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作品名:遺された歌 作者:卯月

第5回   5 ジョニーのポスター
     5 ジョニーのポスター

 次の日、私はカタカナのとなりにひらがなを書いた表を作り、壁に貼った。初めは読む
練習をする。カタカナを知っているので覚えやすい。対応する字がわかるようになると、
今度は書く練習だ。カタカナよりむずかしいのは大人でもわかる。けれど、絵本を読みた
いがためなのか、ムクはより熱心に、より早くひらがなを覚え始める。
 まるで学校のように私たちは毎日書いて読む練習をした。外は梅雨後期独特の激しい雨
が降り続き、川の増水や雨もりが心配だったが、私たちはそんなことを心配する余裕もな
いほど一生懸命勉強をした。ひらがなを習得したら、次は絵本だ。ムクはむさぼるように
読む。絵を見て、字を見る。繰り返し繰り返し読む。もちろん全部はわからないだろう。
しかし、絵と言葉の関連で何とか理解しようとしている。わからないときは私に聞きに来
る。その字や場面を指差して首をかしげるのだ。私は身ぶりやほかの言葉を使って、出来
る範囲で答えてやる。それでわかったかどうかわからないが、いったんは満足してムクは
また本の世界に入り込む。
 私が持ってきた本の山は全部目を通し、読み終わるとまた繰り返して読む。きっと声の
出せる子だったら暗記していることを証明してみせただろう。スケッチブックに書く言葉
も増えてきた。「ネコが かわらを あるいてた」とか、「ムク アイスクリーム すき」とか、「あめ やまない」とか。
 けれど、あまり本の世界に閉じ込もっているのもよくない。私は雨の止んだ夕方、スケ
ッチブックを取り出して「あめ やんだよ そとへ いこう」と書く。そして本を読んで
いるムクに見せる。ムクは気乗りがしないようだったが、それでも本を閉じ、私と一緒に
くつをはく。
 ドアを開けて、そこに広がる景色の美しさに息を飲んだ。川原じゅうの草に水滴がつき、それが夕方の金色の光に輝いている。空も空気も、降り続いた雨に洗われ、出来立ての世界のように鮮やかに輪郭を現わしていた。雨上がりの川原は、今まで何百回も目にしている。でも、今初めて私はその光景をちゃんと見た気がした。風景が心の中に入り、そして自分が風景の中に入り込んでしまう……世界と私が一つになり、傍らにいるムクも世界の一つになる。
 異変が起こった。てのひらに、小さな温かいものが滑り込んできたのだ。私は驚いてそ
の手を、それからムクの顔を見る。ムクは知らん顔をして、前を見ている。私は小さなム
クの手を握り、川原を歩き出す。
 こんなふうに落ち着いて二人で歩いたのは初めてだと思う。いつもおびえ、その時期が終わるといつもイライラしていたムク。扉のこっち側の暗闇で、けもののようにあたりの様子をうかがっているようだったムク。今その暗闇は光で満たされ、この川原のように金色に輝いているのではないだろうか。ふと見た横顔は、出会ったころよりずっとふっくらとしている。血色もよくなって、頬はバラ色だ。何より表情が違う。にらみつける以外見ることのなかった私の目を、こうして普通に見ることが出来る。私は歩きながらこちらを見上げたムクに、微笑んでみせる。ムクも笑うと、握っていた手を放しいきなり走り出す。
 ムクの長い髪が夕日に輝く。私はその後ろ姿を見ながら、ふいに今までにない感覚に襲
われる。止まった時が動き出していく。どこかに隠されていて、それまで気づかなかった
時の感触。過去があり、未来があるという感じ。そしてその未来には、もしかしたら途方
もない幸せがあるのではないかという感覚。
 私は止められてしまった時を捜すために、また扉を開ける。煙草の匂いがする。


