2 スケッチブック
遊園地は全国を移動して興行するもので、あの空き地にも一週間ほどいた後、あとかた もなく立ち去ってしまった。あのとき遊園地にムク以外だれもいなかったのは、不思議と しかいいようがない。客が来ないので、たまたま従業員が休んでいたのかもしれない。あ るいは私が見なかっただけなのかもしれない。いずれにしても今となってはわからない。 神様が私とムクを会わせるために巡らした策略だったのだろうか。 私は遊園地が開いている間、だれかが来てムクを連れ戻してしまうのではないかと、そ して誘拐罪で捕まるのではないかとビクビクと過ごしていたが、いっこうにだれかが捜し ている気配もなく、警察が踏み込んでくることもなかった。日がたつと、そのこと自体夢 だったのではないかと思うようになった。 けれどもムクは夢ではなくそばにいた。そして私が小さな女の子を拾ってきたことは、 川原に住む連中にあっという間に広まった。ヤマさんとタケさんは二人で、そろそろ切れ るころだろうと醤油や味噌を手みやげにのぞきに来たし、ケンさんは昼間から一杯やろう やとめずらしくカップ酒を手にやって来たし、お弁当を余計にもらったからと若いショウ 君やユウ君まで来た。 ムクが口をきけないことは、皆すぐに受け入れた。そのほうが私たちにとって好都合だ ということもあったのだろう。ミヨコさん以外は、それぞれ一度ムクを見に来て好奇心を 満足させるとそれ以上立ち入ってこなかったが(それが私たちの暮らしの不文律だった)、 それでもいつもより多く食料を分けてくれたり、女の子の着る服を寄付してくれたりした。 ムクは、決して人に自分の体をさわらせない。近づくと小鳥のような素早さで逃げる。 私が外へ出ると後をついて来るのだが、常に一定の距離を置いている。部屋の中はせまい ので彼女が必要と感じる距離は保てないが、それでも出来る限り離れようとしているのが わかる。私もあえて近づかなかった。 でもミヨコさんだけは別だった。ミヨコさんは毎日のように私の小屋へ、お菓子やピン どめやボタンやヒビの入った手鏡やハンカチなどたくさんのガラクタ(としか思えないも の)を持ってやって来た。そしてムクにそういうものを見せたり、布をたたんだり広げさ せたり、ボタンをならべてどれがいいか選ばせたり、髪にピンをさしてやり、それを鏡で 見せたりした。ムクはいやがりもせず、逃げもせず、ミヨコさんの言いなりになっていた。 全然面白そうではなかったのだが、それでも拒否しないことは事実で、それはミヨコさん の持つ何か特別なもののせいに違いなかった。 家賃も光熱費も払わなくていい生活では、それほど現金の必要を感じない。感じるのは 飲みに行くときと、少しの食料や日用品を手に入れたいときくらいだったから、私は今ま で仕事らしい仕事はして来なかった。けれどムクが来てからは心境の変化が起こった。ム クはあまりものを食べないし、学校には行っていないし、一日何をするわけでもなく生き ているから、特別お金が必要になったわけではない。それでも私は仕事をすることにした。 話せば知り合いから日雇いの仕事をもらえる。ムクが来て何週間かたってから、私は工事 現場へ出かけた。 問題は、私がいない間ムクをどうするかだった。一人にしておくのは心配だが、カギを かけて一日じゅう部屋の中に閉じ込めておくのももっと心配だ。そこで私は、ムクをミヨ コさんに預けることにする。 朝、二人で歩いてミヨコさんの家に行く。彼女は私たちのように肉体労働をするわけで はない。彼女は彼女なりのうまいやり方で最低の生活費を稼いでいて、一日家にいること が多い。私は、ムクを預かってくれる代わりに菓子を買ってくることを提案した。多分彼 女にとってムクは恰好の遊び相手だったろうし、大好きな菓子も報酬にもらえて、こんな にいい話はなかったに違いない。ミヨコさんは二つ返事で引き受けてくれる。 その作戦は成功した。仕事を終えて帰り、私はおみやげの菓子(ミヨコさんの大好物の まんじゅうや羊羹や菓子パンなど)をミヨコさんに渡し、ムクを連れて小屋へ戻る。ムク からはその日どう過ごしたのか、ミヨコさんとうまくやれたか、何を食べたのかなど、何 も聞くことは出来なかったが、ムクの様子で特に何もなかったことはわかる。ミヨコさん も満足そうに菓子を受け取ったし、その日川原にいた連中から特別な報告を受けることも なかった。しばらくこの生活を続けられそうだと、私はホッとした。
