優と美奈子が出会ったのは彼女らが高校生の時だった。高校には制服がなく、私服であることが優には疎ましかった。毎日毎日何を着て行くのか、考えるだけで面倒だったのだ。だから優は夏はTシャツにジーンズ、冬はトレーナーかセーターにジーンズとまったくお洒落とは縁のない服装をしていた。一方美奈子はと言えば、入学式に鮮やかな振袖で現れ、その後も毎日ファッション雑誌から抜け出て来たような垢ぬけた服装とその愛らしい美貌で学校内で知らないものはいない程目立った存在だった。 もちろん、美奈子は毎日男女を問わず大勢の取り巻きに囲まれ、影の薄い優などとは次元の違う生活を送っていた。そんな美奈子との接点は美術部だった。 優は一年生の時から美術部に所属していた。その日の放課後もほとんどが幽霊部員の美術室で一人で絵を描いていた。そこに突然美奈子が現れたのだ。優は無言のままファッション雑誌から抜け出て来た自分とは無縁の存在を見つめた。 「一人?」 その存在が言葉を発した。その時初めて優はこの存在も同じ人間なのだと認識した。 片手に筆をもったまま、何度か頷く。 「私、入部したいんだけど」 意味が分からず「入部?」とオウム返しに言葉をつないだ。 「そう、私デザイナーになるから、絵の勉強がしたいの」 入部という言葉がこの美術部に属することを意味するとやっと理解した優は慌てる。 「で、でも、ほとんど誰もこないし、それに、誰かが教えてくれる訳でもないし・・・」 「じゃぁ、あなたが教えてよ。ね、いいでしょ?鈴木優さん」 尻つぼみに弱くなる優の語尾に重ねるように美奈子がたたみ掛けた。優は心臓が飛び出るかと思うほどおどろかされる。美奈子がフルネームで自分の名前を呼んだのだ。今まで一度たりとも会話はおろか、交わりすらなかった美奈子から自分の名前が出てくるなどまさに青天の霹靂である。 そんな優の動揺を知ってか知らずか「鈴木さんじゃ堅いわよね。ユウって呼んでいい?」と美奈子は続けた。 目を見開いたまま頷くことしか出来ない優に更にたたみ掛ける。 「私のことはミナって呼んで。みんなそう呼ぶから。私も気に入ってるし」 「ミナ・・・」 またしてもオウム返しに口に乗せてから、それが重要な意味を持つことを知って優は更に慌てた。そんな優を見て美奈子は満足そうに微笑んだ。そして扉を閉めると優の隣に椅子を引いて来て座った。 「何描いてるの?」 とても自然な仕草の一つ一つが優を驚かせる。初めて至近距離で接した美奈子からは優しい香りがした。その香りがとても心地よくて優は強張っていた身体から力が抜けて行くのを感じた。 「学校の裏にある池」 「裏に池なんかあったっけ?」 「うん、あるよ。池って言うか、沼って言うか」 「あぁ、あの水溜りねぇ」 人見知りをするタイプの優だが、なぜか初対面の美奈子とは当たり前のように会話ができた。美奈子のペースに乗せられてしまったのかもしれない。それでも構わなかった。美奈子の鈴を転がすようなきれいな声がすぐ近くから聞こえることが心地よかった。自分のアルトな声と交互に交わされる鈴の音が妙に旋律を描くように美しいもののように聞こえた。 その後、二人で三十分ぐらい話しをした。それは極普通の女子高生の会話で、毒にも薬にもならないような会話であったが、優にとっては夢のような時間であった。 時計をちらりと見て「じゃぁ、また明日」そう言って美奈子は立ち上がった。 「うん、また明日ね」優の口から自然と約束の言葉が出ていることに本人は気付いてなかった。 美奈子が立ち去った後、なぜ自分の名前を知っているのか聞くのを忘れたと思ったが、なんとなくそんなことはどうでもいいような気がして口角が自然と上がり、自分が笑顔でいることにも気が付かなかった。
その日から美奈子は毎日放課後美術室を訪れるようになった。優は絵を勉強したいと言った美奈子の希望を叶えるために、デッサンから自分の知っている技術を美奈子へ教えた。美奈子の絵はその性格を現すかのように大胆でそれでいて華麗であった。よい先生に導かれたのか、そもそもの才能か、美奈子の絵の技術は見る見る上達した。優にとっては学校のアイドルである美奈子を独占する時間がとても快感でもあり、一を知って十を知る美奈子の勘の良さや才能に驚かされる毎日であった。 優は美奈子が自分を相手にしているのは絵のためと割り切っていたので、この関係は美術室の中だけの秘密の関係だと思っていた。しかし、それは美奈子の手によって日常にまで広がることとなる。 美奈子は校内で優を見かけると、ためらいもなく名を呼んで駆け寄ってきては優の腕にしがみつく様に身体を寄せてきた。もちろん美奈子の取り巻き達はただ唖然とするばかりである。傍から見ても美奈子と優の接点が見付からないからだ。なぜ美奈子が冴えない影の薄い、友達と呼べる人もろくにいない優を特別にかまうのか、それが理解出来なかった。 それ故に優は取り巻きの一部からイジメとも取れる行為を受けるようになった。それは些細なことではあるが、人の心を傷つけるには十分な行為であった。もちろん、優は誰にも自分の身にそんなことが起こっているなどとは言わなかった。