3 ヒロ シオオ
ムクは手話が出来なかった。もちろん私もだ。そういうものの存在すらムクは知らなか っただろう。人が言っていることは、雰囲気と唇の動きから少しは理解した。しかし、ム クから何かを発信することはほとんどない。もちろん動作で示すことは出来る。しかしそ の機会が奪われていたのか、ムクは自分から要求するということはなかった。少なくとも 私には。だから私は、コミュニケーションの手段として文字を思いついたのだ。 筆談が出来れば、ムクの思っていることがわかってやれる。こっちの言いたいこともも っと細かく伝えられる。けれどその作業は気が遠くなるような気がした。 やみくもに単語を書いていくだけでは、能率が悪い。そこで私はカタカナの五十音表を 作って壁に貼った。一つ一つの音をムクに覚え込ませる。そして一つづつ書いて覚えさせ る。それと平行して字を組み合わせて単語を作らせる。絵も添える。ムクはそこまでは思 ったより簡単に習得した。いくつもの単語を書いて意味を取れるようになった。雨の日が 続き、まとまった時間が取れたせいもあるだろう。カサ、クツ、イエ、メ、ミミ、クチ、 ゴハン、ハシ……私の小屋にはない、ポテトやチキンの絵と言葉を書いたときには、あの 日遊園地でぽつんと一人店番をしていた姿が思い浮かんで、切なくなったものだ。 けれど、その先が難関だった。単語、しかもものの名前だけではコミュニケーションに はなりにくい。ムクの気持ちを表わすためには、もっと複雑な言葉が必要だ。抽象的な事 柄を、感情を、動作の表わしかたを、どう教えたらいいだろう。たとえば、風が強い。そ れから、お腹がすいた。遊びに行きたい。花が咲いた……。ムクはこういうことをどのく らいわかっているのだろう。どのくらい伝えられる言葉として持っているのだろう。ネコ やイヌの下手な絵と字をスケッチブックに書いているムクを見ながら、その道の専門家で も教師でもない私は考え込む。
いい考えが思い浮かばないうちに、梅雨の晴れ間がやってきた。文字と言葉の学習はお 休みだ。ムクはうれしいのかうれしくないのか、黙って私についてミヨコさんのうちへ行 く。ミヨコさんは今までの雨でうんざりしていたから、大喜びで遊び相手を迎えてくれる。 私は再び仕事に行き、そして夕方くたくたに疲れて帰り、ミヨコさんにおみやげを渡し、 ムクにどうだったか聞くことも忘れ、夕飯を食べて寝てしまう。 晴れ間はしばらく続いた。仕事があることは感謝しなければいけないし、仕事の出来る 体があることも感謝すべきだ。だがそれも一週間近く続くと、起きるのがつらくなってく る。もうこういう肉体労働は無理な年齢になってきたのかもしれない。窓から差し込む朝 日を恨みながら、私は起きたくなくてグズグズしていた。 すると普通なら私が起きるまで起きないムクが、起き上がる気配がした。それからごそ ごそと、いつも枕もとに置いてあるスケッチブックと鉛筆を取り上げた音がする。私はわ ざと背を向け、目をつぶって寝たふりをしていた。 ムクの息使いのほかは何も聞こえない。そのうち、その息使いも聞こえなくなった。そ の代わりにムクがじっとこっちを見ているのがわかる。彼女はまだ自分から私をさわるこ とはない。私は寝返りを打つふりをして、ムクのほうを向き、今起きたというようにゆっ くり目をあけた。 ムクがスケッチブックを持ってこっちを向き、ふとんの上にすわっていた。私が目をあ けたのがわかると、目の前に書いたページを開いて見せる。そこにはいつもの青鉛筆で、 ゆがんだカタカナが書いてあった。 「ヒ ロ シ オ オ ム ク ウ チ」 ヒロとムクとウチはもう学習済みだったから、私にもわかった。けれど、シオオとは何 だろう……しばらく考えて、私はひらめいた。シゴト、だ。私が毎朝言っていたから口の 動きで覚えたのだろう。そしてそれをちゃんと文字にして書いたのだ。ムクが書いた初め ての文だ。私がいつまでも起きなかったから、心配になったのかもしれない。起こす必要 を感じたのかもしれない。