Pieta
考えて考えて考えて 考え疲れたとき ふと思考を手放してみる そして まだ街にも残るささやかな自然に触れて その解放感と やすらぎは 再び考える力を養ってくれるだろう
たとえば神秘を神秘のまま鵜呑み信じることは、 自身の内にも外にも新たな展開を生むことないように思う。 なぜ、どうしてと問うことは、人が培った力。 それを放棄してしまっては、 これまで何かに、それは時に権力や集団心理、に個々が従属してきた歴史を 繰り返すだけではないかなとも思い。
キリストの磔の物語を聞いたときは(キリストが実在したかの考察は別として) そこに権力の支配と集団心理の恐ろしさを感じた。 そのエネルギーは形を変え様相を緻密にし常に今だってこの世界にある。 あの物語はそれを背景に表現しているのではないかと思うのだけど、 より多くの人の関心はキリストの苦悩や復活という神秘に向けられているように見える。
最近になってマグダラのマリアの話を耳にしたときは、 ピエタという言葉がリフレインした。 これはたぶん、幼いころ百科事典の宗教芸術のページに見入っていて 記憶の片隅に留めていた言葉が甦ったのかもしれないけど。 その言葉の意を今一度調べてみて、彼女が物語の中で何を象徴しているのかが伺えた。 でも、より多くの人は彼女自身を神聖視してしまうのではないだろうか。
組織化した宗教の中に真の信仰はみえない。 何を真の信仰というかは、それぞれに認識が異なるとは思うけど。 組織は肝心な部位を神秘のベールで誤魔化してしまう、 肝心な部位というのは、その集団や共同体に協力する人達に知られたくない部分のこと。 また従属する人達は疑問を抱いても、 その疑問を持つという思考自体を怖れ、自身の考えを伏せてしまう。 畏れと怖れは違う、それを見極めるのは自身の考える力なのに放棄してしまうんだ。
それを身近に見、自分自身も経験した。 (上にキリストの話を書いたけどキリスト教系ではない) 私は自分の感じたことを、その家族や知人に伝えたかった。 でもそれは、40年50年と組織の信仰を生活の中心に据えてきた人々にとっては、 人格を否定される行為にもあたるようで。 また高齢の義父母には、人生の最終章を穏やかに健やかに過ごしてほしい、 その生き甲斐に水を差すことにもなりかねない。
やがて世代交代とはなる、また世間で信仰や宗教に対する新たな認識が育つとき、 特定の宗教に繋がっている人達の心にも影響があると思う。 自らの内に起る疑問を伏せてしまうことが出来なくなるときが・・・ それまで、見守る、それがベストかなと今は思う。
一般の人には、彼らの言に惑わされないで、と思う。 ワラをも掴みたいときはあるかもしれないけど、虫のいい話ばかりではないし。 彼らの人間味がどんなによく観えても彼らの勧めるものが、そうとは限らない。 どんな目的があって自分に勧めてきているのか、やはり自分なりの思慮は肝心だと思う。
ひとつの思想や宗教が世界に浸透するというのは一方的な理想。 それが、この世界の困難を複雑にもしてきた一因なら私たちはどう在るべきか。 すでに硬直化した意識下にあるばあい、それを転換するのは容易ではない、 客観的に観れる人達が、柔軟に対応してゆく、 それが和らぐ日へのキーポイントなのかもしれない。
No.050318
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