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作品名:巡夏 作者:光牙

第9回   拓也と優
刑事が来てから優は一層部屋に引きこもるようになった。今まではダイニングで家族と共にしていた食事も自室で済ますようになった。家族との会話もなくなり、猫としか会話もしなくなった。その猫との会話すら言葉に出すことすらまれだ。言葉が通じなくても心は通じる。それが唯一の支えであった。自分でも長い一日を何をして過ごしていいのか分からない。それでも何もやる気が起きず、ただ横になってつらつらと考え事をするばかりの日々を過ごした。考えることと言っても、たどり着く先は拓也の事しかなかった。
まるで恋をしているようだと優は思う。毎日毎日、拓也の事ばかり考えている。今彼は何をしているのだろう。何を考えているのだろう。自分の事をどう思っているのだろう。
それはまさしく恋に落ちた女性の思考そのものだった。しかし自分のそれが恋ではなく咎の故であることを優は自覚していた。これが恋であれば救われたであろうに。いや、例え恋であっても救われることはないのかもしれない。拓也はカプセルの中でしかその命を保つことが出来ないのだから。どちらにしても自分の思いは救われないのだ。
「ミナ・・・」
美奈子が居てくれたらなんて言ってくれるだろう。そんな事を考えながら浅い眠りに誘われていった。
その時見た夢に美奈子が出てきた。場所は二人で過ごしたあの部屋のリビングだった。あの時と変わらず、美奈子は屈託のない笑顔で優に話しかけてくる。
「ねぇ、ユウ、コレコレ。今日買ったワンピース、これユウに似合うと思うの」
優は苦笑する。また美奈子の病気が始まった。美奈子は頼まれもしないのにこうして優に洋服やアクセサリーを買ってくることがしばしばある。優の肩口に服を当てて見せて「うんうん、似合う。これいいよ。今度これ着て一緒にデートしようね」と満足気に頷く。
そこで目が覚めた。夢は鮮明に記憶に残り、久しぶりに見た美奈子の笑顔は可憐な薔薇のように美しかった。思わず眼尻に涙が滲む。そして、ふと、あの時のワンピースはどうしたのだろうと思った。無理矢理美奈子に渡されたワンピースは一度も袖を通すことなく箪笥の肥やしになっていた筈だ。では、あの部屋から引き上げてきた荷物の中に紛れ込んでいるかもしれない。
「にゃお」と猫が鳴いた。まるで「探してごらん」とばかりに。優は優しく猫の頭を撫ぜると一つ頷いた。
取りつかれた様に突然立ち上がると、あれ程固執していた自室を出て、倉庫代わりになっている部屋へ向かった。その部屋には使われなくなった家具や読み手のいない本などが雑に積まれていた。その中に新しい段ボール箱を見つけ、優は近寄った。箱を開ける手が少し震える。箱から取り出される衣服や雑貨の一つ一つを愛おしげに見つめる。どの品にも美奈子との思い出が詰まっている。この箱には美奈子と過ごした日々が詰まっていた。
幾つかの物を取り出した後、あの時のワンピースを見つけた。それは薄いオレンジ色をしていた。
優はあの日美奈子がしてくれたように、それを肩口に当ててみる。
「うんうん、似合う。これいいよ」
美奈子の声が聞こえた気がした。ぎゅっとワンピースを抱き締める。涙が溢れて止まらない。
美奈子は今の自分のこんな情けない姿を見たらなんと言うだろう。一日中部屋に籠って、無為に日々を過ごす自分を知ったらなんと言うだろう。美奈子が助けてくれた命なのに。
知らぬ間に猫が側に居た。また一つ「にゃお」と鳴く。そうだ、美奈子はこの子の命も守ってくれたんだ。猫を抱きあげてきつく抱き締める。猫は嫌がる風でもなく、成すがままにしていた。いつもそうして優の形にならない思いをこの生き物は浄化して、そして勇気に変えて自分へと返してくれる。
「ごめんね、私がしっかりしなきゃ、みーにゃを守れないよね」
