一週間後、優は自宅近くの病院に転院した。警察は毎日日課のように優のもとを訪れては同じ質問ばかりを繰り返してきた。優もまた同じ答えを繰り返した。「何も覚えてない」と。 真実、優には何が起こったのか理解出来ていなかった。田代拓也という男性とも全く面識がなかったし、美奈子の交友範囲は広く、その全てを把握している訳ではない。 美奈子はその容貌と竹を割ったような性格の故か、次から次へと付き合う男性が変わって行ったので、優にはそれらを把握する術はなかったし、美奈子は分かれた男性とも友達として付き合い続ける場合が多く、誰と恋愛中なのかはその手のことに疎い優にはさっぱりわからなかった。 あの日、自分が落ちそうになった時、拓也は優の手を取り、助けを差し伸べて来た。その点を考えると拓也には優に対する殺意はなかったのではないかと想像出来る。でもその事実を優は警察に話すことはなかった。何故だか解らなかったが、美奈子が死んだのは拓也の責任だと思っていたからだ。彼がどんな罰を受けようとも美奈子の死を贖うことは出来ないと考えていた。 一つ不思議なことは拓也自身も優を助けようとしたことを証言していないらしいという点だ。毎日訪れる警察からも彼が自分を助けようとしたと言った話しは聞かない。何故自分が不利になるようなことをしているのか分からなかったが、それこそ美奈子を死なせた罪は拓也自身にあると本人が証言しているようなものだと優は考えていた。だから自分も彼に有利な証言をする必要はない。そう考えていた。 会社には退職願を提出し、すでに受理されている。もうあの部屋に戻るつもりはなかった。戻れば辛くなるだけだと解っている。 しばらくはマスコミも事件について騒いでいたが、大衆の興味は既に別の事件へと向けられていた。 優はこれから何をしたらいいのか分からなかった。怪我が治れば退院する。あの部屋にある自分の荷物を片づけて実家に戻る。そしてまたどこかの会社に就職するのだろうか。そしてそのまま何事もなかったように歳を取って行くのだろうか。 美奈子がいない生活が考えられなかった。いつも美奈子に背中を押されながら生きて来たのだ。優が何かに迷った時はいつも美奈子が判断を下してくれた。その通りにしていれば、物事はうまくいった。優にとって美奈子は生きる指標となっていたのだ。その指標を失った今、誰に何を相談すればいいのか、それすら分からなかった。 美奈子ならどうするだろう。優は自分が美奈子になったつもりで考えてみたが、やはり答えは見つからなかった。そもそも美奈子が何を考えているかなど、優には想像もつかないからだ。 優は突然暗闇のなかに取り残されたような気がして痩せた体を抱きしめた。美奈子のような優しい香りなどしなかった。長く入浴できずにいる自分の身体からは不潔な匂いがした。
優の考えが纏まることは無くても否応なく日々は流れ、退院の日を迎えた。長く入院していたので足の筋力は衰え、立ちあがることも出来ないが、これから毎日リハビリが始まる。面倒を見てもらった看護婦らに見送られて優は病院を後にした。 自分の中には依然何の目標も指標もなかった。これからのことなど考えることも嫌になってきていた。もう何も考えたくない、それが本心であった。 だから美奈子と生活していた部屋を両親が片付けに行く時も優は同行しなかった。あの事件のことも、美奈子のことも何もかも忘れてしまいたかった。いや、忘れなければならないと自分に言い聞かせた。その反面、美奈子ならどうするかといつも自分に問いかけていた。本当の所は何も分からないが、もし美奈子だったらと自問自答を繰り返した。不毛であるし、矛盾である。しかしそのことで優は現実に引きとめられていたのかもしれない。そうでもしないと優の精神は破たんを来たしかねなかった。 実家に帰るとボランティア団体に与られていた猫が待っていた。 キャリーバックから出された猫は優を見て「にゃあ」と鳴いた。その時ずっと胸の内に吹き荒れていた風穴が愛しさで満たされていくのを感じた。 「みーにゃ」優は愛猫の名を呼んだ。「にゃあ」ともう一度猫が鳴いた。 猫を抱きあげるとこれ程の涙はどこから出てくるのかと言うほど泣いた。涙が溢れて止まらなかった。美奈子の死を聞いても泣くことができなかったのに、今は意味もなく涙が止まらない。 愛しさが涙となって込み上げてくる。そして美奈子を失った悲しさとなって頬を伝う。この時優は本当の意味で美奈子の死を実感したのだ。 美奈子の笑顔、声、香り、その全てが脳裏を駆け巡った。そしてその思いを全て猫へ注いだ。この小さな生き物は優の思いを全て受け止めて、そして愛情へと変換して優に返してくれる。それが堪らなく悲しかった。無条件に愛してくれるこの存在が愛おしくて儚くて、切なかった。守られていたのは猫ではなく自分だったのだと気が付いた。自分は周囲の人々に守られていたのだ。特に美奈子に。 今度こそ守ろうと思った。この小さな猫という生き物を守り通そうと思った。美奈子が優にそうしてくれたように、優は猫を守り続けると心に刻んだ。
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