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作品名:遺された歌 作者:卯月

第4回   4 家出
      4 家出

 ムクは変わった。簡単には「うん」と言わない。好き嫌いをして食事を残す。「ソト 
イク」の字を大きく書いてから、私の返事も待たず、出ていってすぐには帰らない。捜す
のが一苦労だ。私に仕事があるとき、ミヨコさんのところへ行かないと言って駄々をこね
る(ミヨコさんもこのごろは持て余し気味だ)。ミヨコさんのところから連れ帰ろうとす
ると、イヤだと言って動かない。汗臭いので着替えろと言っているのに、無視して絵を描
き続ける。寝ない、ちゃんと起きない。行かない、来ない。前のようにさわらせないとい
うことはなくなったから少しは楽だが――いや、離れていても黙って言うことをきいてく
れたほうが楽だったかもしれない――何よりも、自分の気持ちを言い表せなくてイライラ
しているようなのが気がかりだった。
 言葉を、絵に描いたり仕草で表わすことの出来ない言葉を覚えるためには、私と二人の
生活では限度がある。ある日私は、ムクを一人小屋に置いて――ミヨコさんのところへ行
くのはイヤだとそのときも首をふったので――街へ出かける。
 街に本屋があることは知っていた。けれど私に新品の本を買うだけの金銭的余裕はない。
私が向かったのは、街の福祉センターだった。またバスには乗らず一時間近く歩き、住宅
街の中にあるセンターにたどり着く。そこに古本が置いてあることは、昔このあたりの道
路工事をしたときに知った。それがとても安く手に入るということも。確か絵本も置いて
あったはずだ。
 今度は入りにくいということはなかった。私は堂々と扉を開けて中に入る。一階はフロ
ア全部がリサイクルショップになっていた。古本のほかにも、古着や日用品がところせま
しと置いてある。人はまばらにしかいない。私は財布を取り出して持ってきた金額をもう
一度確かめ、絵本を捜しにかかる。うれしいことに、そこには一冊いくらという値段がつ
いたもののほかに、タダで持っていっていいものが段ボールに入って置いてあった。汚れ
たり破れたりしていて売れないというのが理由だろうが、私には宝の山に見えた。その山
から宝を捜し出す。本を引っぱり出してはムクが読めるかどうか、理解出来るかどうかを
検証し、長い時間をかけて絵本を選ぶ。何冊かはお金を出して買ったが、ほとんどは値段
のついていないものだ。結局抱えては持って帰れない量になり、係の人に頼んで袋を二つ
もらって両手に下げ、センターを出る。
 帰りはバスにした。本が重くて歩いて帰る自信がないのと、ムクを早く喜ばせたいのが
理由だ。思ったより安く本を手に入れることが出来たので、帰りのバス代くらいは残って
いる。バス停まで歩くと、次のバスまではまだ時間がある。私はベンチにすわってバスを
待つ。朝降っていた雨が止んで、西の空に大きな太陽がぼんやりと浮かんでいる。ああい
つかこんな太陽を見た気がする……やはり梅雨どきの太陽だった。でもこの時間ではなく
もっと朝早く……東の空に浮かんでいて……私は車を待っている。