美奈子になど、言えるはずがない。 それでも何かの拍子に美奈子がそれに気付くと、彼女は烈火の如く怒った。取り巻き達に罵倒を浴びせ、そのような行為がいかに自分を不愉快にさせるかを取り巻き達に理解させた。 その事件の後、優に対する周りの人々の視線が変わったような気がする。なんだか居心地の悪い、むず痒いような視線であったが、あからさまな非難の視線ではなかった。 美奈子は殊更優をかまうようになった。授業の間の休憩時間はかならず優の所へ来たし、昼食も一緒に食べた。 一日の殆どを優と過ごすことを望んだ。そんな関係は受験を控える高校三年生になっても変わらず続いた。 ある日、美奈子は優に大手専門学校のパンフレットを差し出した。 「ねぇ、ここにしない?ほら、服飾科もあるし、ユウのやりたいって言ってたコンピュータグラフィック科もあるわよ」 美奈子に驚かされることには慣れたつもりであったが、これにはさすがに驚かされた。美奈子は自分に同じ専門学校へ受験しようと言ってきたのである。優は心のどこかで美奈子との蜜月は卒業と共に終わるのだと考えていたのだが、美奈子は優を手放すつもりなど更々ない様子だ。 「でもココ、通うの遠いよ?」 経済的に恵まれている美奈子にやんわりと断りを入れるように答えた。専門学校は市街地にあり、優達の家から通うには片道二時間はかかる。優の家庭は極普通のサラリーマン家庭なので、一人暮らしをするような余裕はないし、両親が一人暮らしを許すとは思えなかった。 美奈子はコロコロと鈴を転がすような笑い声を上げると、「だからぁ、一緒に住むのよ。私の叔父さんがね、ビル持ってて、そこの部屋貸してくれるって言うしさ。ユウは料理上手だし、私毎日おいしい料理食べれるなんて最高!」と言った。 優には益々意味が分からなかった。一緒に住む。叔父さんのビル。料理。そんな単語だけが頭の隅に残った。 それらの単語が繋がりを持ち、意味を成す頃には、すでに優の進路は決まっており、美奈子が優の両親を説得し終わった後であった。 高校卒業後、美奈子との生活が始まった。洒落たカウンターキッチンとリビング、それと各々の部屋が割り振られた。優の部屋にはロフトがあったので、そこにベッドマットを敷き、寝床とした。ロフトの下にはローテーブルタイプのパソコンラックを設置し、愛用のパソコンと周辺機器、そして小さな箪笥を置いた。それから安物のソファと本棚、それだけが優の家具の全てである。リビングには美奈子が持ち込んだ本革の立派なソファと大型テレビ、コレクションテーブルが置かれていた。コレクションテーブルには指輪や貝殻、ドライフラワーなど美奈子のセンスの良さを感じさせる小物が絶妙に配置されている。美奈子の部屋にはセミダブルのベッドに白い猫足のドレッサー、たくさんの洋服や鞄などの小物が部屋を埋め尽くしていた。それでも散らかっているという印象を持たせない所が美奈子の腕かもしれない。 二人の生活は充実したものだった。食事は主に優が担当し、掃除は美奈子が担当した。その他にも家事は互いに担当を決め、互いを補いながらの生活は十分満足のいくものであった。 美奈子はたまに優に自分の服を着せ、化粧をし、優を変身させては喜んだ。優はなされるままのお人形のような気分であったが、それが嫌なわけではないので美奈子の笑顔と鏡に映る自分の変な顔を見て楽しんでいた。 美奈子は優にお洒落をすることや、化粧をすることを望んだが、優には何をしても美奈子のようにはなれない自分を自覚していたので、「そのうちね」と言い続けていた。 専門学校での二年はあっという間に過ぎ去り、美奈子は望みどおり服飾デザイナーとして就職し、優も小さな印刷会社で画像加工の仕事に就いた。優は何度もこのままの生活を続けていいのかと美奈子に聞いたが、美奈子はさも当然とばかりに同居を主張した。 「だって、離れる意味が分からない」と言う。確かに今住んでいる場所は通勤にも便利だし、美奈子の親戚の所有物とあって、格安な家賃でいられる。それでも優は不安だった。いつか美奈子に飽きられる時がくるのではないかと。でもそれまでは側にいたいという気持ちもあったので、美奈子の言葉のままに同居生活を続けていた。 二人の関係が少し狂い始めたのは、優が猫を飼いたいと言い出した頃からか。美奈子は動物が好きではないので、説得するのに三日かかった。渋々ではあったが、美奈子が許してくれた時はうれしくて美奈子に抱きついた。 抱きついた美奈子の身体からは、初めて会ったあの日と同じ優しい香りがした。 それから美奈子は日に日に不機嫌になっていった。リビングで二人でテレビを見ている時に優の部屋から猫の声が聞こえると「呼んでる」と彼女は自室へ戻ってしまう。二人で過ごす時間が少なくなるのが美奈子には不満だったのだ。そんな美奈子の様子に気が付いたのか、優は度々玄関のあるリビングからではなく、自室へ直接入れる非常口から出入りすることが増えた。その事が益々美奈子を不機嫌にさせているとは気付いていなかった。 そして、あの日が訪れる。
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