「イワン、おい」 8階はフロアを南北に分割している。 中央にエレベーターホールと、トイレに給湯室、倉庫があり、オフィスフロアの手前には東西に伸びる廊下があった。 その廊下の東西の端に、階段がある。 イワンたちは、西側の階段に、アリョーシャの隊は東側の隊に待機していた。 廊下は暗く、赤外線スコープでかろうじて状態を確認することができる。 イワンは声をかけてきた男のほうを振り向く。 「おれたちも突入したほうがいいんじゃあないか。もう、5分はたつぜ。アレクセイたちが突入してから。いくらなんでもかかりすぎだ。第一スタングレネードを二発も使っているのが気にいらねえ」 「まあ待て。突入するにしても、アリョーシャの隊だ。おれたちはバックアップだ」 「それにしたって」 イワンは言葉をかさねる男を手で制す。 無線でヴォルグに連絡をとり、指示をあおぐ。 「まだ待機だ、おれたちは。ユーリから連絡があった。中は膠着状態のようだ。人質を盾に取られている」 男は肩を竦める。 イワンは信じがたいものを感じた。 まさかたったひとりのヤクザ相手に、ユーリとアレクセイの隊がおくれをとるなどというのはありえない。 何かが起こっているとしか思えなかった。 突然、オフィスフロアの扉がひらく。 黒いコンバットスーツの男が、車椅子を押して廊下にあらわれた。 「ターゲットじゃねえか」 後ろの男の言葉に、イワンはカラシニコフを構える。 銃声が響いた。 アリョーシャの隊が発砲したのだ。 黒い男は、薙ぎ倒される。 血飛沫が闇の中で一瞬、深紅の輝きを放つ。 アリョーシャの隊の、フロント役を担うツーマンセルが車椅子の男に駆け寄り確保した。 「やれやれ、終わったな」 イワンの後ろで男が呟いた瞬間。 爆発音と閃光が、イワンたちの意識を一瞬とばした。 スタングレネードだ。 ヤクザはひとりでは無かったのか? イワンはこころの中で舌打ちする。 気を緩ませてしまっていた。 「くそ」 イワンが視界を取り戻したとき、信じがたいものを見た。 フロント役の二人の男たちは文字どおり身体を両断されている。 ひとりは肩から股にかけて、巨大な斧で断ち切られたように。 もうひとりは、胴をギロチンで断ちきられたように。 そんなふうにひとを斬ることが可能であるとは、信じられなかった。 給湯室でバックアップをしていたアリョーシャたちが、カラシニコフを撃つ。 日本刀を持った黒のコンバットスーツの男は、地面を転がり給湯室の前に立った。 カラシニコフは、素早い動きのものを捕らえるには不向きだ。 反動が大きすぎて、コントロールしにくい。 ひとりが股間から肩口へ向かって斬り上げられ、縦に裂かれる。 最後に残ったアリョーシャの首が斬り落とされた。 ボールのように生首が廊下をバウンドする。 イワンは自分の目で見ても、とても信じられない。 ありえなかった。 イワン自身銃剣を使った格闘戦を、何度も経験している。 ひとの身体に、刃物を突き立てると何がおこるか判っていた。 筋肉が収縮し、剣を奪われる。 それを切り抜くなど、不可能だ。 ましてや、ひとり斬れば刃は血脂でなまくらになるもの。 ひとり以上の身体を斬ることなど、できない。 けれど、その男は子供が紙人形を鋏で切り刻むように、生きたひとの身体を斬ってのけた。 悪魔としか思えない。 「くそう」 イワンたちは、カラシニコフを構えたまま凍り付いていた。 車椅子の男がターゲットとの間にいるため、撃つことができない。 黒い男は懐から出した紙で刀の血を拭う。 男は車椅子を押しながら、イワンたちのほうに近づいてくる。 「おい、やつはどういうつもりだ」 イワンが後ろからかけられた言葉に、唸りをあげて応える。 「10メートルのポイントまできたら、撃つ。頭を狙え。シモンを殺すと今日はただ働きだぞ」 「自信ねえな」 イワンは苦笑する。 イワンの隊が戦闘するのは、本当に最悪のケースであった。 イワン以外は実戦経験の乏しい素人に近い男たちだ。 「それでもやれ」 「判ったよ」 黒い男は、10メートルポイントの少し手前で立ち止まる。 無造作に車椅子を脇にどけた。 信じがたい。 自ら命綱をはずすなど。 しかし、これが最後のチャンスだ。 イワンは撃てと叫ぶ。 その叫び声は、黒い男の裂帛の気合いに殺された。 イワンが何が起こったのか理解出来ない。 目に見えぬ、何かがイワンたちを襲った。 ほんの一瞬だけ、意識がとぶ。 無色で無音の津波がイワンたちを飲み込んだ。 それが通りすぎて意識が戻る。 多分、ほんの1、2秒のことだろう。 けれども。 意識が戻ったその瞬間に、黒い男は目の前にいた。 「うおおおぉ」 イワンは叫びながらカラシニコフを撃つが、黒い男は身を屈めながら剣をふるう。 左の腋下から、右の肩へと閃光が走る。 イワンは気がつくと、天井を見ていた。 その下に自分の胴が見える。 頭部と左腕を失いながら、イワンの胴はまだ立っていた。 左胸の切り口から噴水のように血が吹き出ている。 イワンは闇に飲まれる寸前に、黒い男が残りの三人を 斬るのを見た。 刃と化した風が吹き抜けるのを見るようだ。
「一体何をしたんだ」 四門は、呆然と呟く。 間違いなく百鬼は撃ち殺されるはずだった。 ほんの一瞬、戦争屋の兵たちは動きを止めている。 その瞬間に、百鬼は驚異的な速度で間合いを詰めた。 それは、魔法にすら思える。 百鬼の言ったとおりに。 「ああ、胴当てというやつだよ。古武道ではそう珍しいもんじゃあない」 「胴当て?」 「ああ。中国拳法の百歩神拳とおなじ理屈だ。気を飛ばし脳を揺さぶる」 「気をとばすだと?」 「振動波だな。固有振動。シンクロして増幅する。ごく微細なものだが、効果は絶大だ」 百鬼は、刀を皮製の布で丁寧に拭っている。 血脂を落としているのだろう。 「今のが魔法か?」 「まあ、その一端という程度だな。思ったより少ない兵で攻め込んできたので魔法を使うまでもなかった」 あきれた話である。 おそらく四門が専属契約している戦争屋の戦力は今ので半減したはずだ。 四門は、溜息をつく。
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