【プロローグ】
「美月が死んだの」 「美月って誰?」 ふっと唇の端から笑みがこぼれた。 「ちゃんと名前つけてたのよ。知らなかったのね」 彼は視線を少し泳がしながら「ああ、猫か」と答えた。 「そう、猫よ」
【初めの夏】
鈴木優は自宅ビル前に自転車を止めて四階を見上げた。灯りが付いている。少し考えてからビルの裏口に回り、非常階段を駆け上がった。 優の住むビルは三階までがテナントで四階からはマンションになっている。このビルは優の同居人である学生時代の親友の親戚の所有物で、優は格安な家賃で親友と四階全フロアを借り切っている。全フロアといっても二〇坪にも満たない小さなビルだ。 四階まで一気に階段を駆け上がった優は鞄から財布を取り出し、非接触型認証機にそれをかざした。カチャリと電子音がし、非常口の扉の鍵が開いたのを確認した。 非常口から入ると、そこは優の部屋であった。八畳程の空間にロフトが付いている。キッチンとリビングは同居人との共通のスペースで、各々自分の部屋を持っている。 優が部屋へ入ると三毛猫が大きな伸びをした後、尻尾を立てて足元に近づいて来た。 「みーにゃ、ただいま」と言いながら鞄を扉前に置くと、猫を愛おしそうに抱き上げた。 猫は満足そうにグルグルと喉を鳴らしてくしゃくしゃに撫で回されるのに身を任せている。 一通り撫で回した後、「今日もお医者さん行かなくちゃね」と言いながら、猫を解放した。 猫はふるふると体を震わせた。首をに付いた鈴がちりんと鳴る。 毛づくろいを始めた猫の頭を二回ほど撫でてからロフトに上がると、隅にあるペットキャリーバッグを取り出してきた。猫は何かを感じたのか尻尾を下げて耳を後ろにそらし、足音を立てないように部屋の隅にと急いで逃げて行く。 そんな仕種を微笑ましく見ながらキャリーバックを片手に猫へと近付く。 「逃げてもだめよ。今日が最後なんだから。ね。」 怯えた猫の首根っこを掴むと、そのまま一気にキャリーバックに入れた。 バッグの中から「にゃおにゃお」と非難の声が聞こえる。 ふぅ、と一息ついて立ち上がろうとした時、リビングへ通じるドアが二度ノックされ、開けられた。 「また裏口から帰って来たの?」 やや非難めいた口調で同居人の笹原美奈子が言った。 「ごめん、今から病院いくから・・・」答える優の語尾は次第に弱くなっていく。 美奈子はあからさまに眉間にしわを寄せた。美奈子が猫を好いていない事を十分に知っているからこそ、優は直接自分の部屋に入ることができる非常口から帰宅したのだ。 美奈子は腕を組んで扉にもたれかかっていた。 美奈子と優はあらゆる面で正反対であった。明るく活発な美奈子、なんとなく暗い印象を受ける優。それは容姿にも表れていた。大きな二重の目にすっと通った鼻筋、花芽がほころんだようなふっくらとした唇。それらが調和して個々のパーツを主張し合うことなく配置された美奈子の顔は化粧をせずとも人の目を引くのに十分な美しさと愛らしさを持っている。体も女性らしく柔らかな曲線はルーズな部屋着を着ていても手に取るように感じることが出来る。一方優は特別美人ではなく、それ程見られないと言う容姿でもないものの、ことさら目を引くというわけでもない。目立つものがないのだ。一般的と表現するのが一番無難か。体は痩せすぎて女性らしいとは言い難い。太ることを極端に恐れるために、脂肪を分解する薬を常用しているせいもあるが、薬に頼るほど脂肪があるようには見えない。美奈子に言わせると優は拒食症だそうだ。本人は否定しているが、あまりにも痩せたその姿を見る限り、多くの人は美奈子の意見に賛成するだろう。 「三〇分で帰って来るから」 猫の入ったキャリーバックを胸の前で持ち直して立ち上がりながら言った。 美奈子は答えず、手をひらひらと振るのを見て、優はまた非常口から外に出た。 動物病院は歩いて一〇分ぐらいの所にある。夜七時まで開業してくれているので、優のような仕事を持つ飼い主にはありがたい。 優が猫を飼いだしたのは今から半年ぐらい前になる。もともと猫好きなので、近所の猫達とは顔なじみだった。今飼っている猫もそんな近所の猫の中の一匹だった。五十メートル程離れた家に住むおばあさんが飼い主らしく、その辺りでよく目にしていた。 