6 タエコ
マモさんとオレはそれから毎日、時間差で仕事に出かけた。店が開いている時間は長い のに三人しか店員がいないから、常時二人はいるように工夫しなければならなかったから だ。食事はたいてい店で余ったハンバーガーやポテトだった。オレはときどきほかのもの が食べたくなってそば屋に入ったりしたが、マモさんはどうしていたのだろう。たまに休 日がいっしょになると、部屋にこもってレコードをかけるか、曲を作っているか、ギター を弾いて歌っているかで、オレが言わないと食べることも忘れている。だいたいマモさん は音楽のほかには全然興味がなかった。TVはなく、新聞も取らず、いつも同じものを着 て、髪を無造作に伸ばし、これで仕事が接客業じゃなかったらヒゲもそらなかっただろう。 でもオレはそこが好きだった。それまで全てを曖昧にして生きてきたオレは、この二つ 年上の友人の影響をモロに受けた。「音楽は愛だ」マモさんは言う。「愛はすべてを奪っ てすべてを覆い尽くすだろ。だから俺には音楽しかないんだ」 マモさんの作る曲は、オレたちが好きな音楽とはずい分違っていた。アンプが買えなく て----オレが転がり込んだおかげで家賃は半分になったが、その分マモさんはレコードを 買ってしまうから生活水準は変わらなかった----アコースティックギターだけで歌うせい もあるかもしれない。でも何かが根本的に違っていた。マモさんのノートには詩や言葉の 断片がぎっしり書かれていて、オレのいないときにはカセットに歌を吹き込んでいるよう だった。そのテープをどこかに送っていたかは知らない。でもいずれプロになるんだろう とオレは思っていた。オレが楽器を弾けないことは、初めて会ったときにわかったらしい。 でも、いつかきっと、とオレは思う。いつかきっと楽器を手に入れて、マモさんと音楽で 暮らしていきたい。そうなったらどんなにいいだろう。それがオレのひそかな夢だった。 給料日には二人で必ず飲みに行った。食べることには興味のないマモさんだったが、酒 はいくらでも飲んだ。オレはそれまで堂々と飲んだことはなかったけれど、鍛えられて少 しずつ強くなっていった。酔っ払うとマモさんは必ず言う。「世の中クソだ」オレも合わ せて言う。「そうだ、クソだ」 「クソだ、何もかもクソ!」叫んでマモさんは立ち上がる。二人で飲み屋を出て叫びま くる。ありとあらゆる罵倒を繰り返し、塀を蹴飛ばし、石を投げ、走って逃げて最後には 二人で肩を組んで「アナーキー・イン・ザ・UK」を大声で歌うのが決まりだった。 オレはマモさんにロックバンドのライブに連れていってもらったことを忘れない。小さなライブハウスだったが、大勢の聴衆に押されながら跳ね回り酒とつばをかけ合い、ダイブしダイブされ、歓喜と興奮の渦に巻き込まれる。そこは音楽の力で生み出されるもう一つの世界だった。オレにはそっちの方が真実に思えた。客の注文を聞いて運んで会計をしているときにはオレはこの世に存在してない。でも跳ね回って叫んでいるときオレはちゃんと生きている。生き生きと生きてる。オレたちは正しい。世の中が間違ってるんだ。あんな大人になりたくない! オレたちはこのまま突っ走る! オレは髪を切った。はさみで短く。もともと固い毛だったから、ツンツンと立った。マ モさんは腹をかかえて笑った。「パンク・ロッカーらしくなったじゃん」 けれど、オレは満足だった。それだけで変われた気がした。今までのオレとはおさらば だ。新しい生活が始まったんだ!
ファストフードの店は、それからしばらくして二人とも辞めた。もっと割のいい仕事を するためだ。マモさんはその店では一応チーフだったが、給料はオレのに毛が生えたよう なものだったから惜しくはないと言った。時給の高い工事現場でオレは働き、体の弱いマ モさんは深夜のビルの警備や倉庫番をした。そういう仕事をすれば短時間で今までと同じ かそれ以上の賃金を得られるはずだった。その分出来た時間を、少しでも多く音楽に充て たいというのがオレたちの望みだった。金も欲しかった。レコードを買う金、楽器を買う 金、ライブに行く金、それからイギリスへ行って本場のライブを見るための資金。 でもそううまくは行かなかった。オレはきつい労働のあとでヒマさえあれば寝ていたし、マモさんも仕事に行かない昼間は眠っている。前のように勤務時間を操作して休日をいっしょにすることも出来ず、すれ違いの日々が続いた。 それでもオレたちの情熱は覚めはしなかった。思うように時間は取れなかったが、気に なるバンドのアルバムが出ればどちらかが買うし、聴きまくったし、マモさんは必死に曲 を作ってはそれをテープに吹き込んでいた。たまにいっしょにいられる時間が出来ると、 二人でレコードを聴きながら音楽の話をする。それがオレにとっては至福のひとときだっ た。 問題は金だ。この頃マモさんの酒量が増え、ウイスキーの空きビンが部屋にゴロゴロす るようになった。オレが仕事に出る時間にはもう飲んでいる。疲れて飲まないと眠れない んだ、とマモさんは言う。酒代は生活費を圧迫するほどではなかったが、貯金は確実に出 来ない。オレの楽器を買うという夢は遠のき、ということはマモさんと二人で音楽をやっ ていきたい夢もはるか遠くに行ってしまう。