ムクはちゃんとわかっていたのだ。私は飛び起きた。頭をなぜ てやりたい衝動にかられたが、それはきっと逃げられるだろう。だから向かい合ってすわ り、「そうだ、ヒロはシゴトだ。ムクはウチ。よく出来た。ムク、よく書けた。いい子だ」 と言うだけにした。 するとムクが笑った。 私は一瞬わからなかった。初めてだったのだ、ムクが笑ったのは。声は出さないが、に っこりと。ほめてもらったのがうれしかったのかもしれない。今まではいくらほめても笑 ったことはなかったのに。 私は急いでムクからスケッチブックを取ると、次のページに「ワラウ」と書いた。ムク に見せ、ムクを指差し、ワラウと言い、それから自分も笑顔を作って、文字を指差した。 ムクが手をのばしてスケッチブックを取り返す。それから私の字のとなりに小さくワラ ウと書いて、ニッと笑ってみせた。何もかも初めてだった。ムクが人の持っているものを 取ることも、ものの名前以外のことを書くことも、それを動作で示してみせることも。今 度は私が取り返して、試しにオコルという字を書き、怒った顔をしてみせる。ムクは少し の間きょとんとしていたが、すぐに理解し、受け取ったスケッチブックに同じような 字を書いてしかめ面をした。それがおかしくて私は笑う。笑いながら、ワラウという字を 指す。 二人でパジャマのままふとんの上で、数々の動作を書いては示し、示しては書くしてい るうちに、私はその日のシゴトに遅刻してしまった。おまけに朝食抜きだ。スケッチブッ クも一冊終わってしまったから、その日の日当は新しいスケッチブック代と青の色鉛筆、 それにミヨコさんを巻き込んでお祝いしようと奮発したケーキ代で半分はなくなってしま った。そしてふところ具合と同じように、それらのおみやげを持って帰る私の気持ちはと ても軽かった。
ムクが状況をある程度言葉で理解していること、文を作れるということは、私たちの文 字学習に飛躍的な進歩をもたらした。「ヤキソバ タベル」とか、「ミヨコサン オコル」 とか、「ロウソク ツケル」とか、ムクはごく簡単なことをスケッチブックに書いて見せ るようになった。私も返事を書く。口で言ってもわかるのだが、書き方を教えるためだ。 「キョウハ ヤサイイタメ」とか、「ミヨコサン コワイ」とか、「モウ ネナサイ」と か。ムクは今まで口の動きで理解してきたから、よく表記を間違える。ロウソクはオウオ クだったし、ミヨコはミオオだった。それを丹念に直すのが私の役目だ。一つ一つ根気よ く。面倒に思うこともあったが、字を書くことでつながり合えることがわかったムクは、 今まで以上に熱心に取り組むようになった。だから私も自然に手を抜かずに教えることに なる。ムクの吸収力には舌を巻く。人間が生まれてから三歳くらいまでの時間を、今すご い勢いで取り戻しているようだ。 難しいのは感情と欲求の表わしかただった。ムクは文を書くというレベルでは三歳くら いかもしれないが、実際はそれより五、六年は多く----あるいはもっと----生きているだ ろうから、より複雑な感情を持っているに違いなかった。簡単な文を伝えられることがわ かってからときどきムクはそれ以上のことを書きたくて書けない、というような表情をす るようになった。そう、表情も複雑になってきたのだ。 あるときムクは何かを書こうとして書けず、青鉛筆でなぐり書きをすると私にスケッチ ブックを投げつけた。私に当てようと思ったわけではないだろう。たまたま投げた先に私 がいたのだ。けれど、そんなことをムクがしたのは初めてだったので、私はひどく驚き、 そしてスケッチブックの固い角が腕に当たった痛みもあって声を荒げた。 「痛い! 何をするんだ、ムク!」 ムクは一瞬昔のようなおびえた目になり首を引っ込めたが、けれど次の瞬間にはもとに 戻って口をキッと結んで私を見たかと思うと、さっと立ち上がった。そして青鉛筆を向か いの壁に投げつけ、私の脇をすり抜けて玄関に走った。