレの存在理由は? 飲み屋に勤めているタエコさんの収入はきっとオレ
より多いだろう。もしかしたらマモさん一人養うだけの稼ぎはあるかもしれない。そしてマモさんに食事を作り、食べさせ、身ぎれいにさせ、セックスをし、曲を作らせることだって出来るのだ。オレに出来ないこと全てを。じゃあ、なぜオレはここにいる?
 わかってくれるのはおまえだけだって言ったじゃないか。愛しているのもって。オレは
その言葉にすがって、だらしなく寝ている目の前のマモさんに毛布を掛けてやる。


 ある日、めずらしく笑顔でマモさんはオレの帰りを迎えた。酒は飲んでいないようだ。
「新しい曲を作ったんだ。聞く?」子どものようにうれしそうに言う。
「へえ。久しぶりじゃん」
 オレは荷物を置き、ギターを手にしたマモさんのとなりにすわる。マモさんはコードを
押さえると、ピック代わりの十円玉でジャランと弦を鳴らし、ゆっくりと歌い出す。いつものしゃがれた声で。高音ではときどき裏返る切ない声で。オレは聴きながら、マモさん
の歌の魅力は曲だけじゃなく声にもあるんだと改めて思う。オレは曲の世界にすっかり
入ってしまった。イントロと同じ音階を鳴らして、曲が終わる。オレは現実世界に戻り、
拍手をする。
「どう?」
「すっごくいい」
「それだけ?」
「何か今までと違う。どう言ったらいいかわかんないけど」
「どういいか言えよ」
「うん。だからどう言ったらいいかわかんないけど、すごくいい」
「タエコはこういうふうにいいとかダメとか言うけどな」
 オレはカッとなる。「タエコは関係ないだろ」
「おまえはいつだって『すごくいい』だ。あてになんない」
「そう思うんだからしょうがないだろ。だったらきくなよ」
「おまえがいいっていう曲は今まで全部レコード会社に送ったんだ。いい返事があったの
は一つもなかったぜ」
「それはそいつらに聴く耳がなかったんだ」
「タエコだったら……」
「だからタエコは関係ないだろ!」
「何怒ってんだよ」
「オレの前でタエコのことは言うな」
「あれ? ヒロくん。もしかして妬いてんの?」
「うるさい!」
「俺のこと好き?」
「うるさい」
「あ、赤くなった」
 オレは乱暴に立ち上がり、夕飯の用意をするために台所に行く。
 マモさんが家を出たのは、それからすぐのことだった。


 タエコさんのところに行ったことはわかっていた。でも住所も電話番号もわからないか
ら連絡の取りようがない。オレは待った。だってギターもレコードも着替えも全部置いて
いったのだから。着替えはともかく、レコードとギターがなければマモさんは生きていら
れないだろう。きっと取りに来るだろうとオレは高をくくっていた。代わりのものをすぐ
買えるだけの財力がタエコさんにあるかもしれないなどということは、そのときのオレは
考えつきもしなかった。
 しばらく同じ仕事を続けていたが、マモさんがいなくなってからはそんなにきつい仕事
をする必要もなくなり、オレは最初のファストフード店に舞い戻った。アルバイトの人数
は増えていて、前のように昼夜なく働かなくてもよく、オレはシフト表に一カ月生活出来
る最低の時間を書き込んで、あとは部屋でマモさんを待った。
 マモさんがいなくなって、オレにも友だちがほかにいなかったことが痛切にわかった。
どうしてマモさんは出ていったのだろう。オレはマモさんに殴りかかろうとしたことを反
省した。酒ばっかり飲んで、となじったことを後悔した。タエコのことは言うなと言った
ことを取り消したかった。曲の批評を的確にする練習をしようと本気で考えた。けれどマ
モさんは帰ってこなかった。一月たち、二カ月たち、三カ月たった。オレは心のすき間を
マモさんのギターを弾くことで埋めようとした。教則本を買ってきて独習した。皮肉なこ
とにマモさんがいなくなってから金は貯まり、中古のベースを買うことが出来た。オレは
ベースの教則本も買ってきて練習した。
 マモさんのまね事をして曲を作り、録音もした。ひどい曲だということはわかっている。でもそうすることでマモさんを思い出すことが出来たし、帰ってきたときに話題を提供することが出来る。アレンジを変えてもらうことも出来るし、ドラマーを募ればバンドが出来るじゃないか。
 ライブには行かなくなった。一人では寂しすぎる。それはマモさんが帰ってきたときの
楽しみに取っておくつもりだった。
 オレは同級生たちが学校を卒業しそれぞれの進路を歩み出す頃、人と人とが織りなして
いく時の流れのその外で、過去も未来もない宙ぶらりんのすき間に何とか生きていた。