* * * * * * * * * * * *

 夜が白々と明け始める頃、オレは国道にたどり着いた。太陽が東の空にぼんやり浮かん
でいる。朝早いせいで、あまり車は通っていない。通るのは長距離トラックとタクシーく
らいだ。オレは道の端に立ち、トラックが向こうから来るのが見えると、親指を立てた腕
をうんと前に伸ばして合図する。だいたいは無視して通り過ぎる。おーい、乗せてってく
れよぉ。オレはあやしい者じゃないぜ。
 伸ばした腕が疲れてくる頃、ようやく一台のトラックが止まってくれた。運転席の窓を
下げて、眠そうな顔をした角刈りの兄さんが言う。
「どこへ行くんだい?」
「あ、あの……」
「後ろから来るから早くしな」
「あ、あなたの行くところ」
「俺? T町だけど。ほら来た、乗りな、早く」
 ドアが開き、オレはドキドキしながら助手席に乗り込む。ドアがちゃんと閉まる前にト
ラックは発進する。演歌が流れている。窓の外の景色が後ろへ動いていく。
「あのな、言っとくけど」カーステレオから聞こえる曲より大きな声で、運転手が言う。
「ヒッチハイクってのは、なーんもない田舎道か海辺って相場が決まってるだろ」
「はあ」
「こんな町のど真ん中じゃ普通やんねえな。バスも電車もあるのにさ。第一危ねえし」
「はあ、すいません」
「俺みたいなナイスガイに会えたのがラッキーだと思うんだな。それからおまえ、家出し
て来たんだろ?」
「……当たりです」
「してきたばかりの奴に言うのもなんだけど、家出なんてろくなもんじゃないぜ」
「そうでしょうか」
「なんだ、おまえ。家出した奴は『そうでしょうか』とか『すいません』なんて言わねえ
の。ったく、おふくろさんかだれかと喧嘩でもしたんだろ。気がすんだらさっさと帰り
な。送っていけねえけど」
「はあ」
 帰るわけには行かない。オレは昨日のことを思い出す。

 ベッドに寝そべってヘッドフォンでピストルズを聴いていると、いきなり天井のジョニ
ーのポスターをおふくろの大きな顔が塞いだ。口をパクパクさせて何か言っている。仕方
なく片方だけヘッドフォンをはずす。
「……さいよ!」
「なに?」
「両方はずしなさいってば」頭からむりやりヘッドフォンがむしり取られる。
「何すんだよ!」オレはおふくろの手からヘッドフォンを取り返す。「部屋に黙って入っ
て来んなって言ってるだろ」
 おふくろはおれの足もとにすわって言う。「ノックしたわよ。ドア少し開けて呼んだわ
よ。聞こえなかったのはそっちじゃない」
「何なんだよ、まったく」オレは音楽を止め、ひざをかかえてベッドの上にすわる。
「今日面談だったんでしょ。電話があったわ、先生から。どうして黙ってたの。冷や汗が
流れたじゃないの」
 おふくろはオレをにらんでいる。
「忘れてた」
「こんな大事なこと」
「全然大事なんかじゃない」
「大事だわよ。いつも音楽なんか聴いてるから忘れるんだわ」
「関係ない!」
「関係ある! 試しにやめてみなさいよ、いろいろ思い出すから」
「関係ないって言ってるだろ、それに面談なんてクソだ」
「またそういう言い方する。とにかく面談は明日になったわ。先生が何とか工面してくれ
た時間なんだから、あんたちゃんと来なさいよ」
「約束は出来ない」
「バッカじゃないの? 放課後教室にいればいいのよ。うちに帰って来たってバレるし」
「帰って来ない」
「子どもみたいなこと言うんじゃないの。だいたい面談の何がそんなにイヤなわけ?」
 おふくろはわかってない。オレが大学へ行かないと思ってること。その理由を言いたく
ないこと。そんなことわかってくれる大人なんか一人もいない。
「とにかく、あした三時十分からだから。先生に捕まえててもらうから逃げられないわよ」
 おふくろは立ち上がって部屋から出て行く。オレなんかネコかイヌくらいにしか考えて
ない。オレはまたヘッドフォンで耳をふさぎ、今のことを頭から追い出す。
 外の世界をシャットアウトして音楽はオレの心をわし掴みにする。掴んでここではない
どこかへ連れていく。ヘッドフォンを耳に当てた瞬間から、オレはここにはいない。回り
のものはすべて消え、ギターとベースとドラムとシャウトする声が生み出す世界へ飛んで
いく。その世界だけが、オレが生きてるって感じられるところ。オレが生きられるところ
だ。
 だからそれ以外はクソ。学校も、家も、教師も親も、まじめに受験勉強してる奴らも、
いい子ぶってる妹も、金のために面白くもない毎日を送ってる大人たち、そういう大人に
なっていく子ども、こういう社会を作った奴、こういう社会にのうのうと生きてる奴、みんな
クソだ。
 どうしてみんな平気なんだろう。どうしてみんなあんなつまんないこと繰り返して、親
父みたいに仕事帰りの一杯だけが楽しみで、そしていつか心臓が動かなくなったらおしま
いみたいな毎日に耐えられるんだろう。「家族のため」って言葉が免罪符で、それを振り
かざせば何か大事なことを考えなくてもすむかのように親父もおふくろも生きてる。オレ
の回りの奴だって似たり寄ったりだ。何の疑問も持たず黙々と毎日勉強している。その
ままいけばあのどす黒い大人になるのは間違いないのに、オレはそれが不思議でしょうが
ない。
 オレの理想はピストルズ。ジョニー・ロットンの歌声はオレの心臓をギュッと握る。あ
んなふうになれたらどんなにいいだろう。オレは自由に生きたい。だれもジョニーにはあ
あしろこうしろと言わない。だれも彼には指図出来ない。それにジョニーたちはただ飲ん
で暴れてるだけじゃない。音楽で人の心を揺さぶることが出来る。だれにも出来ない、彼
らにしか出来ないやり方で。最高だ。
 ああ、イライラする。なんでオレはオレなんだ。なんでオレはこんなところでこんなこ
としてるんだ。オレは大人にならない。少なくとも、今世の中を構成している大人にはな
らない。だからオレは音楽を聴く。ヘッドフォンで回りを閉め出して、オレが唯一生きて
ると感じられる世界へぶっ飛ぶ。

