1 夜の遊園地
そのころ私には魔法がかかっていた。かかったのは、そう……あの夜仕事を終え、電車 から駅のホームに下り立った瞬間だったと思う。 春の空気がそこらに満ち、夜の鋭さを柔らかくしていた。そういう日はとても優しい気 持ちになれるものだ、たとえ魔法にかかっていなくても。駅に下りたのは私一人だった。 ジャンパーのポケットに手を入れ、背を丸めて人気のないホームを歩く。階段を上って、 他ホームからの降車客数人とともに自動改札に切符を入れ、外へ出る。駅からまっすぐに 伸びる道は等間隔に街灯に照らされ、その先は暗闇に消えていた。 生暖かい風が私の頬をなぜる。視界の端に、ほの白いサクラの花びらがちらほらと舞う。 私はポケットの中の数枚の札と小銭を握った。今日の稼ぎだ。少しの間これで暮らせるだ ろう、たとえ今日一杯の酒を飲んだとしても……一杯か二杯、いや三杯飲んでも大丈夫か もしれない……私は頭の中で計算をする。よし、三杯までなら大丈夫。 行きつけの飲み屋へ行こうと歩き始めたとたん、私の足は止まる。向こうの空き地が煌 々と明るい。そこはずっと前から空き地で明かりはなく、夜は暗い穴を空に向かってあけ ていたはずだ。工事でも始まったのだろうか、それにしては明るすぎるといぶかしく思い ながら、私は再び歩き出す。ほどなく明かりの正体はわかった。 そこは遊園地になっていた。メリーゴーラウンドが音楽に合わせて動き、観覧車がゆっ くりと弧を描いている。コーヒーカップがぐるぐると回って、宇宙船が夜空に消えてはま た姿を現わす。イルミネーションが輝き、春の夜の底に下りた夢のようだった。ただ不思 議なのは、中に誰も見当たらないことだ。客はもちろんのこと、係員さえいない。あふれ る光の中、乗り物だけが騒々しく動いている。 私は入口あたりでちょっと立ち止まり、また歩き出そうとした。遊園地に用はない。し かし私の足は何かに捕らえられたように動かなかった。けばけばしいアーチ型の看板下か ら注意深く中を覗き込んで、ほどなく私は私を捕らえたもの正体を知った。 入ってすぐのチケット売り場のわきに、テーブルに食べ物を乗せて売っているところが あった。カップに入ったフライドチキンやポテトや飲み物といった粗末なものだ。ライト の当たったチケット売り場の陰でそこだけ薄暗い。場所から推測すれば遊園地直営のもの ではないだろう。しかしそこには人がいたのだ。たった一人、テーブルの向こう、食べ物 の陰で、ぼさぼさに髪を伸ばし、汚れた顔をした----たぶん服も汚れているに違いない-- --小さな女の子が。 私を捕らえたのはその子の目だった。汚れた顔の中で、その大きな目はきらきらと輝い ていた。まるで誰も知らない山奥の湖の底に沈んだ、二つの宝石のように。その目がまっ すぐに私を見つめている。誰、というのでもいらっしゃい、というのでも、ましてや私を 連れてってというのでもなかった。ただきらきらと私を見つめるだけの目だ。 しばらく見つめあった後、私は自分でも知らないうちに言葉を発していた。「一緒にう ちに帰ろう」 実際声に出したか口の中で言っただけかはわからない。しかし女の子は素直にテーブル を回って私のそばに立った。そして二人で遊園地を出、並んで歩き出した。
