そこにはたくさんの人々が列を成していた。何故かその中に自分も並んでいる。何のために並んでいるのかも分からない。そもそもここはどこなのか。 列の先には大きな鉄製の扉が開いている。その扉には細やかな紋章が刻まれ、その大きさは三メートル以上あり、とても一人で開閉出来るとは考えられない。空気は重く淀んでいて、列に並ぶ人々の表情もまちまちだった。悲嘆に暮れている人、歓喜に沸いている人、人々はその門の中に一人、また一人と入って行く。列はどんどん進んで行き、順番が回ってきた。扉をくぐるとほんのりとした灯りが満ちていた。 目の前に現れたのは、長い銀髪と鋭い目を持つ長身の男性であった。しかし、一目見て男性とは分からなかった。その顔はとても奇麗で端整に整っており、その長身と目の鋭さがなければ、たおやかな女性に見えたかもしれない。服装も何重にも薄布を纏ったようなもので、機能性に優れているとはとても思えないものだった。 「次、伊藤征司君」 突然名前を呼ばれ反射的に「はい」と答える。銀髪の男性はなにやら書類に目を落としながら、考え事をしているようだ。 「君は特別可もなく不可もなく。まぁ、天界で問題なかろう」 「あの、意味が分からないんですが・・・」勇気を出して質問してみるが、ちらりと向けられた視線の鋭さにたじろぐ。 「意味が分からない、ああ、成程。だったらラファエル君に説明してもらいたまえ」 男性が右手を高く上げる。衣が纏わりつきながら腕をすべりさらりと二の腕が見えた。予想以上に筋肉質なそれに驚く。パチンと指をならしながら「ラファエル君」と呼んだ。 ふわりと空気が流れる気配がして、振り向くとそこには少年がいた。 「お呼びですか、ウリエル様」とその少年が言った。こちらは肩にかかるくらいの群青がかった髪とアメジストを溶かしこんだような紫色の瞳をしている。服装はやはり薄布を何枚も纏ったような格好だ。 「この人、伊藤征司君、事情を説明してあげてくれたまえ」と何枚かの書類を渡す。 「承知しました」と優雅に頭をさげると征司に向き直り「ではこちらへ」と促す。 やっぱり訳が分からないまま征司は後をついて行くしかなかった。 連れて行かれたのは小さな小部屋だった。丸いコーヒーテーブルに二脚の椅子があるのみで、窓一つない。 勧められるままに椅子の一つに座った。タイミングを見計らったように、小学生ぐらいの子供が紅茶を運んで来る。その子供は金髪の巻き毛でとても愛らしい顔立ちをしている。背中に翼があればまさに天使のごとくとの表現にあたりそうだ。子供が部屋を出るのを待って、ラファエルと呼ばれた人が口を開いた。 「まずは自己紹介からだね。ぼくはラファエル。人の霊魂を見守るのが仕事」 まだ変声期を迎えていないのか、外見通りの少年独特の高い声で言った。先程の印象とは違い砕けた話し方に拍子ぬけする。その話し方も少年そのものと言った感じだ。 「何?こんな子供に説明なんてって思っちゃったりしてるわけ?」 不機嫌そうに頬を膨らませる少年に、征司は慌てて頭をふる。 それを見てもまだ少し不機嫌なまま「言っとくけどぼくはキミよりずっと年上なんだからね。甘くみないでよね」と征司の鼻先に人差し指を突きつけた。征司は妙な威圧感に押され何度も頷いた。 「じゃあ、説明ね。伊藤征司さんだったよね。どうしてこんな所にいるかと言うと、もう死んでるから。そこまではOK?」 死んでる。誰が?伊藤征司とは自分のことだ。自分が死んでる。そこで思考が停止してしまった。 自分の身体を見回す。手もある、足もある、手で顔を触ってみる。いつもと同じ感触だ。 そんな征司の仕種を見て、ラファエルは肩を落とす。 「全然OKじゃない感じ」 ティーカップを手に取り、紅茶で唇を濡らすと「キミはもう死んでるんだよ。事故だね。駅のホームから落ちて、電車に轢かれてはい、即死」と言った。濡れた唇とその微笑みが少年特有の輝きをもって妖艶ささえ感じられた。紫眼が征司の瞳を捕えて逃がさない。 「ぼくが電車に?」 「そ、通勤途中でホームからダーイブ。結構根性あるね」悪戯っぽい笑みもどこか妖艶だ。 「ぼく自殺なんかしてません」 「だから事故だって。自殺なら自殺で分かるから、こっちは」 「じゃぁどうして・・・」 ラファエルはもう一度紅茶を口にすると一つため息を付いた。 「それは分からないよ。事故は事故なんだよ。キミの意思でダイブしたわけじゃないのは確かだけど。それだけじゃ不満?それ以上知りたい?」 その問いは鋭く征司の胸に突き刺さるようだった。それ以上聞くなと征司の心に響いた。これ以上聞いてしまってはいけないのだとどこかで警鐘が鳴る。 「ぼくは死んだんですか」 「そうそう、死んだの」にこやかに笑みを作ってラファエルが答える。それから「お茶飲みなよ。冷めるよ」と征司に紅茶を勧めた。