   *  *  *  *  *  *  *  *  *  *


 T町の入口でトラックから下ろされたオレは、取りあえず腹ごしらえをしようと、近く
のファストフード店に入った。国道沿いのその店は、朝食をとりに来たトラックの運転手
たち(オレを運んで来てくれたナイスガイは、会社に戻ると行ってここへは寄らなかった)でかなり混んでいたのに、店員は二人だけでてんてこ舞いしていた。人手が欲しいに違いないと思ったオレは、壁の張り紙に目をやる。思ったとおり、そこには「アルバイト募集」の手書きの文字があった。チーズバーガーとバナナシェイクを注文すると、オレはアルバイトで雇ってくれないかと切り出す。バーガーとシェイクをトレイに置いた店員はオレの方を見もせず、忙しそうに「食べ終わったら裏の事務所で待っているように」とだけ言った。
 席は一杯だったので窓際で立って食べていたら、すぐに食べ終わってしまった。だから
煙草臭いその事務所で待っている時間は結構長く、オレはリュックからカセットを取り出
してイヤホンで曲を聴き始めた。今日初めて聴く音楽だ。体にビンビン響いてくる。オレ
は夢中になって聴いていたから、ドアが開いたことも、だれかが入ってきたことも、その
人がオレの真ん前にすわるまでわからなかった。
「何聴いてるの」
 オレはイヤホンをはずした。「は?」
「音楽でしょ。何を聴いてるの?」
 さっきの店員だった。帽子を取っているので、感じが違う。長い髪を後ろで一つに束ね、思ったより若いみたいだ。突然質問されたのでオレは焦り、何も考えずそのまんま答えてしまった。「セックス・ピストルズです」
 しまったと思ってももう遅い。オレより年上でそう聞いて顔をしかめない奴はいない
だろう。けれどその人はニッと笑って言った。「高校生?」
「はい、一応」
「家は近いの?」
「……ええ、まあ」
「毎日来られる?」
「はい」
「じゃあ、今日からいいかな?」
「はい!」
「と言っても学校は?」
「……えっと、今日は休みです」
「そう。よかった。ここは朝すごく混むんでさ。ようやく一段落ついたんだ。待たせたね。悪かった」
 それからその人は自分がここのチーフだということ、出来れば早朝と深夜に働いてほし
いこと、そのほうが時給が高いし、こっちも助かるということなどを一息に説明すると、
後ろのロッカーから紙を一枚取り出し、「ちょっと書いてほしいんだけど」と言った。
 まずい。履歴書だ。住所も学校名も書かなくちゃならない。保護者の許可印を押すとこ
ろもある。するとその人が言った。「適当でいいから」
「……?」
「家出してきたんだろ」
 トラックのナイスガイといい、この人といい、どうしてわかってしまうのだろう。
「顔に書いてあるよ」
 オレはひきつった笑顔を浮かべる。
「俺と住んでることにでもするか」
 その人はオレに名前と生年月日を書かせると、住所を自分のところにさせた。T市T町
三丁目コーポT二〇五号室。学校名は空欄でよし。それから保護者のところに自分の名を
書いた。小板マモル。ハンコを押して完了だ。
「あの」
「なに」マモルさんはハンコを胸のポケットにしまい、反対側のポケットから煙草を出し
た。
「いいんでしょうか」
「何が」煙草に火をつける。
「こんなウソ書いて」
「ウソじゃないだろ」うまそうに煙草を吸い込む。
「だって住所とか」
「きみ、今夜泊まるとこあるの」遠くを見て煙を吐く。
「……ないです」
「だったら俺のとこに来ればいい」
「でも、それは」
「こわい? 襲われそうで?」
 オレはふき出した。そしてその日のうちにオレは、マモさんのアパートに転がり込んだ
のだった。

 マモさんのアパートは、六畳一間と台所だけの小さなものだった。それでも結構広く感
じたのは、何も置いてなかったからだと思う――ステレオ装置と、一本のアコースティッ
クギターと、それから押し入れにつめ込まれたたくさんのレコードのほかは。
 オレはあぐらをかいて煙草を吸うマモさんのそばで押し入れに顔を突っ込み、レコード
の山に狂喜していた。そこにはオレの欲しかったもの、知ってはいるが聴いたことのなか
ったもの、それからオレがすり切れるほど聴いたものがあった。オレは興奮して息も出来
ないくらいだった。
「そいつらを買うために働いているようなもんさ」
 マモさんはぶっきらぼうに言ったが、大きな目が今にも笑い出しそうだった。ろくに洗
ってもいないような顔の中で、その目だけは澄んで輝いていた。まるで山奥のだれも知ら
ない深い湖のように。その底には、美しいけれど危険な財宝が無数に沈んでいる。そう、
危険な――触れると命を落とすか一瞬にして壊れてしまうといった類のものが。
「聴いてみる?」
 マモさんが言うので、オレは数あるレコードの中から一枚選んで渡した。裸のやせた男
が、スタンドマイクを握って立っているジャケットだ。それをプレーヤーに入れて針を落
とす。緊張の一瞬ののち響き渡る、魂を掴んで引きちぎる音。世界がざわめき立ち、電流
が体を走り、オレは息を吹き返す。息もつかずに一枚聴き終わると、二人は疲れているの
も忘れて次々とレコードをかけた。オレはピストルズ以外のバンドやアーティストをその
夜のうちにたくさん知った。ラモーンズ、クラッシュ、ジャム、ストゥジーズ、そしてさ
っきのやせた男イギー・ポップ。音楽以外の話はしなかったが、それで充分わかり合えた
気がした。そして世が明ける頃、ようやく雑魚のように寝たのだった。眠りに落ちる一瞬
前、天井にジョニーのポスターが貼ってあるのが見えた。


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