私は生きてはいない。 この世に存在しない。 この世の誰の記憶にも存在しない。
「話っていうのは何……」 目の前に現れた愛しい人。 「あなた……どうして警察に追われてるの?」 あなたが質問を口から吐き出し終える前に、早口で問いただす。 「レイ……それは。それは君には言えない。言えば、君も警察に追われることになる。君と別れたのも、そのためだ」 倉庫内に反響する、張り詰めた愛おしい声。 しばらく音の無い空間が倉庫に充満して、空気を鎮める。
「七月二日の夜。図書館裏の森」 私はゆっくりと、最後のキーワードを口にした。
「……君は。やはり」 悲しそうに見つめる大好きな漆黒の瞳。
「やだ。やっぱり気付いてたのね? どうしてわかったの?」 あなたはしばらく言葉を失う。 「……この腕時計が俺の目を離れて、発信機が付けられるのは、君の部屋のシャワーを浴びる時ぐらいだ」 彼は寂しそうに、視線をコンクリートの床に落とした。
「そう。話が早いわ。あの少年はどこ?」 「残念だが、大切な教え子を売るわけにはいかない。あの殺人は、あの子の意思じゃない。……止めてやれなかったのは俺の責任だ」
私は浅くため息をつく。予想通りの展開。 「君は俺を殺しにきたんだろう? 死神のレイというのは君のことか」 「そうよ。ちゃんと会った時から名乗っていたでしょ? レイって」 私は悪戯な笑いを浮かべる。 「まさかこんなに若くて綺麗な女性だとは思っていなかったよ。殺し屋といったら男だからな」 あなたは少年の目をして微笑む。 「もう一度聞くわ。少年はどこ?」 私は静かに腰を上げて、銃を取り出し、ゆっくりとあなたに向ける。 あなたは銃口から目を逸らす事が出来ない。 もっと。もっと私を見てよ。最後くらい。 「……言えないよ。」 知ってる。 あなたがそう答える事は。 「そう。分かったわ」 私はゆっくりトリガーを引く。 「君のような美人に殺されるなんて、俺は運がいいな」 あなたはまた微笑む。 最後に大好きな笑顔が、二度も見れて胸が詰りそうになる。 「今まで殺してきた人間もそう言ってくれたわ」 私は生きてはいない。 死神の顔を見た者がいないように、私の顔を見て正体を知った者が生きている事が無いから。 私の名前と顔が一致した者は必ず殺す。今から殺す者だけが私の顔と名前を知る。
「さあ、ひざまずいて、目を閉じて。あなたはクリスチャンじゃないから、お祈りの時間なんていらないわよね?」 みんな私のことを覚えてはいない。死んでしまうから。 私が殺した者たちは私の記憶の中で生き続ける。
「一つだけ。一つだけ言わせてくれないか」 この世に生きている人間の、誰の心にも存在しない私。 この世に存在しない私。 生きてはいない私。
「最期の言葉ってやつ? 聞くのが私でいいのかしら」 初めて生きたいと思った。 あなたと出遭った時。
「いや。君じゃなきゃ意味が無いんだ」 あなたの記憶の中に私という存在を刻みたい。 私が生きたという事を。あなたを愛したという事を。 「本当に愛してた。どんな理由であろうとも、君に会えた事が俺の人生の中で、一番幸せな事だったよ」 あなたの記憶の中に生まれて、あなたの心の中で生きていきたい。 あなたが死ぬ時が私の本当の死。
「知ってるわ。私もよ」 銃口をこめかみにあてる。
ずっと夢見ていた。 あなたが死んで、私が存在しない世界よりも、あなたが存在して、私が生きている素敵な世界を。
「さようなら」 響き渡る銃声。 同時にひっくり返る視界と、頭に響く強い衝撃。 火薬の匂い。 冷たいコンクリートに打ち付けられる体。 頬に感じる自分の温かな血液。 何も受信できなくなったラジオの様に、頭の中で雑音が鳴り響く。 どんどん大きくなる雑音の遠くに、サイレンの音が混じる。
ゆっくりと動く世界。 私を見下ろすあなたの目。 嫌だ。最後にそんな顔を見せないで。 もっと私の大好きな笑顔を見せてよ。 他の人間の中に、初めて私という人間が生まれる。 愛おしいあなたの中に、私が生まれる。 こんなに嬉しい事はないのに。 泣いていないで、もっと笑ってほしい。 こんな暗くて汚い倉庫で私は生まれる。あなたの中に。
「レイ」 愛おしくて仕方ないあなたの声。 私が生まれて初めて聞いた声。
頬に触れるあなたのぬくもり。 生まれて初めて知るぬくもり。
あなたの涙が頬を伝って落ちる音。
私が生まれた音。
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