優は溢れる涙を袖口でぐっと拭うと、ワンピースを持って風呂場へ向かった。
突然部屋から出てきた娘の様子に母親は驚いた様子でその成り行きを見守っていた。
シャワーを浴びて身体の汚れを落とし、あのワンピースを着てみる。スカートの裾が揺らめくのが気になるのか、猫は足元をちょこちょこと走り回る。改めて見た鏡に映った自分はひどい顔をしていた。髪も長くカットしていないので伸び放題だし、肌も手入れをろくにしていないので荒れ放題だ。
「にゃお」と猫が合図を送ってくれる。笑顔で優が頷く。
そっと様子を伺っていた母親に振り向くと「母さん、髪、切って来るからお金貸して」と言った。母親は目を見張り驚いた様子を隠しもせず何度も頷き、優に何枚かの紙幣を渡した。「ありがとう」とだけ言って優は久方ぶりに外出した。
「今度これ着て一緒にデートしようね」
美奈子の言葉が耳元でくすぐるように踊る。優は今、美奈子とのデートをしているのだ。あの日の約束を今実現しているつものなのだ。
あれ程煩わしいと思っていた他人との会話も苦にならなかった。髪を切り、勧められるままに化粧をしてもらい、優は美奈子に化粧をされたことを思いだしていた。そして胸の辺りできゅっと手を握り締める。美奈子はここにいる。自分の中に生きている。
美容室を後にして、紅葉の始まった木々の間を歩きながら美奈子と会話した。もちろん心の中でだ。
それはとても楽しくて、優はこの新しい思考に魅了された。
「ねぇ、ミナ、今年はもみじ狩りに行かない?」
「えぇー、ユウの考える事ってなんか年寄りくさくない?」
「そうかなぁ、年寄りくさい?私、紅葉って好きなんだけどな」
「私はあんまり好きじゃないなぁ。だって枯れて行くより、春の花のがイキイキしてるじゃん」
「そうね、ミナには花のが似合うね」
「ユウだって花のが似合うに決まってんじゃん」
なんでもない会話が妙に楽しくてたまらなかった。美奈子がどんな風に、どんな顔をして答えてくれるか、優には手に取るように分かった。今まで美奈子の考えることなど突飛すぎて分からないと思い込んでいたが、今なら美奈子の考えも分かる気がする。突飛だと感じるのは自分があまりにも保守的な考え方だったのかもしれない。自分を標準とするから分からなくなるのかも。美奈子を標準とすると自分の世界はなんと小さいことか。
ふと思いついて美奈子に聞いてみた。
「あのさ、拓也ってどんな人?」
「どんなって・・・。説明するより直接会ってみれば?」
いかにも美奈子の言いそうな返事を心の中で紡いで自分で驚いた。
「会えるわけないよ。そんな。無理だよ」
「またまた始まった。ユウの悪い癖。何もしないで無理って決めちゃうんだから」
思わず息を飲む。確かに何も行動をしなかった。何もしなかった結果が今である。でも今更、とも思う。そんな優の心を見透かしたように美奈子の声が胸を掠める。
「会えばいいじゃん。聞きたいこと、直接聞けばいいじゃん」
知らずに立ち止まっていた。少し寒気を帯びた風が優の頬を撫でる。何度も美奈子の言葉を反芻してみる。そう、直接聞いてみればいいのだ。今まで悶々と思い悩んでいた事の全てを本人に質問してみればいい。とても簡単なことで、とても恐ろしいことだった。
カプセルの中の彼と会えと言うのか。自分の咎と向き合えと言うのか。
「ユウは何も悪いことしてないんでしょ?だったらいいじゃん。会えば」
見えない手が優の背中を優しく押した。雲の切れ間から日差しがこぼれている。優は一つ頷き、歩きだした。


係員に連れられて入った部屋は蛍光灯の明かりだけが煌々と煌く灰色の小さなものだった。椅子の前にモニターとマイクがある。それだけだった。他には何もなかった。
勧められて椅子に腰を降ろした。係員が出て行って程無くモニターの電源が入った。
優は膝の上でハンカチを握りしめて、その瞬間を待った。
