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作品名:巡夏 作者:光牙

第8回   拓也と美奈子
その時、田代拓也は途方に暮れていた。とにかく全てのことに疲れを感じ、何もする気が起きずに、ただ座っていることさえ疲れを感じていた。
この一か月あまりの生活の変化を思い起こすと、腹の底からため息が長く洩れる。
それまでは普通の大学生であった。特に成績がいい訳でもなく、何か才能があるわけでもなく、大多数の人がそうする様に高校を卒業し、自分のレベルに合った大学に入学した。友達と遊んだり、アルバイトをしたりと普通の生活を送っていた。しかし、ある日家に帰ると、部屋の中は雑然とし、部屋中を見回したが、そこに残っているのは生活の残滓のみであった。テーブルに何通かの書類が散乱していた。それらは借用書と拓也に宛てた短い言葉だった。「拓也、ごめんなさい」それだけが走り書きされていた。
拓也に分かったことは、両親が自分のいない間に夜逃げしたということだけだ。いや、昼間に居なくなったので夜逃げという表現は正しくないか。そんなどうでもよい考えが頭をよぎった。
そのまま雑然とした部屋の中で座り込んでしまった。これから何をすればいいのか。大学は?この家はどうなるのか?自分はどうすればいいのか?
疑問符ばかりが頭に浮かぶ。
思考を遮るようにけたたましく電話が鳴った。強制的に現実に戻された拓也は反射的に受話器を取った。
下卑た男の野太い声が威嚇する様に受話器から聞こえてくる。
「おい、今日こそは払ってもらうぞ。いいか、一時間後にはきっちり耳揃えて用意しとけや」
そこまで聞いて慌てて受話器を置いた。これはまずいと心の中で警鐘が鳴っている。ここに居てはまずい。とにかくここを出なければ。それだけの思いに突き動かされて最小限の衣類や日用品、自分の全財産を鞄に入れると家を飛び出した。どこへと言う訳でもなく走った。とにかく遠くへ。誰も自分のことを知らない所へ。
それから拓也の生活は一変した。所謂ホームレス状態に成らざるを得なかった。それでもさすがに段ボールの家で生活することは拒まれたので、ネットカフェなどで寝起きし、昼は仕事を探して彷徨った。しかし住所を失った彼には日雇いの仕事すら見つけることは難しかった。所持金はみるみる減って行き、ついにネットカフェを利用する金もなくなり、仕事を探す意欲も失い、ただ彷徨った。
そして今はただ途方に暮れて、人の行きかう駅前の噴水の縁に腰を下している。幸い暖かい季節であったので寒さに凍えることはないが、どうしようもない疲れが全身を満たしていた。
「おまたせ。遅くなってごめんね」
突然頭上から声が降ってきた。恋人との待ち合わせかと拓也は思いながら、左右に目を馳せたが、自分の周りには誰もいなかった。「ね、行きましょ」と見知らぬ女性が拓也の手を取って無理矢理立たせた。
「え?何?誰?」
困惑する拓也の腕をぐいぐいと引きながら女性は囁いた。
「お願い。しつこい男に追われてるの。新しい彼が出来たって言っちゃったから、付き合って。お願い、ね」
ようやく事態が飲み込めた。拓也は特に用があるわけでもないし、まぁいいかと思い女性と歩調を合わせた。
よく見るとなかなか美人だ。水色のワンピースがよく似合っている。成程これなら大抵の男は優しくされればその気になるかもしれない。拓也とて自分の置かれた現実が以前のそれであったなら、こんなかわいい女性と
連れ立って歩くのは悪い気がしない。
そのまま雑踏の中を二人で歩いた。一〇分ぐらい歩いてから女性は周囲を何度も見まわすと、ほうと一息付いた。
「ありがと。お礼にお茶でも奢らせて」
その言葉に恥ずかしながら身体が反応してしまった。ぐうと腹が鳴ったのだ。もう三日もまともな食事をしていないことを思い出し、拓也は赤面して俯いた。
女性はくすっと笑うと「お腹空いてるんだ。私も。せっかくだしどこかで食事しましょ」とまたも拓也の腕を引いて歩きだした。拓也は猛烈に惨めな気持ちになり、今度は力を込めて立ち止まった。怪訝そうに女性が振り向く。
「どうしたの?」
「いや、そんな奢ってもらうようなことしてないし。知らない人にそんなことしてもらう必要はない」
女性はちょっと驚いたように目を見張ると「私は笹原美奈子。ミナってみんな呼ぶわ。はい、これで知らない人じゃなくなったわね」と意地の悪い笑みを浮かべて言った。
その言葉にカッと頭に血が昇るのを感じた。拓也はそのまま踵を返して歩き出した。
「ちょっと待ってよ!」と言いながら美奈子が後を追って来る。
「私、名乗ったんだからそっちも名前ぐらい教えなさいよ」
早足で後を追う美奈子の言葉は少し息が上がっていた。
「田代拓也」とだけ言い捨てて拓也は更に歩を進めた。
「拓也か。ねっ、拓也!ちょっと待ってよ!」
待てと言われたので拓也は立ち止まる。そのまま振り返って「これ以上なんの用があるんだよ。関係ないんだからほっといてくれよ」と言い捨てる。
ようやく拓也に追いついた美奈子は息を切らせながら「関係なくないわ。さっき言ったでしょ。新しい彼が出来たって。あなた、それに付き合ってくれたんだから、あなたが新しい彼氏よ」
その微笑みは悪女と表現するに等しいものだった。今度は拓也がため息を付く番となった。この女は生来の小悪魔に違いない。こんなことに関わってしまった自分に後悔した。

結局美奈子とはその後も交流を持つことになった。拓也の事情を知った美奈子は住み込みの新聞配達の仕事を紹介してくれた。久方ぶりの布団に拓也は生きている幸せを感じずにはいられなかった。しばらくは新聞配達だけを仕事としていたが、時間にゆとりのある仕事なので、宅配便のバイトも始めた。これも美奈子の紹介だ。また美奈子に貸しが出来てしまった。美奈子は初対面の印象とは違い、色々と世話を焼いてくれる。ただ、美奈子を知るようになって、それが自分だけではないことも知った。特に同居しているという女性の事は殊更気にかけているようだ。
美奈子に「お願いがあるの」と言われた時は嫌な予感がした。いつもなら当たり前のように「これこれをしてちょうだい」と言うのに、今日に限ってお願いと来た。答えに迷っていると、「別に犯罪とかじゃないから」と心の内を見透かしたように微笑む。
「何?」
「簡単な事」
益々嫌な予感がして、自然と眉間に皺がよる。
「そんな怖い顔しないでよ。本当に簡単なんだから」
簡単ならば自分でやればいいではないかと思ったが口には出せなかった。美奈子は一度言い出すと聞かない。経験上それは嫌というほど知らされていた。
簡単な事の内容を聞いてひどく気分が悪くなった。我儘にも程がある。
「でも、それってその人には重要なことなんじゃないのか」
「だからよ。目障りなの」と舌打ちと共に吐き出す。
視線をそらして思い巡らす。それ程憎いものかと。美奈子に気に入られるというのもなかなか大変だと改めて感じた。特別同居人に関しては独占欲が強いように感じるが、本当の所は美奈子が同居人に依存しているのではないかとも思う。美奈子の生活は常にその人が中心になっていて、しかし美奈子は自分を中心に振舞う。恐らく自分と同じように振り回されているのであろう。ある意味美奈子らしいとも言える非常識さに拓也は呆れた。
「で、どうすればいいんだ?」


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