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作品名:遺された歌 作者:卯月

最終回   10 遺された歌
   10 遺された歌

 今までの長い間、俺は点々と住む所を変えてきた。マモさんのアパートにあった荷物は大量のレコードも含めて全て処分し、実家へも戻らず、俺は荷物を持たずに生きてきた。たった一つの小さな箱を除いては。
 俺は引越しの荷物を片付けながら、その小箱のことを考える。何十回もの引越しに失くすことなく俺についてきたプラスチックの箱。今回もムクの身の回り品と一緒に、それもリュックに入るはずだ。俺は部屋の隅に置いた箱を取りに行く。
 押入れも物置もない小屋の隅には、使わなくなった道具類がまとめて置いてある。穴の開いた鍋や錆びたナイフと一緒にそれはちゃんとあった。黒い蓋にはうっすらとほこりが積もっている。俺はほこりを手で払い、そのままリュックには入れずにテープルの上に置く。
 蓋を開けると、十本ほどのカセットテープがきちんと並んで入っていた。俺はしばらくその背に書かれた文字を読むことができない。十何年の時を越えて俺の目の前に現れたそのテープ。あのときのままだ。アパートの部屋の隅に置かれていたときと同じだ。俺は指でその背をなぜる。一つずつ、縦に、上から下へ。下から上へ。……「学校 怠慢」「伝染 繁殖」「無臭 無能」「静脈 排出」……マモさんが書いたへたくそな字が目に入ってくる。そのときその場にあったペンや、鉛筆や、マジックでいい加減に書いたのがわかる。一本だけ赤で書かれたものがあった。太い字で「おわび」とある。たぶんその辺に転がっていたタエコの口紅で書いたのだろう、擦れて字がよれている。この背文字だけひらがななのは、口紅が太くて漢字が書けなかったからに違いない。俺は最後に録音されたはずのそのテープを取り出す。そしてケースの脇には何も書かれていないことを確認してテーブルの上に置き、立ち上がって外へ出る。
 夏の終わりの午後の光に一瞬目を射られる。まだ日差しは強いが風は涼しい。草木の淡い影が風に揺れる川原を、俺はショウくんの小屋へと歩く。彼の小屋は川原仲間の一番端だ。行って帰って優に三十分はかかるから、こうして用事がなければめったに行くことはない。彼と、同居人のユウくんは実にいろいろなものを持っている。ゴミ捨て場であれこれ拾ってきては修理して使っているらしい。ラジカセを持っているのは仲間うちで彼らだけだ。まだ壊れずにあるだろうかと思いながら、俺は川原を歩いていく。
鼻の頭に汗をかきながら、ショウくんは俺を出迎えた。ラジカセのことを話すと、電池があまりないんだけど、と言いながら彼は快く貸してくれる。お礼を言って、俺はラジカセを提げてもと来た道を戻る。夏の風がゆっくりとアシの茂みを渡っていく。金色の光がまぶしい。
 小屋に戻ると、光をさえぎる部屋の暗がりがありがたかった。俺はラジカセを置いて汗を拭き、それからさっきのカセットテープをケースから取り出す。あの日俺が仕事から帰るのを待ちかねたように、新しい曲を作ったんだ、聞く? とうれしそうに言ったマモさん。うん聴く聴く、と荷物を放り出して座った俺をちらりと見ると、深呼吸をして歌い出したマモさん。俺はカセットをセットし、あのときのマモさんと同じように深呼吸をして、再生のボタンを押す。
 がさがさという雑音。一瞬の静寂ののち、倍音のギターのイントロ。鐘の音のような始まり。それから深いストロークが八小節、そしてマモさんの声。低くささやくような出だしから、突然張り上げたかと思うと、裏返る高音へ。切ない声。ギターが軋んで、ときに弦がちぎれそうになる。また低くささやき、高音で裏返り、シャウトし、ギターが軋む。
覚えている。そうこの曲だ。憎しみや苦しみや、怒り、自虐、あきらめ、全てのマモさんのむき出しの魂が叫んでいる、この曲だった。俺はそのときと同じように感動する。そのときと少しも変わらず心を揺さぶられる。そして今わかる。これは愛だと。
 こんなにマモさんは真摯だったのだ。あんなにだらしなく投げやりな生活の中で、音楽には、歌にはこんなに真剣に向かい合っていたのだ。自堕落な生活をしていてもマモさんの心は決して自堕落ではなかったのだ。音楽は愛だ、とマモさんは言っていた。その通りの、それそのままの、マモさんの真実の歌だ。
 最後に謝罪の言葉。そしてイントロと同じギターの倍音で、マモさんの最後の曲が終わった。

 もう一度外へ出ると、もう川原は半分陰り、ヒグラシの声が空に響いていた。俺は、向こうの木陰で物語の本を読んでいるはずのムクを捜しに行く。俺が部屋を片付けている間外へ行っているように言っておいたからだ。彼女は放っておくと一日中本を読んでいる。体を悪くしないか心配するほどだ。
 川原に一本だけ生えているケヤキの木の下に、ムクはいた。このごろまた大きくなったと思う。右足の骨折が治っていくのと同じ速度で、体が大きくなっていったようだ。背が伸びただけではなく、やせっぽちだった体に肉がついて、初めて来たころに比べると、おかしなことだが倍以上年を取ったように見える。ミヨコさんからは大人サイズの服をもらわなければ間に合わなくなったくらいだ。
 ムクは俺に気がつき、本を閉じてとなりに場所をあける。俺はそこへ腰を下ろす。
「ムク」俺は声をかける。ムクは微笑む。こうして見ると、口がきけないのが信じられない。「聴いてくれ。俺は歌う」
 ムクの世界には歌が存在するのだろうか。歌というものを理解しているのだろうか。そうであってもなくても、俺は歌いたかった。マモさんの最後の歌を。