勧められるままに征司も紅茶に口を付ける。 「それでね、ここは死んだ人間が審判を受ける場所なんだよ。さっきの怖いおじさんいたでしょ?あれがウリエルって言って生前の行いで天界と地獄へ振り分けるの」 成程、生前の行い云々というのは人間の作り出した妄想だと思っていたが、本当にあるのか。征司は変なところに感心して聞き入っていた。 「でもキミの場合は天命を全うせずにここに来ちゃったから、ウリエルがぼくに説明をしなさいって言ったの」 この少年の話しがどこまで信用できるのかと征司は自分に問うた。これは夢ではないのか。誰かが仕組んだ手の込んだ芝居ではないのか。いや夢だ。アメジストの瞳など人間が持てるはずもない。 「ねえ、ちゃんと人の話し聞いてる?」 きょろきょろと辺りを見回し、自分の身体を抓ったりしている征司に呆れたように問うた。 「残念ながら夢でも幻でもないから。まだ死んだってわかんないのかな」 半眼にしたアメジストの光が鋭さを持って征司に向けられる。 抓っても叩いても夢から覚める気配はない。この馬鹿げた状況を受け止めるしかないのか。自分は本当に死んでしまったのか。 「本当に死んだんですか?」 「しつこいね。さっきからそう言ってるじゃない」 見上げる紫眼に苛立ちが浮かぶ。その表情はとても少年のものとは思えない程大人びた、威厳と風格をたたえていた。征司は背中に悪寒を感じ、居住いを正す。この少年は見かけ通りの子供扱いを出来る存在ではないと肌で感じた。 ラファエルはその変化を敏感に感じ取り、今度は少年らしくにこりと笑うと「何か質問あるかな」と言った。 征司は自分が死んだという事実を取り合えず棚上げし、ウリエルと呼ばれた男性の言葉を思いだした。 「ぼくは天界だと言われましたが、どうしてですか?」 「それはね、天命を全うしてないから善悪の判断が完全じゃないんだよ。相対的に見て悪じゃないから、天界って判断したんじゃないかな」 「天命を全うしてないってことは、決められた寿命の前に死んだってことですか?」 「そうなるかな」 征司はそこで少し考えた。知らぬ間にいつもの癖で右手の親指の爪を噛んでいる。慌ててそれをやめると、「寿命まで、天界に行かずに地上へは戻れないのですか?」と聞いた。 一瞬部屋の空気が対流を止め、紅茶を口元に持って来ていたラファエルの動きも止まった。緊迫した空気に征司は背筋に冷水を浴びせられた気がした。 「それは、霊となってこの世を彷徨うことを意味するの?」 逆に聞き返されて征司はたじろぐ。そしてその問いを反芻してみる。霊となって、つまり実体を持たずに、彷徨う、誰にも気が付かれることもなく、誰からも関心を寄せられることもなく。 それでも征司はいいと思った。もし本当に自分が死んだとしたら、どうしても気になることがあるからだ。 「霊になれば、地上に戻れるのですね」 「キミがどうしても望むなら仕方ないけど、はっきり言ってお勧めしないね」 征司は大きく深呼吸してから、ラファエルに視線を向けた。 「望みます」 ラファエルは数秒征司の視線を正面から受け止め、残りの紅茶を一口で飲みほした。 「注意点が幾つかある。まず、キミの姿は同じように霊になったものしか見えない。生きている人間には干渉出来ない。例え目の前で誰かが死にそうになってもキミには助けることは出来ない。キミはただ、彷徨って人間達の営みを見守るだけだ。それでもいいの?」 滔々と聞かされる言葉の渦に吸い込まれてしまいそうに成りながらも、征司の強い意志はその思いをなんとか手放さずにいた。 「分りました」と征司が答えてもラファエルはやはりアメジストの鋭い視線を征司から離そうとはしなかった。それでも征司の意思の強さに呆れたように、ふいと視線を逸らすと「好きにすれば」と言った。 そのまま立ち上がると、首を軽く振ってついて来いと合図し、部屋を出た。広い回廊を抜けて眼下に雲海の広がるバルコニーに連れてこられた。その景色は雄大でそこはまさに天上の如く雲を下に従え、世界の果てまで見渡せるようなこの世のどこにも存在しない風景だった。その景色に征司は死という言葉の重さを感じる。こんな景色は死人にしか見られる訳もないとどこかで納得している自分に気付く。 「そこに立って」と言われて征司は言われるままにバルコニーの手すりに近い所へ立った。ラファエルは両手を胸の前で合わせ、口の中で何か呟きながら呪文のようなものを詠唱している。その両手から除々に光が溢れだす。 その光はどんどん大きくなって征司の視界が光で満たされていく。 光の波に飲み込まれながら、感覚を失いそうになった時「幸運を」とラファエルの声が耳を掠めた。
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