混濁した意識が徐々に戻ってくると、優は自分が見知らぬ場所にいることに気が付いた。何度か瞬きをすると、その動きに気付いた母親が「優ちゃん」と声を上げた。 母親は優の手を握り、もう片方の手を額にあて、涙で赤くなった眼を更にうるませて覗き込んできた。 優には何が何だかわからず、何度も瞬きをして、自分の置かれている状況を把握しようと試みた。 「優ちゃん、大丈夫?どこか痛いところある?」と母親は涙声で言った。 その言葉を受けて、自分の身体に神経を馳せてみる。痛い所だらけだ。体中が痛い。思わず呻き声が口からこぼれる。それを聞いた母親は更に握った手に力を込めた。 「優ちゃんよかった、よかった。無事でよかった」 全然無事ではない。こんなに全身が痛いのに。でも言葉に出来ず口から洩れるのは「うぅ」という呻きだけだった。 そもそも自分の置かれたこの状況が理解できない。なぜこんなにも全身が痛むのか。少しでも力をいれると落雷が背骨を刺す様に痛みが走る。 少しずつ回りが見えてくる。頭上には点滴の袋。スズキユウと片仮名で名前が書かれている。白い天井、白い壁。あぁそうか、病院にいるのだと理解した。しかし今度は何故病院にいるのかが分からない。少しずつ記憶を紐解いていく。猫を病院に連れて行って、それから、それから・・・。 落ちたのだ。非常階段から落ちたのだ。だからこんなにも全身が痛むのか。命は助かったのか。 そこまで理解してから優はふとあることに気付いた。 「みーにゃは?」と精いっぱいの大声を出したが、それは掠れたつぶやきでしかなかった。 「何?どうしたの?何か言いたいの?」と母親が身を乗り出して優の口元へ耳を近づける。 優はもう一度力を込めて「みーにゃは?」と言った。やはり掠れたつぶやきだった。 母親はそれが猫のことだと思い当たり、にっこりと笑顔を作った。 「猫のことなら大丈夫よ。今はボランティアの人が預かってくれてるわよ。馬鹿ね、一番に何を言いだすかと思ったら猫のことなんて」 こぼれる涙を拭こうともせずに笑顔のまま泣いていた。その涙を見て、自分の目にも涙が溢れるのを感じた。 生きている実感をようやく味わったのだ。そして愛する猫も生きている。自分はあの子を守ることが出来たのだ。そのことで胸が一杯になった。
翌日、二人の刑事が病室を訪れた。母親とは既に顔を合わせたことがあるようで、少し言葉を交わしてから優へと近づいてきた。一人は中年でゴマ塩頭を角刈りにした顔の四角い男で眉間に常にしわがよっている。もう一人はやけに身長の高い童顔でひょろっとした男だった。 ゴマ塩の刑事が自己紹介をしてから「この度は」と紋切型の挨拶をするのを優は他人事のようにぼんやりと見ていた。 刑事の質問は初めに美奈子との関係についてであった。いつからの付き合いか、同居していた理由、最近の美奈子の様子、あの日直前にかかってきた電話の内容。 優は嘘こそつかなかったが、本当の事も言わなかった。特に最後の電話の内容については「覚えていない」と答えた。ゴマ塩の刑事はその答えに眉間のしわをさらに深くした。 次にあの日の行動について聞かれた。答えることはほとんどない。動物病院の帰りに非常階段から落ちた。なぜだかは覚えていない。詳しいことは覚えていない。自分でもなにがどうなったのかわからない。 そんな言葉を繰り返すだけだった。それでも長身の刑事はその全ての言葉をメモしていた。 刑事は一枚の写真を優に見せた。それには造作のはっきりとした美男子と表現しても異論のないような男性が写し出されていた。 「この男に見覚えはありますか?」 その質問に優はしげしげと写真を見た。どこかで見たような気もするが、はっきりとしない。 無言で首を振ることで否定した。 「田代拓也と言う名前なんですが、聞き覚えはありませんか?」と重ねて刑事は問うた。 全く聞き覚えがなかったので、またも頭を少し動かして否定を表現した。 刑事たちはあからさまに残念そうな表情をして互いに頷きあう。 「この男はあなた達が落ちた時、非常階段にいたんですよ。ナイフを持っていました。この男に襲われたという覚えはありませんか?」 非常階段にいた男。そこで優はやっと理解した。あの男か。自分の手を取り、落ちないように受け止めてくれたあの男だ。 しかし、その事実以上に優を動揺させる言葉があった。刑事は今、「あなた達が落ちた」と言った。 落ちたのは自分だけではないのか?男は落ちてないようだ。では誰が? あの時、優が右手一本で命を繋いでいたあの時、背後に何かが落ちて行くような感覚を覚えたことを思い出した。 何かが落ちて行った。何が?いや、誰が? 一つしか浮かばない答えを口に出してしまうと、夢から覚めてしまうような気がして唇が震えた。 それでも、掠れた声はその答えを言の葉に乗せてしまった。 「ミナは・・・?」 病室内の時間が一瞬止まった。誰もが息をすることさえ憚られるとばかりに呼吸を止めた。 「ミナは?」と再び問うた優の言葉で時間が動き出す。 ゴマ塩の刑事は後頭部を擦りながら、「笹原美奈子さんは、あなたより先に落ちたようです。美奈子さんの体がクッション代わりとなって、あなたは致命的な怪我をすることもなく助かったんですよ」と言った。 その言葉の一つ一つを優は噛みしめるように自分の頭の中で整理した。美奈子が落ちた。それが不可解でならない。自分は落ちそうになったが、なぜ美奈子が、しかも先に落ちたのか。 自分は写真の男に追われていた。でも美奈子は部屋にいたのではなかったのか。いや、あの時優の名を呼ぶ美奈子の声を聞いたような気がする。それでも美奈子が先に落ちたことの原因を見つけることは出来なかった。 刑事はその後も何か質問をしてきたが、優は「覚えていない」を繰り返すだけだったので、あきらめたように席を立った。深々と頭を下げながら「何か思い出したら連絡してください」と言って病室を後にした。 優は今朝問診に来た医師の言葉を思い返していた。「両足とも複雑骨折していますが、奇跡的に脊髄や脳へのダメージはありませんでした。本当に奇跡ですよ。」 奇跡ではない。美奈子がクッションになってくれたのだ。美奈子に助けられたのだ。 「ねぇ、母さん、ミナはどの病室にいるの?」 母親は林檎の皮を剥いていた手をぴくりと震わせた。俯いたまま「ミナちゃんは、優ちゃんを助けてくれたの」と答えた。 「どこにいるの?」 重ねて聞くが答えはいくら待っても帰って来なかった。母親はただ涙を浮かべて見つめてくるだけだった。 どこにもいないのかと優は思った。どの病室にもいないのだ。美奈子はもうこの世界にはいないのだ。美奈子は死んだのだ。不思議と涙はでなかった。ただ胸のなかに冷たい風が通り過ぎていくのを感じた。
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