それからあっという間にくつもは かず、ドアを開けて外に出て行ってしまった。 仕事に行く前の、朝食の時間だった。私は時間を気にしながらムクを追って外へ出た。 空はどんよりと曇り、雨が降り出しそうだった。もし仕事に行っても、すぐ中止になるか もしれないなどと考えながら、私はムクを捜した。 ほどなく川原の、アシの茂みの中に見つけた。この背の高い草むらはムクの好きな場所 だったから、見つけるのは簡単だった。 「ムク、どうした。おいで」 こちらに背を向けてしゃがんでいるムクの小さな後ろ姿に、聞こえないとわかっていな がら声をかける。さわってもいいだろうか。さわったらまた逃げるだろうか。でも、アシ をかき分ける私の足音さえ聞こえないのだから、ふり向かせるにはさわるしかない。手を 伸ばそうとした私は、そのときムクの両肩が震えているのがわかる。 「ムク……」 思わずムクの肩をつかんで、こちらを向かせようとする。突然さわられたムクはビクッ と体を震わせ、私の手をふり切ろうと激しく抵抗する。そのとき半分見えた顔が泣いてい た。私は、さわらせまいと暴れるムクを押さえつけようと必死になる。ここで逃げられた らきっともう追いつけないだろう。私は仕事に行かなくてはならない。ムクを放り出した まま行くわけにはいかない。私は力づくでムクをこちらに向き直させる。ムクは観念した のか、湿ったアシの茂みにへたりこむ。そしてウーッ、ウーッと嗚咽の声を上げながら、 ポロポロ涙を流す。 呆然とその姿を見ながら、私は心の扉が音を立てて開くのを感じていた。開けまいと抵 抗するひまもなかった。扉の向こうには、暗くて寒くてせまい部屋がある。嗚咽が聞こえ る。となりの布団からだ。
夜中に目を覚ましたオレは、それが初めは何の音かわからなかった。水道管でも詰まっ ているのだろうか。それとも、もれているのか。いや水道ではない、もっと近くだ。 マモさん? オレはとなりに寝ている友人を見る。目をこらすと、暗闇の中で掛け布団 がかすかに動いている。そしてその中から音が----声がもれ聞こえる。押し殺した、うな るような、震える声。 「マモさん。どうしたの」 ささやいたつもりだったが、深夜のせまい部屋の中では思いがけず大きく響く。一瞬声 が止まり、そして掛け布団から少しだけ出ていた髪の毛が引っ込む。すっぽりふとんにも ぐってしばらくすると、また押し殺した声が聞こえ始める。オレは起き上がった。部屋を 凍らせていた冷気が、瞬く間に肩に乗ってくる。 「マモさん」 言いながら布団の上からマモさんをたたく。するとイヤイヤをするように布団が左右に 揺れ、声が----嗚咽が大きくなる。オレはマモさんの布団をはぐ。 マモさんは布団の中で丸くなって泣いていた。肩を震わせ、手で顔を覆い、赤ん坊のよ うに泣いていた。 「どうしたの、マモさん」 やはり部屋に響き渡るような声に自分で驚きながら、オレはマモさんにさわり、揺り動 かし、起き上がらせる。マモさんは何も答えず、されるがままに起き上がると、顔を覆っ たまま今度は大声で泣き始める。オレは自分でも気がつかないうちに、この年上だがオレ より小柄な友人を両腕で抱きしめていた。
今私の腕の中で泣きじゃくるのは、年上の友人ではなく、ムクだ。ムクが泣いたことは これまで一度もなかった。川原で転んでも、ミヨコさんに理不尽なことで怒られても泣い たことはなかった。泣くという行為をこの子は知らないのではないかと思ったくらいだ。 しかし、今はくしゃくしゃになった顔を私の胸に押しつけて、ムクは苦しそうに泣く。 何がこんなにこの子を泣かせるのだろう。私に怒られたことや、書きたいことを表現出 来なかったことだけではないだろう。それがきっかけで、いろいろなものを塞き止めてい た堤防が決壊したのかもしれない。ムクの熱い涙とよだれが服を通して胸にしみ込んで来 るのを感じながら、私はその小さな肩をもう一度抱きしめる。
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