 半年がたった頃だった。雨が降っていた。雨の朝は静かだ。オレは夢と現実の間を行ったり来たりしながら、布団の中でうつらうつらしていた。こんなときは自分が今どこにいるのかさっぱりわからなくなる。……オレはまだ高校生で、今起きないと遅刻すると思っている……もうすぐマモさんが帰ってくるから早く起きなくちゃと思っている……今日は仕事に行く日だっけ? 休みだっけ?……母が台所で料理をしている音がする。いい匂いがする。休みの日の朝食はいつもより豪勢だ……
 オレは目をあける。本当に台所で音がしていた。料理のいい匂いもする。台所に目を向けると、部屋と台所を仕切る戸のすりガラスに人の影が映っていた。オレは飛び起きる。マモさん? まさか!
 布団にすわったまま戸を開けると、女の人がふり向いた。「あ、起こしちゃった? で
もちょうどいい、出来上がったところ」
 タエコさんだった。オレは寝ぼけていると思って目をこすった。確かにタエコさんだっ
たが、ずい分感じが違っている。そして気づいた。化粧をしていないし、髪を後ろで一つ
に束ねているし、それに少しやせたみたいだ。でも、なぜここへ?
「ほら、起きて。布団たたんで、テーブル出して。顔洗うといいよ。その間に食事の用意
しとくから」
 よくわからないまま言われた通りにし、オレは顔を洗って戻ってきた。テーブルには、
トースト、目玉焼き、サラダ、コーヒー、ヨーグルトまで乗っている。オレは朝食べたり
食べなかったりだから、こんな食事は久しぶりだ。
「さ、食べよ。お腹すいちゃった」
「ちょ、ちょっと待って。何であんたがここにいるの」
「食べようよ。食べながら話すから」
 オレたちはぎこちなく食べ始める。いや、ぎこちないのはオレだけだったかもしれない。こういうシチュエーションは苦手だ。友だちの恋人と、友だちヌキで彼女の手料理をいっしょに食べたりするのは。
 気まずい空気の中に食器の音のかちゃかちゃいう音だけが響く。その空気を破ったの
はタエコさんの弱々しい声だった。「……あいつ出てっちゃったんだ。ここにいるかなと
思ったんだけど」
 オレが黙っていると、タエコさんはコーヒーをすすりながら続けた。「今までもふらり
といなくなることはあったの。橋の下で一晩明かしたとか、ずっとパチンコしてたとか。
あいつそういうこと平気みたい。でも、一週間も帰って来ないのは初めてなんだ」
 オレは口を開く。「ここへは来なかったよ」
「そう。もしかしたらと思って食事の用意して来たの。あいつカギ置いてったから、それ
で開けちゃった。ゴメンね、驚かせて」
「いいって。久しぶりに栄養取れたし」
 何だか変だ。オレはオレじゃないみたいだし、タエコさんはタエコさんじゃないみたい
だ。そのタエコさんじゃないみたいなタエコさんは、急に眉根を寄せて泣き出しそうにな
る。「ヒロくん、私寂しい。どうしてあいつ出てっちゃったの」
 それから手を伸ばしてオレにさわる。オレはドキッとする。タエコさんは体をずらして
オレに抱きついてくる。柔らかいタエコさんの体がぴったりとオレにくっつく。香水の匂
いも化粧の匂いも、煙草の匂いも今日はしない。するのはシャンプーのいい匂いだけだ。
オレはおずおずと手を伸ばしてタエコさんの腰を抱きしめる。
「ヒロくん」甘い声を出して、タエコさんがオレの唇に唇を押しつけた。


 その最中オレは夢中だったから、唯一無二の友人の恋人と寝てしまったとか、ずっと夢
見ていた初体験の理想の女の子とはほど遠い人だったとか、これで彼女が妊娠してしまっ
たらどうしようとかは、後になっていっぺんにやって来たことだった。
 その後間もなくマモさんはタエコのもとに戻ってきた。それは、それから頻繁にオレの
所に通うようになったタエコが教えたことだ。オレはマモさんを裏切っているのを承知で、後から必ずすごい罪悪感が襲ってくるのも承知で、タエコが求めてくると拒み切れなかった。オレも寂しかったのかもしれない。でも寂しさをまぎらわす手段としては代償が大き過ぎたと思う。
 タエコと寝るようになってから、オレにはガールフレンドが出来た。同じ職場の子でオ
レより一つ年下の高校生だ。彼女はスポーツでもするようにオレとセックスして帰る。そ
の子がつき合っているのがオレだけではないことは、すぐにわかった。でもお互いさまだ。オレはときどきナンパしに夜の街に出た。女の子を引っかけるのは簡単だった。夜出歩いている子はだいたい声をかけてもらいたがっている。オレは若くて、自分で思っているほど見かけもひどいわけじゃないようだった。一晩限りの子もいたし、何回か会う子もいた。名前を覚えないうちに別れる子も、こっちが忘れていると向こうからオレの仕事場に連絡してくる子もいた。
 オレは洋服に気を使うようになり、髪を伸ばし、破れたTシャツはやめた。天井のジョ
ニーのポスターは、雨もりで取れかかったのを機にはがして押し入れにしまった。ベース
とギターも押し入れに押し込み、壁にはその代わりに洋服がかかった。
 何人もの女の子とつき合ったが、オレが一番好きだったのはタエコだった。タエコを抱
いているとマモさんを思い出せるからだ。それは認めたくなかったが、明らかだった。


 マモさんが戻ってきたのは、オレがそんな生活をしている真っ最中だった。


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