そして季節は巡り、また夏が訪れた。 その日、優が面会に来たと知らされた拓也は心に重要な決意を抱いていた。 いつものように優の笑顔がそこにあった。 「最近暑くなってきたんだよ。もう夏だもんね」 いつものように会話は弾んだが、心持ち拓也の表情が優れないのを優は感じていた。会話の内容はいつもの通り、自分の近況だったり、世間で話題の話しだったり、それを美奈子のマネをしながら二人にしか分からない言葉遊びをした。 面会時間の一時間はあっという間に過ぎてしまう。最近は係員の扉をノックする音で強制終了させられるのが常であった。今日もまた控え目なノックが二度響く。優はちょっと顔をしかめて残念そうに眉をひそめた。 それは一瞬ですぐに笑顔に戻るとモニターの拓也に「じゃ、また今度ね」と告げた。そのまま椅子から立ち上がろうとする優に拓也が答えた。 「次はないよ」 「え?」と優が振り返る。 「次はないって言ったんだよ。もう来るな。俺もお前の相手するの疲れた」 「来るなってどういうこと?疲れたって・・・」 もう一度ノックが今度ははっきりと響く。 「言葉通りの意味だよ。もうお前とは面会しない。じゃ、さよなら」 係員が扉を開けて優を即した。モニターの中の彼はもう死人のように無表情になっている。優は混乱を抱えたまま係員について部屋を出た。 無言で前を歩く係員に声をかける。 「面会って、拒否出来るんですか?」 係員はちらりと振り返ってからまた背中を向けて「囚人が拒否する権利はあります」とだけ答えた。 優は思いもよらぬ事態に動揺した。何故と言う言葉だけが頭の中を回り続けている。自分は何か失礼なことを言ってしまったのだろうか。彼に不快な思いをさせてしまったのだろうか。そう言えば今日は何故か冴えない表情をしていたように思う。今まで無理に自分に付き合ってくれていたのだろうか。一緒に声を上げて笑い合ったことも無理をしていたのだろうか。本当は何も楽しくなんかなかったのだろうか。 その時優は重要な事実に気が付いた。拓也は暑さも寒さも感じないカプセルの中にいるのだということを。 自分が今日一番に発した言葉は何だっただろう。もう夏だ。そんなことを言った。優にとっては当たり前の季節の感覚さえも拓也には感じることが出来ないのだと改めて実感した。なんと失礼な相手を思いやることのない言葉であろうか。今日だけではない。折に触れてそうした発言をしていたに違いない。そのことで拓也がどれ程傷ついたことか。それを思うと優は自然と涙が浮かんだ。自分の配慮の無さに呆れた。そんな自分に付き合っていてくれた拓也はどんなにか辛かったことだろうか。疲れたと言った彼の言葉が重く圧し掛かってくる。美奈子を失った寂しさを拓也と過ごす時間で補っていたのだろうか。違うと思う。きっかけはそうだったかもしれない。でも今は純粋に拓也との短い逢瀬を楽しんでいた。拓也と交わす何気ない会話がとても楽しかったし、会社などで話す男の人とは全く違う特別な感覚を楽しんでいた。楽しんでいたのは優だけだったのか。そのことが胸を締め付ける。彼は楽しくなどなかったのだ。仕方なしに自分に付き合ってくれていただけなのだ。自分はこんなにも彼を思っているのに。 その気持ちは恋とひと言では表現出来ないもっと深い、対等で親密な感情だった。
その日、拓也はいつもより神経を集中させて優の笑顔を記憶に刻み込んでいた。今日を最後にこの笑顔を見ることもない。今日で最後だ。もう彼女を解放すべき時が来たのだ。いや、時は既に過ぎていたのかもしれない。その事に気が付かない振りをしていた。もうあれから一年も経つのだ。優が拓也に依存しているのか、その逆か、どちらでもよいかとも思う。自分には未来は無い。彼女の未来に自分の存在する場所などない。もし、今泣くことが出来るなら、涙がこぼれているかもしれない。しかし、そんなことさえも不可能なのだ。 優の笑顔が眩しかった。彼女は自分の声は低くて好きではないと言っているが、拓也は好きだ。美奈子の鈴を転がすような声も美しかったが、優の落ち着いたアルトな響きも十分美しい。その名の通り優しい音色がとても心地いい。からかうとすぐにむくれる所も愛らしいと思う。拓也にとって優は生きる全てであり、自分が生きている証しでもあった。 来るべきいつかがいつなのか、それに脅えだしたのは半年程前だろうか。いつか優はここへは来なくなる。その「いつか」が無性に怖かった。いつか彼女はここへは来なくなり、いつか自分は忘れ去られ、いつか誰の記憶からも自分は消え去り、そして海の底を漂うのだ。