モニターは除々に明るくなり、人の影を映しだす。何度もテレビで見た顔だ。
目を閉じたその顔には何の感情も感じられない。死者のそれを連想させた。
ゆっくりと拓也の目が開く。
「あの・・・」と優が小さく声を漏らすのを待たずにスピーカーから「誰?」と聞こえた。
「あの、私、鈴木優です。あの、えっと、ミナ・・・笹原美奈子の友達です」
モニターの表情が少し動いた。怪訝そうなと表現出来るような動きだ。
「あぁ、ミナの。で、何の用?」
優はハンカチを握りしめた手に一層力を込める。
「私のこと、覚えていませんか?ミナと一緒に住んでたんですけど。あの日・・・」
拓也は少し目を泳がせて記憶をたどる仕草をして「君か」と言った。
そのひと言に自分の行動によって拓也がこうしてモニター越しにしか会話が出来ない事実を突き付けられた気がした。優はあれ程聞きたい事がたくさんあったにも関わらず、何も言葉にすることが出来なくなってしまった。
しばしの沈黙の後、拓也が口を開いた。
「馬鹿だと思ってるだろ?俺のこと」
「そんなことないです!馬鹿なのは、私の方です」
するりと涙が優の頬を滑り落ちた。
「私が、私が本当の事を言わなかったから、だから」
「ストーップ。それ以上何も言うな。これは俺の選択だ。誰のせいでもないし、ましてや君のせいでは決してない。そこんとこ、勘違いしないでもらえるかな」
優の言葉を遮るように拓也がたたみ掛けた。優は唖然としてモニターを見つめる。
「それと、泣かないでくれる?なんか俺が泣かしたみたいで気分悪いから」
驚いて部屋を見回す。どこかにカメラがあるのだろう。そして考えてみれば当たり前のことだが、優の姿は拓也の脳へ信号として伝えられているのだ。
優は慌てて握っていたハンカチで涙を拭いた。
「ごめんなさい」
「誤るなよ。俺がいじめたみたいじゃないか」
「あ・・・すみません」
「だから・・・」
妙な沈黙が生まれた。同時にモニターの拓也と優は噴き出した。優の身体から力が抜けて行くのを感じた。
「お前、変な奴だな。ユウちゃんだっけ?」
彼が口にした「ユウちゃん」という響きに懐かしさを感じた。それは美奈子が呼ぶ時ととてもニュアンスが似ていたからだ。
「改めて、はじめましてってのも変な感じだな」
はじめましての所で拓也は目を閉じて挨拶の意を表した。慌てて優も頭を下げる。
「ユウちゃんのことはミナから聞いてるよ。ってか、ミナはユウちゃんの話しばっかりしてたっけな」
「ミナが?」
「うん、会うたびに聞かされてるよ」
美奈子が優の知らない知人に、しかも男性に自分の事を話していたことに驚いた。自分がそれ程話題性のある人物だとは思えないからだ。
「どんな風に話ししてたんですか?」
「どんなって、普通だよ。ユウちゃんが今日はこんな飯を作ってくれて料理がうまいとか、今日はこんな話ししたとか、どっか一緒に行った時の話しとか」
優は驚きに目を見張った。美奈子がそんな風に自分の事を話題にしていた事が信じられない。美奈子はもっと話すべき内容に富んだ日常を送っていたではないか。何故自分の事など些細な事を話題にしたのだろうか。
その思いを素直に言葉にしてみた。
「ミナがそんな風に私の事、人に話ししてるなんて知らなかった」
「ユウちゃんて、ほんと、ミナの言ってた通りの性格だな」
「え?」と思わず声が出た。モニターの拓也を真摯に見つめて首を傾げる。
拓也はくすくすと笑いをこぼしながら、「そうそう、その感じ。その天然なとこがミナの言ってた通りだ」と答えた。
「天然・・・ですか?」
「かなりいい感じに天然だよ」
確定されて益々意味が理解出来ずに首を傾げる。そんな仕種を見て拓也はいたずらっ子のような笑みを浮かべている。
「大体さ、こうやって終身刑の人間に面会に来るってのが普通じゃないね」
「普通じゃないですか?でも、話しがしたくて」
「それそれ、話しがしたくてって、変じゃね?俺、植物人間なんだぜ?」
