個として
ひとりの人間は全てを含んでいる、喜怒哀楽すべて。 それらは感情や精神という意識になって、 見聞きすること、遭遇する出来事によって現れてくる。
私という場から現れてくる(それは心といわれるもの?) どこか別なところから取り入れてるわけじゃない。 全てを含んでいる、善や悪と言われるものも。
きっと争いごとを栄光と思っている世界では、 私たちの目にふだんは恐ろしいことと映る光景も美談となるのかもしれない。 そこでは殺人者、殺人指示者が英雄だったりするんだ。 (戦争をして勲章がもたらされること怪訝ではありませんか?) 環境によって価値観は変わるものだから何が正邪かは問えないけど。
でも思い出したい。 果たして、そんな世界を誰もが望んでいるのだろうか、と。 よく考えたい。 そんな世界を望む者の心の奥には何があるのだろうか、と。
きっと野心や利己的な名誉欲などなどかな。 それが現れた世界を別の視点から見ると悪という状態に見えたりする、 でも先の争いごとを栄光と思う世界ではそうではない、のだと思う。
私は悪という実体そのものはないと思っている(あくまで自分の考えだけど) そういう架空の実体を想像すると、人は自身の内にみいだしたよからぬ想いを、 そのせいにして楽になったりするのだと思う。 単純に言えば、責任転嫁かな。
ところで、昨日読んだ新聞の記事の一節・・・ 『文化や民族より人間の経験の普遍性の方が大きい。』 西欧では比較的新しい考え方なのだそうだ。 東洋では文学の中に10世紀頃から、その精神が伺えるみたいだ。 『中国と日本は言葉は違っても、月の影は同じように人の心も同じではないか〜』 と土佐日記のことが引用されていた。
価値観の置き所も肝心なのかもしれない。 文化や民族(組織集団)を基点とするのか、 人間の経験の普遍性を基点とするのか、のように。
いえ、人間の経験の普遍性を個としての基点にしつつ、 集団生活を営んでゆく、という印象だろうか。 今、朧げにも感じるのは・・・。
どんな脈絡かはさておき、 朝日新聞夕刊の“父の苦悩 大江文学に学ぶ” 〜仏小説家フォレスト氏に聞く〜を読んで、 その内容から逸れつつ戻りつ、こんなことを考えた。
No.050303
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神話
伝説や神話というもの
人は物語そのものに心を奪われがちだと思う。
でも神話学(学問として存在するらしい)の視点を持って読むと
なにを語ろうとしているのか意味合いを感じることできそうだ。
意味合い、それは物語の根底に流れるようなイメージで
語り手(もしくは伝え手)が意識していない場合もありそうだけど
また人の心理を浮き彫りにするものであるかもしれず
読み手(その時の状態)によって捉え方も異なるかもしれないという
微妙な感じだけど。
もし意図して語られたものであったら…
でも読み手が熟慮することを
語り手は心奥で想っていたかもしれない。
そこから新たな展開が紐解かれ
それぞれの時代に必要な知恵が生まれるように…。
No.050226
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