ある日、その家の近くを通ると「にゃーおにゃーお」と一際大きな声が聞こえた。覗き込んで見ると、三毛猫が家の中に入りたいと扉に爪を立てている。どうやらおばあさんは外出中らしい。猫は優の視線を感じたのか、そそくさと逃げ出した。 一週間後、またその家の近くを通りかかると、近所の人が二、三人集まって立ち話しをしているのが聞こえた。 「この猫どうします?ここで死なれてもねぇ」 その言葉に優は思わず人々の視線の先へと目を向けた。そこにはやせ細った三毛猫が家の前でじっとうずくまっているのが見えた。 「どうかしたんですか?」思わず問いかけていた。 「ここのおばあさん、先週から入院してるんですよ。この猫、忠犬ハチ公みたいにずっとここに居て困ってるんですよね」 優は慌てて猫に近づいた。普段なら視線を合わせただけで逃げてしまうような繊細な猫であったのに、抱きあげるとされるままになっていた。 このままでは死んでしまう。そう感じた優はその足で近所の動物病院に猫を持ち込んだ。事情を説明し、診察を受けると、猫は栄養失調だと言われた。獣医師が水を用意するとそれはおいしそうにその水を飲んだ。 「この子、飼いますか?」 獣医師にそう聞かれた優は逡巡の末、「はい」と答えた。 美奈子が動物をあまり好きではないことを知っていたからだ。それでもこの猫をこのまま放っておくことができなかった。 猫と帰宅してから美奈子を説得するのに三日かかった。優の部屋以外には猫を出さないこと、猫の毛を共有スペースに持ち込まないことなど細かな約束をしてやっと許可を得た。 それまで優の部屋に特に用もなく出入りしていた美奈子はぱったりと来なくなった。優はそのことに心を痛めていたが、自分に甘えてくる猫の仕種を見るにつけ、そのことを考えないようにしていた。美奈子には友達もいて、家族もいて、美奈子を必要とする人々がたくさんいるが、この猫には優しかいない。自分が守らなければならないと強く感じていたし、優自身も自分を本当に必要としてくれているのはこの猫しかいないと考えていた。 夕暮れの空の下、キャリーバックの中に向かって「大丈夫だよ」と小さく囁きかけながら歩を進めた。 程無く動物病院の看板の灯りが視野に入った。 肩で扉を開けながら「こんばんは」と挨拶をすると、いつもの受付の女性が「こんばんは」と笑顔を返してくる。 診察券を出すとすぐに診察室へと案内された。今日は優しか患畜がいないようだ。こざっぱりとした清潔感に溢れるこの病院はそこそこ流行っており、日によっては何人か待ち人がいることもある。 診察台にキャリーバックを乗せながら、「こんばんは」と今度は獣医師に挨拶をする。 初老の獣医師は椅子をくるりと回転させてこちらを振り返ると「こんばんは」といつもの丁寧な声で言った。 「調子はどうですか?」 「昨日から大分いいです。鼻水も止まってきました」 獣医師はバックから出された猫の口の中などをチェックしながら淡々と問いかけてくる。 「口内炎は出来てないですか?」 猫の口をチェックし終えた獣医師に優が尋ねた。 「大丈夫ですね。この子は歯がないですから。治療のために歯を抜く場合もありますからね」 「そうですか」 ふうとため息をつきながら猫の背中を一度撫でた。 優の猫は猫エイズに感染しているのだ。一週間程前から鼻水を出し始め、風邪の兆候が見られたので、病院に連れて来たところ、血液検査で判明した。猫の年齢は不詳だが、歯が犬歯を含めほぼ全て抜け落ちているので、高齢であることには間違いがない。猫エイズの場合、口内炎により食事が摂れなくなり死に至るケースが多いことを優はインターネットで調べていたので、その心配は排除されたことになる。しかし、エイズと名の付く通り、抗体が弱くなるので風邪でも死に至ることもまた確かだ。そのため、抗体を増やすインターフェロンを二日に一回、計三回注射するという治療方針を獣医師より提案された。今日はその三回目だ。 猫の背中に注射を一本打つと、獣医師はまた椅子に座りくるりと背中を向けてカルテに文字を書き始めた。 