日当がある程度たまってきたある日、私は町へスケッチブックと色鉛筆を買いに行く。 ちょっと出かけてくるよ、すぐに戻るからとムクの目を見て言う。ムクがうなづいたので、 私は一番いいジャケットを着て出かける。 町まではバスがあるが、歩いて行く。片道三十分の道程だ。まばらだった家々が密集し 始め、道幅が広くなり、車の通りが頻繁になると、商店街に着く。私は画材店を捜す。大 きな店にはさまれた、見逃してしまいそうな小さな店。恐る恐る入った私に、店主は思い のほか親切だった。 手に入れた小さなスケッチブックと十二色の色鉛筆を手に、私は子どものようにウキウ キと家へ戻る。ムクはどこへも出ず、小屋の中にいたらしい。私が出かけたときと同じ場 所で同じ姿勢ですわっていた。 「ムク、いいものを買ってきたよ」 声をかけ、テーブルの上に買ってきたものを置く。ムクは面倒くさそうに首だけこちら へ回す。けれど、テーブルの上に置かれたものが目に入ると、パッとその目を輝かせる。 それからテーブルのそばに来る。しばらくスケッチブックを見、それから私の顔をうかが う。手を出しかけて引っ込める。 「使っていいよ。おまえのために買ってきたんだから」 何もしないムクが何かをするようにと思って買ってきたものだ。ミヨコさんのような遊 びは出来ないが、絵ならいっしょに描けると思ったからだ。私は何色にしようか少し迷っ てから、青鉛筆を一本取り出す。 ムクは直接ものを受け取らない。だからいったんスケッチブックの上に置く。ムクはお ずおずとそれを手に持つ。持ってしげしげと鉛筆を見るばかりだ。 「こうやって書くんだよ」私は赤で、大きく丸を描いてみせる。 ムクが鉛筆を知らなかったわけではないだろう。紙に書くという行為だって、したこと がないとは考えにくい。けれど、私の書いた丸を不思議そうに見て、それから自分の持っ た青鉛筆を紙に押し当てると、弱々しい線を一本引いただけで手を放してしまった。 私は上着を脱ぎ、ハンガーに掛けて壁につるす。それからお湯をわかしにかかる。ムク はもうテーブルから離れ、ひざをかかえていつものように殻に入ってしまっている。これ 以上は無理だ。短い共同生活でそれくらいのことはわかるようになった。仕方なく私はイ ンスタントコーヒーをすすりながら、すわっているムクを黒鉛筆でスケッチする。
次の日仕事から帰って自分の小屋の前を通り過ぎようとすると、中から声がする。おか しい、ムクはミヨコさんの家にいるはずだ。いつもカギはかけておかないから中へ入るこ とは出来るのだが、今まで二人が私の小屋にいたことはなかった。ミヨコさんの家には電 気もあるし、私のところより家財道具も食べるものも遊ぶものもはるかに多いからだ。私 はおかしく思いながら、そっとドアを開ける。中は暗いが、ろうそくはついていない。 そのうす暗がりの中に、テーブルをはさんで二つの人影がある。そのうちの一人が私に気 づいて言う。「お帰りなさい」 ミヨコさんだった。テーブルの上にも下にも、紙やら布やら小物やらがたくさん散らか っている。ムクはテーブルの上におはじきを並べながら、私をチラッと見る。 「ミヨコさんちじゃなかったの」私はくつを脱ぎながら言った。 「ムクちゃんがこっちがいいって言うから」 そう言うとミヨコさんはニッと笑う。ああそうか、ムクがそんなことを言うことがある のか……私は軽い嫉妬を感じながら、ポケットに手を入れる。そして帰りに買ってきた砂 糖のかかった甘いパンを取り出し、ミヨコさんに投げてやる。受け取ったミヨコさんはう れしそうに笑うと、立ち上がった。私は礼を言い、ミヨコさんは帰って行く。 さっさと帰っていったから散らかったものはそのままだ。私は聞こえていないのを承知 で、今日はどうだったとムクに話しかける。返事はない。折り紙やトランプや何に使った のかわからない端切れを片づけていると、端切れの下からスケッチブックが出てきた。棚 の上に置いたはずだが、なぜここにあるのだろうと思って開くと、私が描いたムクの似顔 絵の次のページから、いろいろな色でさまざまな形が描かれていた。何ページも何ページ もあった。人の顔のようなものや、字のようなものや、明らかに私の絵を真似て描いたよ うなものもあった。大半はただのなぐり書きだったけれど。 私は驚いて、まだおはじきで遊んでいるムクに思わずきいた。「これはおまえが描いた の?」 昨日は鉛筆を握ることさえおぼつかなかったのに、あれは芝居だったのだろうか。それ ともミヨコさんが教えたのだろうか。けれど、それは確かに一人の人間が描いたものに思 えた。同じ調子で、同じようなものが描かれている。それに、ミヨコさんだったらもう少 し絵らしいものを描くだろう。 ムクは私の言ったことがわかったのかそうではないのか、とにかくスケッチブックに描 かれたものを見てうなづいた。私はバラバラに落ちていた色鉛筆を片づけながら、あるこ とを思いついた。