ライブは二回に一回は行くのをがまんしなけ ればならないし、このままではイギリスには何百年かかっても行けない。オレはあせり始 め、ある日公衆電話から実家に電話した。 「ヒロ? ほんとうにヒロなの?」電話の向こうのおふくろは涙声だ。オレは少しじんと なる。 「どうしちゃったのよ、何も言わずに出ていって。どこにいるの今? 何してるの?」 オレは事情を話す。友だちとアパートで暮らしていること。仕事をしていること。心配 しなくても充分食べてるし、寝てるし、ヤバいことは何もしてないから安心して……だ から……だから、金を貸して。ちょっと入り用なんだ。ベースを買えるくらい貸してくれるとうれしいんだけど。何年かかかるかわからないけど、ちゃんと働いて返すから……でもオレが金のことを言い出す前におふくろが言った。 「友だちってだれ? 何才の人? 男、女?」 オレはまた説明する。男に決まってるだろ。こっちへ来て知り合ったんだ。まじめない い人だよ。 「大丈夫なの? あんた、周りに染まりやすいから。暴力団とか、そういうの関係ないで しょうね」 じんとなったオレの気分はふっ飛んだ。おふくろはおふくろだ、変わってない。人を疑 うことにかけては天下一品だ。おふくろはオレの答えを待たず、続けざまにしゃべる。面 談は出来なかったけど、帰り次第いつでもOKだから。今帰れば卒業は出来るって先生は おっしゃってるわ。受験だってまだ間に合うし。だれも責めないから、すぐ帰って来なさ い。 面談。卒業。受験。何億年も前の言葉みたいだ。オレは無言で電話を切った。
ノックの音がした。ような気がする。オレはヘッドフォンを取る。ドンドン。やっぱり そうだ。マモさんじゃない。マモさんだったらカギを持ってるから。集金だろうか? こ んな夜遅く? オレはゆっくり立ち上がる。 玄関ドアをあけると、そこに立っていたのは化粧の濃い女の人だった。 「マモル、いる?」 女の人は無遠慮にオレのわきから部屋の中をのぞく。 「いません」 「今日休みでしょ」 「さっき出て行きました。急に仕事が入ったって」 「何よ、私と会う約束したのに」 「……」 「ちょっと上がらせてもらうわよ」 女の人はオレを押しのけて踵の高い華奢なくつをぬぎ、部屋の中に入る。おれはあわて てドアを閉め、あとを追う。 「いないって言ってるのに」 「ほんとだわ」念のため押し入れを開けて女の人は言う。「まったくすっぽかして」 「あの……だれですか」 「ああ、私? タエコ」 「タエコ……さん」 「聞いてない? マモルから」言いながらテーブルに肘をついて、断わりもなく煙草に火 をつける。短いスカートから肉付きのいい太ももがにょっきり出ているのが見える。大柄でグラマーだ。マモさんよりは少し年上に見える。煙をふうと吐きながらその人は言う。 「つき合ってんのよ、私たち」 初耳だった。マモさんは女の人に興味がないと思っていた。というか、マモさんには友 だちさえいない、オレを除いては。だから男であれ女であれ、こうしてマモさんを訪ねて 来たのはこの人が初めてだった。 「会えなくなったんなら電話くらいするのが常識でしょ。私、待ち合わせの場所で一時間 も待ったんだから」 「マモさんは電話嫌いですから」 「そんなの理由にならないっていうの……ところであんたは」 マモさんはこの人のことをオレに言わなかったのと同じく、オレのこともこの人に言っ てないようだった。「オレ、ヒロです。友だちの」 「いっしょに住んでるわけ?」 「そうです」 オレはちょっとショックだった。この人のことをオレに言わないのはかまわないけれど、オレのことは言っておいてほしかった。少なくともこの人よりはつきあいが長いんだから。 タエコという人はもう一度煙草を吸い込むと、煙をゆっくり吐きながら言った。 「あんた、あの人の歌聞いたことある?」 「ええ」 「いいと思う?」 「……思いますけど」 「そうだよね。すごくいいよね」遠くを見ながらまた吸い、オレに視線を戻す。「あのね。男はね、音楽聴いていいなあと思ったとき、そのミュージシャンが自己投影の対象になるわけ。ああなりたいってね。だからカッコとか同じにしたくなるでしょ。でさ、女の場合、女が音楽聴いていいなあって思ったとき、どうなると思う? もちろん男のミュージシャンに対して」 オレはわからない、と首をふる。 「恋をするんだよ。その男に。まあ、一体になりたいって意味では同じだけどね」 一本の煙草をうまそうに吸い終わると、タエコさんはマモルにあとでちゃんと電話する ように言っといて、と言って帰っていった。香水と化粧と煙草の匂いを残して。オレは窓 を開け、寝ないでマモさんの帰りを待った。 明け方すごく疲れた顔でマモさんは帰ってきた。オレはただいまを言う間も取らせず、 タエコさんのことを根掘り葉掘りきき始める。 「ちょっと寝かせろよ」マモさんは面倒臭そうにあくびをした。「電話しようとしたけど、小銭がなかったんだ。タエコは飲み屋の女さ。オレの歌聞いてコロッとなったわけ」 それだけ言うとマモさんはもう眠っていた。
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