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作品名:天使の翼 作者:光牙

第5回   5
日が昇り、雲間からゆっくりとその角度を上げ出した頃、征司は公園を後にした。胸の中には虚しさが嵐となって吹き荒れている。でも、征司が側にいた所で、何も変わらないのだ。
由梨の事が気にかかり、そちらへ向かった。途中の古びた団地の一室から電話のベルが鳴っている。主は不在なのか、一向に電話に出る様子はない。なんだか気にかかり、三階にあるその部屋の窓まで昇ってみた。六畳程の部屋と飾りのような台所があるその部屋はこざっぱりとしたというよりは、ほとんど家具がない。室内には一人の老人が居た。髪はまっ白でぼさぼさだ。顔に刻まれた皺の深さはその生き様を表しているかのようだ。しかし電話には一向に出る気配はない。やがて諦めたようにベルが鳴りやんだ。老人は伸び放題の顎髭をさすって満足気にオている。そんなに出たくない電話だったのかと思い少し不思議に感じたが、由梨のことを思い出しそこから離れた。
由梨は朝食を少し食べ、家族が今日は仕事を休めばいいと言ったが、気丈にも仕事へ行くと言い張った。家族もそれで気が晴れるならとそれ以上止めることはせず、見守っている。自分などが見守らなくても、由梨にはこうして側にいて、声をかけて、抱き締めて励ましてくれる家族がいるのだと切なくなった。自分の存在意義がどんどん薄れて行く気がする。誰にも何も出来ないこの存在にどんな意味があるのかと。
会社へ向かう由梨の後をついて行く途中で、今朝電話の鳴っていた団地の横を通りかかった。
ふと気になって、あの老人の部屋を覗いて見る。征司が窓から覗き込むと台所から足だけ見えていた。嫌な予感がして中に入ると、老人は苦しそうな息を吐き出しながら、その胸を掻き抱いていた。
これは病気に違いないと思い、すかさず側にあった電話に手を伸ばしたが、受話器を掴むことは出来なかった。その背をさすることも、声をかけることも、ましてや誰かにこの状況を知らせることも出来ないことを思い出す。征司は知らずに親指の爪を噛んで思案していた。何か出来ることはないか。どうにか誰かに伝えることは出来ないか。しかし何も思いつかないまま時間は流れる。
老人はしばらくそうして荒い息をしていたが、次第に落ち着きを取り戻し、ゆっくりと立ち上がると流しに行き水をコップに一杯飲んだ。そして深いため息をついた。
その様子をじっと見ていることしか出来なかった征司も、老人がため息をつくのと同時に肺から息を吐き出した。
もしこのまま老人が死んでしまったらどうしようかと、本気で心配していたからだ。やっと落ち着きを取り戻し、老人は唯一の家具と言ってもいいテレビの電源を付けた。
その時玄関を叩く音と老人の名を呼ぶ声がした。
「内藤さん、内藤さん、いらっしゃるんでしょ?」
内藤と呼ばれた老人はさも煩わしそうに眉を顰めると「何の用だ。帰ってくれ」と叫んだ。
征司はその語気の強さに驚く。先程まで苦しみもがいていた老人とは思えないものだったからだ。病気なのであれば、その旨を伝えて助けを求めた方がよいのではないか。
「内藤さん、開けて下さいよ。少し話しを聞きたいだけなんです」とドアの向こうから声がする。
「話すことなどない。ほっといてくれ。わしはあんたらの世話にはならん」
それでも何度も老人を呼ぶ声がしたが、老人は無視し続ける。やがて諦めたようにその場を去る足音が聞こえた。老人はふんっと鼻で笑うと、またテレビに向き直った。
征司にはこの老人が何を考えているのか分からず困惑していた。あきらかに病気と思われるのに、何故にそこまで他人の介入を拒むのか、それが分からなかった。
声の主が何者なのか気にかかり、今度はその人物を追った。その人はすぐに見つかり、同じように一人暮らしの老人のもとを訪ねていた。今度はすんなりドアが開き、老女が招き入れていた。征司は天井に近い所から見下ろしながら二人の会話を聞いていた。どうやら市の福祉課の職員らしく、こうして独居老人の家を訪れては話しをしたり、病院に連れていったりとしているようだ。
老人の孤独死が社会問題となっているので、こうして独居老人の見回りをしているのであろう。それならば、あの老人は何故頑なに拒むのか。しかもあれ程苦しんでいたのに。出来ることなら、この職員にあの老人が病気であることを伝えたかったが、無理な事は百も承知である。自分には何も、何一つ出来ることなどないのだ。誰かを助けることなど出来る筈がない。霊となって過ごした時間は短いが、その事は嫌と言うほど思い知らされている。征司はもう一度先程の老人の部屋へ行った。老人は変わらずテレビを見ているのかと思ったが、その目はテレビの脇にある猫の写真へと向けられていた。茶とらの猫を抱いた幸せそうな笑顔の老人がそこに居た。今この狭い部屋を見渡しても、猫の姿はない。老人が写真を見つめる虚ろな瞳から、もう死んでしまったのだと察した。征司はこの老人の寂しさを少し垣間見た気がした。霊となった今だから分かることもある。大切な命と分かたれてしまった寂しさだ。
人はそれぞれ与えられた環境で生きる道を探している。ブランコに乗っていた少年も、この老人も懸命に探しているのだ。そして自分も霊として生きる道を探している。生きていても死んでも人は迷うのか。切なさを胸に征司は団地の屋上で大の字に寝ころび、眩い太陽の光を見つめた。


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