 オレは面談がイヤで逃げ出したわけじゃない。きっかけがほしかっただけだ。だから夜
中に荷造りをして、そっと家から抜け出したんだ。オレはひざに乗せたリュックをぎゅっ
と握る。中には少しの着替えと現金、それから持てるだけのカセットが入っている。もう
あそこへは戻らない。オレの居場所はあそこじゃない。
 トラックの窓の外はどんどん明るくなり、色づき、息づいていく。空は紫から青になり、
太陽が東の空から顔を出す。日常が始まる。この窓の外にある家の数だけ、一日が作られ
ていく。オレはそこからはみ出している。みんなで作った「かごめかごめ」の輪の外にい
る感じだ。でもその感じは悪くない。悪くないどころか、最高だ。巣から飛び立った鳥の
ような気分だ。オレは自由だ。

   * * * * * * * * * * *

 バスから下り、夕方の風を吸い込んで私は我に返る。川原はすぐそこだ。橋を渡り、階
段を下りて、一番手前の私の小屋に向かう。ドアを開けると、ムクがスケッチブックに何
か描いていた。私は「ただいま」と言って家の中に入る。
 ムクは私に気づくと、描いている手を止め、スケッチブックのページをめくって「おか
えり」という字を見せる。私はうなづき、持ってきた絵本をどん、とテーブルに積み上げ
る。
 ムクはひらがなが読めない。今までは書くことを優先していたから、簡単に形がつかめ
るカタカナだけしか教えなかった。絵本のほとんどはひらがなだ。だから、まずひらがな
を教えなければと思っていた。けれどムクは、私が言うより前に一冊絵本を手に取ったか
と思うと、食い入るように読み始める。読めるはずはない。眺めているだけなのだろう。
けれど、何かが彼女の心をとらえたようだ。絵と字。さまざまな状況。関係性。ストーリ
ーの展開。知らないもの。知っているもの。ムクは一冊見終わると次の本を手に取り、次
々に眺めていく。厚い本、薄い本、大きなもの、小さなものも全部。
 私はそんなムクを眺めながら、長い道のり重い思いをしてきた甲斐があったと思った。


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