「え、でも、今話ししてるじゃないですか」
「だから、普通は植物人間と話しなんか出来る訳ないじゃん。ましてや終身刑だぜ?その被害者が犯人と話しするって有り得なくない?」
優は何度も首を捻って考えながら、「でも拓也さんは犯人じゃないの知ってますし」と言った。
「おいおい、ゆうちゃん。俺、一応ユウちゃんを突き落したことになってるんだけど」
その言葉を受けて力いっぱい首を振りながら「でも、助けてくれたじゃないですか」と答えた。
拓也はあきれたと絵にかいたような表情をしてから、一度目を閉じるとゆっくり開いた。
「その話しはお終い。それ以上その話しをするなら、俺、拒否るけど」
語気の強さに押されて思わず身を引いてしまう。何よりも一番聞きたかったことであり、その話しをするためにここへ来たのだ。しかしここで話しを終えてしまっては、一生答えを聞くことが出来ない気がした。
ぐっとハンカチを握りしめて「わかりました」と答えた。
「で、他に何か用はある?」
優は逡巡し、「私の事はミナから聞いてるんですよね?でも私は拓也さんの事、何も知らないんです。拓也さんの事、教えてください」と言った。
モニターには眉間に皺を寄せて困ったような表情を映しだされていた。
しばしの沈黙の後、「やっぱ変わってるな」と今度は片方の口角を上げて意地の悪そうな笑みを映しだした。
優はそれを承諾と受け取り、笑顔を返した。
その後、取りとめのない会話を交わした。それはミナとの出会いだったり、仕事の話しだったり、ちょっと変わった体験の話しだったり。優には拓也が話してくれる自分の知らない美奈子の話しを聞くことが出来てとても嬉しく感じた。また、拓也も通常は何も思考を行えない状態に調整されているので、こうして会話をすることで自分がまだ生きている事を実感した。記憶もあり、思い出もあり、そして優との出会いもある。誰からも振り返られる事のない存在として命尽きるまで海の底を漂っているような、価値のない命が、この瞬間だけ価値の有る物のように感じた。


拓也と面会をした後、優の生活は驚くほど回復した。もう部屋に閉じこもることもなく、家族とも会話をし、買い物に一緒に出かけたりもした。
それから、美奈子の実家へも行った。どんな顔をして美奈子の両親と会えばいいのかと随分思い悩んだが、葬式はおろか、その後も一度も美奈子の墓前にも顔を出していない。きちんと美奈子の死と対面し、その事実を整理する必要がある。そのために美奈子の実家へ行った。
美奈子の両親は泣き笑いのような表情で優を迎えてくれた。「よく来てくれたわね」と声をかけてくれた。美奈子の写真が飾ってある仏壇に線香を上げ、両手を合わせて声に出さずに美奈子に語りかけた。
「ミナ、会いに来るの遅くなってごめんね。ミナのおかげで私、生きてるよ。ミナに貰った命、大切にするよ」
「ほんと、ユウはとろいんだから。ありがたく思いなさいよ」心の中の美奈子が答える。
美奈子らしいと思った。きつい物言いとは正反対にとても人を思いやる優しい性格だった。決して恩着せがましくならないように、わざときつい物言いをするのを優は知っていた。
その後、美奈子の両親と少し話しをした。ここでも又、美奈子が頻繁に優の話しをしていたことが分かった。美奈子は優が思っていた以上に自分のことを大切にしていてくれたことを知り、とても誇らしくもあり、嬉しかった。こんなにも愛されていたのだと改めて思い知らされた気分だった。
それからの優は今までとは想像も出来ない程、自主的に行動を取るようになった。
両親がまだ早いと止めるのも聞かず、仕事を探し、パートではあるが以前と同じような画像処理に関わる仕事に就いた。職場でも笑顔を絶やすことなく、仕事も精力的にこなした。すぐに社内の人間関係にも慣れ、周囲からは明るい子として評価されるにいたった。今まではなんとなく暗い感じと評されていただけに、驚くべき変化と言える。それはまるで美奈子が乗り移ったような印象さえ受けた。