それを実行するのに、一週間はかからなかった。雨の季節になったのだ。 雨の日には仕事がない。工事は中止だ。外へも出られない。今まで一人だったときは仲 間を訪ねたり、訪ねられたり、それがないときはぼんやりラジオを聞いたりして過ごして いた。でもこのごろは遠慮しているのか、だれも訪ねて来ない。ミヨコさんが雨の日の外 出をおっくうがるのは知っている。 もし放っておいたなら、ムクはムクでやっていくだろう。大人にうるさいと思われない ようにする術を、ムクは持っている。せまい部屋の中で気配を消せと言われたら、あるい はその必要を感じたら、ムクは部屋の闇の中に溶け込んでしまえただろう。しかしそれは 私の方がいやだった。だからといっていっしょにラジオを聞くことは出来ない。ミヨコさ んのように女の子の遊びをやることも不可能だ。 そこで私はスケッチブックを取り出す。そして新しいページを開き、黒鉛筆で大きく線 を引く。線は途中で曲がる。短い線もつく。カタカナのムだ。そして、ぼんやりとひざを かかえているムクの目の前に近づけて見せる。 「これはム。ムという字だ」 それからその下に、クという字を書いて見せる。「これはク」 そして二つを順番に指差し、「ム・ク。ムク。おまえの名前だ」と言う。 ムクはスケッチブックに書かれた字と私の口を交互に見る。私ははっきりと何度もムク と発音し、ムクを指差し、字を指差す。何かを教えているようだとムクにもわかった様子 だ。しきりに瞬きをしている。 次のページに私はヒ・ロと書き、字を指差し、発音する。「ヒロ。私の名前だ」 そして自分を指差す。字を指差し発音する。ヒロ。ムク。何度も繰り返す。字を指し、 発音し、ムクと自分を交互に指す。ムク。ヒロ。ヒロ。ムク。 突然ムクが自分を指差した。それからスケッチブックの字を。もう一度自分を。それか ら字。私を真似て、ムクという形に口を動かす。私はうれしくなったが、うなづいて様子 を見るだけにする。 ムクはそれからおずおずと私を指差す。次にヒロという字。続いてイオという口の形を する。私は何度もうなづく。ムクは確かめるようにもう一度ゆっくり自分とムクという字 を順に差し、それから私とヒロの字を差して口を動かす。私は「そうだ、ムク。その通り。 いい子だ」と言い、今度は色鉛筆を箱ごとムクの前に置く。「なぞってごらん」 ムクが書いている現場を見たわけではないが、書けるはずだ。特に青を好んでいること も知っている。私は青色の鉛筆を取り出し、自分で書いた字の上を、読みながらなぞって みせる。「ム・ク」 それから鉛筆をムクの前に置く。ムクは私を上目使いに見てから、そうっと青鉛筆を手 に取る。そして私のやる通りに字をなぞる。言葉は発しないけれども。黒の上に青の色は 見えにくい。でも確かにムクはなぞっている。 自分で書いてみるように促したが、それは受け入れられなかった。そこで私は部屋を見 回し、この前川原から摘んできたレンゲの花を、生けてあるコップごと持ってくる。そし て大きくハナと書き、発音して花を指差す。今度はムクはすぐに理解したようだ。ハナと いう字と発音とその意味するところを。字を見てアナと口を動かし、そしてレンゲのハナ を指差す。そして青鉛筆で字をなぞる。 私はそれから、次から次へ字を書いては指差してなぞらせた。コップ、テーブル、マド、 ナベ、フトン……。十ぐらいの単語を覚えただろうか。もともとムクは耳が聞こえないだ けで、ものに名前があることは知っていたから、赤ん坊に言葉を教えるよりは簡単だった。 たとえば今ここにないものを言っても、それが何を意味するかはわかっていたはずだ。だ が、それを表記出来ること----文字には音があり、それをつなげれば意味を持つものにな ること----は知らなかったように思えた。ムクは一生懸命私の書く字をなぞり、その意味 するものを目で確認し、唇を動かすことを続けた。きっとそれは、閉じられていた扉がほ んの少し開いて、混沌として未分化だったムクの世界に一筋の光が差し込んできたようだ ったに違いない。 それは私もそうだった。ベニヤ板の屋根に落ちる雨の音を聞きながら、私の意識は遠く 飛んでいき、固く閉めてあった扉を開いてしまいそうになる。屋根をたたく雨の音……ノ ートに何かを書き留めている人……暗くなっていく部屋……煙草の煙……満ち足りた気分 ……いや、まだ開けてはいけない。あのとき開けるまいと決めたのだから。私は立ち上が って、台所に立つ。ムクはよれよれと、自分の字を書き始めている。 こうして雨の日、私たちは文字と言葉の学習をすることにした。
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