光も届かない深い海底で音も匂いも感じず、何も考えもせず、時間の感覚さえもなく、ただ肉体の死を待つのだ。 それは自分で選んだ事ではあるが、正直ここまでの罰を受けることになるとは考えていなかった。どうせ住む場所も仕事も美奈子の斡旋であったし、美奈子が死んでしまった事実に少なからず罪の意識もあったので、刑務所に入るぐらいは仕方がないと考えていた。刑務所暮らしがカプセル暮らしになったとしても、もともと何も大切な物などなかったから、それもまた仕方がないかと受け入れた。 でも今は拓也には何にも変えられない大切な人が居る。出来ることなら幸せにしたいと思う、守りたい存在が居る。それが自分には不可能なのだから、自分に出来る事は一つしかない。 優が驚く顔を想像してみた。涙もろいから、泣くだろうな、きっと。そしてどこにも存在しない罪と咎を無理矢理自分の中に見つけ出して、全て自分の責任だと己を責めるのだろうな。そうまでして彼女の記憶に残りたいと思う自分のエゴに辟易した。いつも笑顔でいて欲しいのに。また泣かせてしまうのか。痛みを感じるはずもない胸の辺りが痛いと感じるのは何故だろう。最後はなるべく冷たく接しよう。可能ならば優が自分を恨んでくれればいいのだが。そんな事はするはずもないと承知でそれでもそう願う。 二人の会話を遮るように扉をノックする音が聞こえた。 さあ、時間だ。なるべく冷たく、なるべく感情のこもらない口調で、なるべく彼女を傷つけるように。 「じゃ、また今度ね」立ち上がりながら笑顔を振りまき優が言った。 拓也は心にもない言葉をセリフの様に紡いだ。最後は自分に言い聞かせる為に、さよならと。
優は無言で帰宅した。どこをどう通って帰って来たのかも記憶は定かでない。ただいまも言わず自室へと直行してしまった娘を母親は不安気に見つめた。声を掛けようかと思ったが、優の表情を見て憚られた。美奈子の死を知らされたあの時と同じ目をしているとそう思ったからだ。 優は灯りも点けず部屋の扉を閉じると座り込んだ。拓也の最後の言葉が耳から離れない。次はもう無いと、さよならと告げられたその声はコンピュータが再現した拓也のものであって、彼のものではない音としか認識できなかった。ふと思いついて暗い部屋の中を見回してみた。そう言えば、優は拓也に関する何も持っていない事に気が付いた。写真もない。一緒にどこかに出かけたこともない。思い出と言えるものはあの灰色の部屋しかない。いつも聞いていたあの声が本当に拓也の発する声と同じかどうか、記憶の中にある拓也はあの事件の時のそれだけだ。あの笑顔は本当の拓也のものではないのではないか。彼はどんな風に笑うのだろう。どんな声で「ユウ」と呼んでくれるのだろう。優を痩せすぎだと言っていたが、彼はどんな体型をしているのだろう。背の高さは?服はどんなものを着ていたのか。考えれば考えるほど生きて動いている拓也をほとんど全くと言っていい程知らないのだと痛感した。あれ程心を通わせて会話をしたはずなのに。何も残っていない。拓也に触れたいと思った。その手に、その髪に、その顔に。触れたのはただの一度きり。あの日、あの時、自分の右手を掴んでくれたあの時だけ。何故あの時自分は彼の手を放してしまったのだろう。両手でしっかりと彼の手に掴まり、落ちることがなかったなら、状況は今とは変わっていたかもしれない。 扉をカリカリと引搔く爪の音がした。猫を部屋へと入れて、いや、しかしと思い直す。 あの時、この子を守るために自分は手を放したのだ。その判断は正しいと今も信じている。それよりも自分が本当の事を証言しなかったからこそ、今の状況があるのだ。何かしなければならないと思った。自分には何が出来るだろう。 拓也をカプセルから出すことは出来ないのかと考えてみた。しかしたとえ優が証言をし、彼が冤罪だとしても、すでに彼はカプセルの中で植物人間状態にある。もうカプセルの中でしか生きられない状態に置かれているのだ。カプセルから出ると言うことは死を意味する。本当にそうだろうか。小さな疑問がよぎった。優は慌てて立ちあがるとパソコンの電源を入れた。海外のサイトをあるキーワードで検索した。それには何時間もかかったが、彼女は幾つかのサイトを見つけ、その記事を何度も読み返した。時には知らない単語を辞書検索しながら、その内容を綿密に調べた。毎日毎日キーワードを少しづつ変えながら検索しては目的のサイトを探し続けた。そうして優は一つの希望をその手に入れた。
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