無言で歩き、橋に出る。橋のたもとから川原に下りれば私の小屋はすぐだ。街灯のない 川原には闇が漂っているが、遠くのゴルフ場の光が空を渡ってくるので、ぼんやりと明る い。女の子は逃げもせず、いやがりもせず、私の暗い掘っ立て小屋の中におとなしく入っ た。私はロウソクに火をともし、女の子に座布団にすわるよう促す。そして夕飯を作りな がら尋ねる。 「名前は?」 「……」 「お父さんやお母さんは?」 首をふる。 「じゃあ、お姉さんかお兄さんは?」 首をふる。 「学校には行ってるの?」 「……」 「ずっとあそこで働いてるのかい?」 「……」 私は出来上がったインスタントラーメンを二つ、テーブルの上に置く。女の子は黙って 食べる。半分ほど食べると、箸を置いた。そして私をおびえた目でちらちら見る。 「おいしくない?」 首をふる。 「じゃあ、ごちそうさまだ」 黙っている。私は彼女の目を見る。澄んだ目だ。山奥の、だれも知らない湖のようだ。 私は自分の分と彼女の残した半分も平らげ、食器を片づけると布団を敷きにかかった。電 気のない生活では、暗くなったら寝るのが基本だ。黙ったまま女の子には、座布団を二つ 並べて寝かせる。ロウソクを消し、窓から入ってくるゴルフ場の光に背を向けて、私は布 団の中で丸くなる。
彼女が口をきけないのではないかという懸念は、次の朝にはもう疑う余地はなくなった。 警戒心からそうしているのではなく、処世術としてそのふりをしているのでもなく、本当 に聞こえないのだった。物音には反応しない。声をかけてもふり向かない。唇の動きを読 むのだろう、こちらと向かい合っているときだけうなづいたり首をふったりする。それで もむずかしいことはダメだし、自分のことを説明することはもちろんできない。筆談なら 大丈夫かと紙と鉛筆を渡したが、鉛筆を握ることもしなかった。しかし名前がわからない のは不便だ。私はひらめいた言葉を言ってみる。 「きみの名前はムク。無口のムクだ。ム・ク」 ムクは、朝食のパンをまずそうに食べながらコクリとうなづく。無口のムク、ムクドリ のムク(彼女のおびえた様子、そして機敏な動きはどこか野鳥を思わせた)、そして無垢。 口にしてみたらそれ以外の名はないように思えた。そして体も無垢でいてほしいものだと、 私は朝食後川で体を洗ってくるようムクに伝える。一晩となりで寝てその臭いに閉口して いたからだ。 せっけんとタオルを持ったムクは橋の下まで行くと、人目につかないところで服を脱ぎ 始めた。私の言ったことはどうやら通じたようだ。髪も洗うんだよと指示したが、果たし て自分で洗えるのかどうか----この前洗ったのは何年前かという髪をしていたし----心配 ではあったのだが、まあそれでも、一人で体が洗えないほど小さくはないし、人前で裸に なるのが恥ずかしい年頃にはまだなっていないようだし、私はムクを置いて一キロほど先 にあるミヨコさんの小屋へ出かける。 私の小屋は、何年か前ここに来て廃材やビニールシートを使って自分で建てた。真夏は 暑いが、あとの季節はまあ快適だ。行政も、追い払っても追い払っても戻ってくる私たち に手を焼いて、このごろは見て見ぬふりをしている。川沿いには点々とそういう小屋が並 び、お互い顔見知りだ。ミヨコさんはその中で唯一の女性で、小柄だからムクが着られる ようなものがあるだろうと思ったのだ。 十分ほど歩くとミヨコさんの小屋に着く。ずいぶん久しぶりだが変わりはないようだ。 私より寝坊で宵っぱりのミヨコさんは、起きたばかりといった顔で、けれど私がまんじゅ うを差し出すと満面の笑顔になって受け取った。 「小さな女の子が着るような服は持ってない?」 朝食代わりのまんじゅうをぱくつきながら、ミヨコさんは山になった衣類の中からすぐ にTシャツとスカートを引っぱり出した。「実はゆうべ女の子を拾ってきてね」と言うと、 ミヨコさんは眉をひそめ、「落っこってたの?」ときく。こういうときに笑っていはいけ ない。長年のつき合いでそのあたりは心得ている。私もまじめな顔で、「ううん。いすに すわってた」と答える。ミヨコさんはそう、とうなづき、ついでに下着のパンツもくれた。 