 光を覆い尽くす闇の中で
 俺は飛び立つ
 すべてを遺し
 すべてを捨て去り
 あの空の向こうへ
 重荷を置きに

 闇の向こうの光の中で
 俺はお前と一つになる
 折れた羽は
 元には戻らない
 いつか土に埋められたら
 震えも止まるさ

 俺はいったい何をしてきたのだろう
 何かを求め
 何かを憎み
 何かに怯え
 何かから逃げ

 俺はいったい何になったらよかったのだろう
 お前の腹の中の腫瘍?
 腰の曲がった爺さん?
 地の奥の溶岩?
 それとも天使?

 ああ光が見える
 俺を抱きしめてくれ
 荷物を下ろすから
 もう傷にキスはしないでくれ
 逃げたりしないから

 ほんとうにすまなかった
 光が見える

 ギターはなかったが、俺は心を込めて歌った。マモさんが壁に寄りかかって歌った、あのときと同じように。ムクは俺が歌い終わってもその大きな瞳でじっと俺を見ている。俺もその目を見る。マモさんと同じ目を。深い湖の底に沈んだ、宝石のような目を。そのとき、俺の心の奥の奥の、一生開けることはないと思っていた扉が、軋んだ音を立てて開く。



 マモさんの葬式はタエコと二人だけでひっそり済ませた。遺骨はタエコが持っていくと言い張った。これを機に田舎に帰るのだという。知り合いのお寺に預かってもらうつもりだ、とタエコは言った。
「知ってた? マモル、捨て子だったんだよ」
 春なのにひどく寒い日だった。オレたちは肩を寄せ合うようにして火葬場からの坂道を下りていく。
「知らなかった」
 考えてみれば、オレはマモさんのことは何も知らない。
「施設で育ったんだって。中学卒業したらそこ追い出されて、いろんなことしたらしいよ。でもね、途中で音楽やりたくなってちゃんとアルバイト始めたんだって。ほら、音楽やるっていろいろお金かかるじゃない。レコードの一つや二つ、あいつ作りたかったんだと思うよ。あたしには決してその金は出させなかった。自分で作るって言い張ってさ。そんなふうに考えながらあんたと暮らしてたあの頃が一番、あいつの人生の中で輝いてたね」
 オレはうつむく。
「バカだね、あいつ。ほんとバカだ。自分で自分ダメにしてさ」
 坂道の両側には満開のサクラが、今日の寒さで散るのを止めている。タエコは洟をすすって、それから急に明るい声で言う。
「あのね、あたし妊娠してんだ」
「え?」
「子ども、田舎で生もうと思ってさ」
 オレは言葉を失う。もしかして、オレの……子?
「だれの子かって?」
 オレはタエコを見る。タエコは笑う。
「わかんないの。ヒロかもしれないし、マモルかもしれない。これは罰だよね、あたしいい加減だったから。でも大丈夫、あんたに絶対迷惑かけないから」
「ゴメン」オレは小さな声で言う。それしか言えない自分が情けない。
「あやまることないって。あたしがいけないんだから」
 タエコがこんなにも優しくて強かったことを、今ごろになって知る。風に耐えられなくなったサクラの花びらが一枚、視界をよぎっていく。
「田舎に帰ったら、手紙くれよ。オレきっと会いに行くから」
 ようやくの思いでそれだけ言うと、タエコは微笑んで言った。「うん、きっと」
 坂の下でオレたちは別れた。そして、それっきりになった。



 川のせせらぎ。鳥のさえずり。カナカナ。遠くで波の音。
「おーい」
 ケンさんが向こうで呼んでいる。バーベキューの準備が出来たようだ。先日言い渡された川原の強制退去の日も近づいている。河岸工事が始まるらしい。これでみんな散り散りになる。川原でお別れパーティーを開こうと提案したのは、ケンさんとヤマさんだ。でもしぶとい連中のことだから、きっと工事が終わったら戻ってくるに違いない。今までだってそうだったのだから。
 夏の間に俺は、工場でのアルバイトを見つけた。そしてハローワークの窓口氏のつてで安いアパートも借りることが出来た。ムクは俺の養女として育てるつもりでいる。彼女は学校へ行くだろう。そしてたくさんのことを学ぶだろう。手話だって覚えるかもしれない。俺は今まで生きてきた時間を全てムダだったとは思わない。ムクを見つけるのに、未来を見つけるのに必要な時間だったのだから。だれかといっしょなら、生きていける。そして俺はその人をもう一度見つけた。お前でなくちゃダメなんだ。あのとき言えなかった思いを、ムクを抱きしめて今伝えたい。
 そして、と俺はもう一つの決心を心に刻む。遺されたマモさんの歌を歌っていこう。閉じ込めた想いを、俺とマモさんの想いを解き放つために。動き始めた時の向こうの未来へ、歌を歌って生きていこう。マモさんと同じ目を持つ、このムクと共に。解き放った想いは、きっと向こう側まで届くはずだ。
 俺はムクの手を取り、ゆっくり立ち上がる。もう魔法の力を借りなくても大丈夫だ。

(終わり)


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