「またどうしても鼻水が止まらなかったり、様子がおかしいようなら来てください」 「はい」と獣医師の背中に声をかけながら、猫をまたキャリーバックに押し込む。 最後に「ありがとうございました」と背中に声を掛け、診察室を後にした。 受付の女性は獣医師よりカルテを渡されると、少しの間パソコンに何かを入力し、視線はそのままに「鈴木さん」と声を掛けた。プリンタから吐き出された用紙を受付に出しながら「今日は三千六百円です」とにこやかに言った。優は猫の入ったキャリーバックを抱きながらもたもたと鞄から財布を出し、現金を差し出すと、女性は素早くお釣りとレシート、診療点数の書かれた先程の用紙をその手に渡した。 財布に入れるのは面倒だったので、そのままポケットにそれを突っ込むと、キャリーバックを胸の前で持ち直して「ありがとうございました」と軽く頭を下げた。女性は笑顔のまま「お大事に」と返してくれた。 また肩で扉を押しながら、動物病院を後にする。夕暮れと夜の混じり合った風に髪がさらりと流される。 「よかったね、もう大丈夫だよ。元気になってね」 キャリーバックの中に声を掛けると一層大切な物を取り扱う様にバックを持ち直し、足早に夜の匂いが立ち込めてくる街中を歩き始めた。 早足で歩いて自宅ビルの裏口へと向かった。階段を目前にした所で携帯電話から着信音が流れてくる。相手を確認するまでもなく、その曲は美奈子からの着信を現していた。 もう家に着くのにと心の中でつぶやきながら電話に出る。 「もしもし、もう家の前だよ?どうしたの?」 階段に足を掛けながら答える。背後で宅配便の軽バンが止まるのが視野の隅に入った。 「ねぇ、ユウ、今私のハマってるお笑い芸人って知ってる?」 何の話しかと思えばである。確かに美奈子はお笑い番組が好きで、まだメジャーでない芸人を見付けてはライブに行ったりと次から次へと新しい芸人を紹介してくれる。 優はため息を一つついて、「もう家に着くから、それから聞くよ」と答えた。 「薬田啓よ」と美奈子はお構いなしに会話をつづけてくる。 「え?何?」意味が理解出来ずに優は聞き直した。 「だから、薬田啓よ。や・く・た・け・い。復唱して」 「えぇ?やくたけい?」 キャリーバックの中の猫が「にゃお」と鳴いた。 背後から宅配業者の制服を着た男性が非常階段を上がってくる。優は急に不安になった。宅配業者が非常口を使うことなど考えられない。一瞬の硬直の後、優は全力で階段を駆け上がった。制服の男性も駆け上がってくる。明確な恐怖を覚え、三階と四階の間にある踊り場で振り返った優は思わず片手に握っていた携帯を宙に放り出してしまった。 しまったと感じると同時に身体が反応してしまった。優は階段の低い手すりの向こうの携帯を受け取るようにその身を乗り出した。勢いの付いた身体は制御が付かず、手すりから腰まで乗り出した所で、落ちるとそう感じた。 「ユウ!」 美奈子の声が聞こえた気がした。身体は一瞬の浮遊感の後に急速な重力を感じた。携帯はその重力に従ってどんどんと落ちていく。自分も落ちていくのだと認識したとき、新たな恐怖が体中に満たされたが、重力に逆らうことはもはや不可避であった。 その時、右肩に強烈な痛みが走った。引きちぎられるのではないかと思うほどの張力を肩に感じたのである。 カタンと地上に携帯が落ちた音がした。 見上げると宅配業者の制服を着た男が優の右手を握っていた。 「おい、猫を捨てろ!」 男に言われて、今だしっかりと左手でキャリーバックを抱えていることに気が付いた。 「猫か、俺か、どっちをとるんだ!」 男が苦しげに声を絞り出した時、背後を何かが通り過ぎて行く感覚を覚えた。 あ、と男が小さく声を上げた。その時少し男の力が緩んだ。優は自分の右手の力を抜いた。 落ちる、落ちて行く。その僅かな時間で猫を守るためになるべく身を屈めて両手でしっかりとキャリーバックを抱き締める。 足に激痛が走った。その後、腰、背中、頭と地上に着いたが、何かが優の下にあり、幸い強打することはなかった。優はそのまま意識を失った。 優を守ったその何かが美奈子の身体だと知ったのはそれから三日後のことであった。
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