ミヨコさんは散らかし屋だが、清潔だ。ちゃんと洗ってあるに違いないから、それもあり がたくもらって帰る。 家に着くと、ムクがタオルにくるまって震えていた。髪もぬれているから、どうやら洗 ったようだ。春とはいえ、川の水はまだ冷たい。私自身は銭湯は金の余裕があるときにし か行かないし、夏以外は行水もそう頻繁にはやらない。ちょっと酷だったかなと思いなが ら、髪をちゃんとふくよう新しいタオルをそばに置き、もらってきた服も渡してやる。ム クが着替えている間に私はお湯をわかす。 こんな生活だが、食べ物にはちょっとぜいたくをしているつもりだ。家のとなりに小さ な畑を耕して野菜は切らさないようにしているし、川や少し歩いていったところの海で釣 りをすれば魚は食べられる。米やお茶や調味料は、調達の名人がいて仲間に分けてくれる ので何とかなっている。弁当もよく手に入る。コンビニや食堂で余ったものを、店によっ ては内緒で分けてもらえるからだ。私は熱いお湯でココアを作り、テーブルに置いてムク に飲むようすすめる。 ムクは言われた通りココアを飲みながら、私の小屋を横目でチラチラと眺める。すりき れたカーペットのしいてある床、段ボールをはった壁、座布団にテーブル、たたんで置い てある布団、いくつかの段ボール箱にいくつかの棚、すみにある台所----携帯用ガスこん ろ、鍋や食器の乗った棚、水の入った桶、食料貯蔵箱、たくさんのロウソク、バケツ、ほ うき----、それからカーテンのない窓、ゆがんでちゃんとしまらないドア。一つ一つに目 をやってから、ムクはココアを半分ほど残して立ち上がる。 「ムク」ムクは汚れたズックのくつをはいて玄関ドアの前に立っている。「どこへ行く?」 返事があるわけがない。あっという間にドアを開けると、外へ飛び出す。私はあわてて ムクの後を追って外へ出る。逃げたのかもしれない。家へ帰ったのかもしれない。考えて みれば当たり前だ。今までじっとしていたのが不思議なくらいだ。知らない男についてい く、そのこと自体が異常だとはわかっている。帰ったならそのほうがいいのかもしれない。 でも私はムクの姿を捜す。 いた。川べりの、アシの茂みの中だ。高い草の間から、さっき着替えた赤いTシャツが 見える。私はそうっと草をかき分けて近づく。それから思い出した。彼女は音が聞こえな いのだ。それでも私は音を立てないようにそっと近づく。ムクは草むらにしゃがんで、川 をじっと見ていた。 ムクが気がついたのは、私が手を伸ばせば届くところにまで来てからだった。たぶん-- --川で遊ぶサギに見とれていたのだろう。私を見て飛び上がるほどびっくりしたようだっ たが、あまりの近さに観念したのか、少しすわる場所をずらしてひざをかかえなおしただ けだった。ただサギを見ることはもうやめて、頭をひざのなかに埋めてしまったが。 私は少し間をあけて、ムクのとなりに腰を下ろす。川面は、午前の光にチラチラと輝い ている。後ろに広がる川原には、枯れ草の間から緑が芽吹き始めている。向こうの岸には 黄色の菜の花、ピンクの花が満開のヤマザクラ、頭を上げると、遠くの山にもやがかかっ ているのが見える。鳥が鳴いている。遠く海の音も聞こえる。風がさわさわとアシの草を 鳴らして吹いていく。 まだ乾いていないムクの髪が冷えてしまうのではないかと心配になり、私は立ち上がる。 ムクは私を見上げる。帰ろう、と目で合図するとムクも立ち上がった。 何も言い交わしはしなかったけれど、確信はあった。そしてその通り、ムクはそれから 私の小屋から逃げ出すことはなかった。
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