春の風の中にて 咲き戯れていた樹の花たちは 雪のように花びらを舞わせ 枝には新たな季節の葉が茂りはじめる こうして花びらの敷かれた道を共に歩む君の 背中もいつかは見送るのだろうか その幼さが影を潜めるとき 風に誘われ枝を旅立つ あのひとひらとなる花たちの姿を 母木がみつめるように 実の結ばれることは自然の理りであっても ひとつの物語が手をはなれてゆく そんな哀しさにも似て 今はただ共に歩もう 息子と二人ででかけて、 車も使わず、ゆっくりと道を歩むのは久々だった。 道々、樹や花や猫など、いろいろなものを見て話をして、 そんなささやかなひと時に和みを覚える。 もっといっぱい一緒に歩きたい、 もっとたくさん話をしたい、 でも母親の顔になると小言も出てしまって、 先手逃げられてしまう。 彼がまだ小さな頃、病気をしてしまったので、 母子が密な時間であるときの育児を私の母に頼むことが多かった。 それゆえ距離が出来てしまったように感じて、回復後は、 家族の関わりを大切にしようと仕事も復帰せずに手放した。 ほんとうは距離などできていなくて、 家庭において役目が全うできないという負い目が自分に生じたのだ。 役割、それを取り戻そうとしていただけになっていた。 あの時期、私のジレンマはよけいで、君は君なりに体験を積み、 命の大切さを感じたのではないかと思う。 病身の母親をみて、幼い君の心にどんな葛藤があったのか。 死を意識し、そこから命の重み思うことに至ったのだろうか。 ――後のエピソード―― 小学校一年生の授業で自分の一番の宝物を持ってゆくという課題に、 君は何も持っていかなくても「自分が行けばいいの」と言った。 「どうして?」と聞くと、命が宝物だからと、答えた。 そんなとき大人の頭にはなにか持たせなくてはという思いもよぎる。 命がなんて言っても忘れ物した言い訳にしか聞こえないのではと。 後に、その授業の話しを先生から伺った。 先生いわく、それぞれの宝物について発表しあい、 その後、みんなが持ってきたもので遊ぶ予定だったらしい。 でも、息子と同じく幾人かの子供たちの宝物はモノではなかった。 ある子は家族が宝物、ある子はお母さん、 大きくてカバンに入らないから持ってこれなかったとジョークも飛びつつ。 それぞれに、どうしてそれが宝物かみんなの前でどうどうと発表したそうだ。 忘れ物した言い訳なんて誰も思わない、よけいな心配。 先生も子供たちの意外な宝物に目からウロコ状態だったけど、 心打たれたと話してくれた。 小さな種かもしれないけど、日々の中から、 そうした心たちが生まれ拡がること、私も願う。 誰に教わるのではなくとも、自ら学びゆく、 彼らの育つ心に信頼を置こう。 必要なとき、ちょこっと背中を押してあげたり、 見守る存在のある安心を提供したり、できるのはそれくらい。 それくらいがいいのかもしれない。 言葉でどんなに命が大切か諭しても実感はなかなか伴わないと思う。 ルールのように覚えること覚えさせることはできるかもしれないけど。 全ては日々の暮しの実際の経験の中にあり、 その中で機微な感受性が育むまれることにより培われてゆくのだろう。 この頃は子供たちの顔を見ると体面的な常識を説くこと多くなったかもと、 反省を込めて……。 私にとっても、あらゆることは、こんなささやかな日々を生きる、 その心を保ち丈夫にするためにあったのだと振り返る。 ここにある日々を包むように歩んで行こう。
|
|