拓也のもとへも月に二回は通った。別にこれといって話すべき内容はなかったが、拓也と話すことで美奈子との思い出を共有出来るような気がしていた。
「ミナだったらこう言うよね」
「絶対言うな。そっくり!」
拓也とは美奈子ごっことも呼べるような会話をよく交わした。美奈子だったらと面白おかしく生前の彼女の言動や行動を辿ってはそのマネをした。互いの共通点である美奈子の面影を追うことで二人の距離が縮まって行くのを感じた。
拓也も優の訪れを心待ちにするようになっていた。拓也に面会に来るのは優だけだ。両親はあの日、短い手紙を残して居なくなった後、何の連絡もない。もちろんどこかでニュースを聞き、自分の息子が殺人を犯したことは知っているだろうが、尚のこと連絡を取ることなどないだろう。ましてや終身刑となった今、両親が来たとしても拓也は面会を拒否するつもりだ。全ての歯車の狂い始めがあの日であることは間違いないのだから。
何度目かの面会の時に拓也が「ユウ、もう少し食った方がいいんじゃない?痩せすぎだよ」と言った。その言葉は美奈子から何度も聞かされていたものなので、思わず噴き出してしまった。
「何がおかしいんだ?俺、真面目に言ってんだけど」
優は笑いながら「だって、ミナと同じこと言うんだもん」と答えた。
「そらみろ、やっぱり痩せすぎなんだよ。ミナにも言われてたんなら、尚更なんとかしなくちゃな」
拓也は何度か優と会話する間に、どういう言い方をすれば優が言うことを聞くかを心得ていた。美奈子が言っていたと言うと素直に聞くのだ。もちろん実現されない事も多いが、それでも優が努力することは経験上知った。
「次に会うまでに、そうだな、二キロ太れ」とからかい半分に言う。
「そんなぁ、無理だよぉ」情けない声で優が答えると「また悪い癖。すぐに無理って決めるんだから」と美奈子の口癖を真似て見せた。
「あちゃー、ミナが復活したー」
頭を抱えてペロリと舌を出す仕草を拓也はかわいいと思った。優は日に日に表情豊かになっていく。初めて会った時は緊張して筋肉の強張りが表情まで固くさせていたが、今はよく笑う。笑うだけではなく、時にはふてくされてみたり、真剣に怒ったりもする。怒る時は決まって拓也が自分はもう死んでいると言ったような話し方をする時だ。その度に自分の置かれている現実に絶望感を感じざるを得ない。優と話しをするのは楽しいと感じる。でも優に触れることも、その声を直接聞くことさえできないのだ。今拓也が見ている優の姿さえ脳へと接続された端子からの信号でしかないのだから。そのことが歯がゆかった。自分で選んだ道ではあるが、優との出会いによって、少し後悔した。しかし、美奈子が生きていたならば、今のように優と打ち解けることも出来なかったのだろう。それどころか自分は嫌われ者になっていたはずだ。もうどうしようもないことだと拓也は何度も自分に言い聞かせる。こうして優が会いに来てくれる、それだけでも自分は恵まれている。ずっと海の底を漂うように何も感じず、何も考えず時を過ごすよりはずっとましだと思える。不満を持てることに生きていることを感じられた。
同時に優が来ることを望んでいる自分への嫌悪も高まっていた。こんな自分に関わる時間があるのなら、生きて側にいて優を守ることの出来る誰かと付き合った方が優のためになることは分り切っている。それでも優に傾く気持ちを止めることが出来ない。「またね」と言うその言葉に期待してしまう自分に嫌悪した。このままでいいはずはない。そうは思ったが、いずれ優も現実の恋をして自分から離れて行くだろうと分かっていたので、今、この瞬間だけ自分に向けられている笑顔を独占するぐらいは大したことではないと言い聞かせた。


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