* 25年間、いつも傍らにあった愛しい人は、この後(のち)、僅か一ヶ月後、その腕の中で、『愛してるわ・・・』という言葉を最期に静かに息を引き取った。 『私が死んだら・・・・・直ぐにセラフィムに戻るのよ・・・・直ぐにメルバを発って・・・そうじゃないと・・・許さない・・・・・・』
永遠の別れ際、ヒルダは、折れそうなほどに痩せ衰えたその腕で、ソロモンの広い背中を、驚くほど強い力で抱き締めてそう言った。 やつれて艶を無くしてしまったヒルダの頬に自らの頬を寄せ、ソロモンは、ただ、黙ってその言葉に頷くことしかできなかった。 苦しむことも無く、永久の眠りに就いた彼女の顔は、ひどく穏やかで優しく、とても美しいものであった。 死へと旅立つヒルダを見送りながら、溢れ出した涙は止まること知らず、次第に冷たくなっていくその頬に、幾筋も幾筋も滴り続けた・・・・ 何もかも、ミウを失ったあの日と同じだった。 何もかも・・・・
* 哀しみの縁に立たされたまま、それでも、ヒルダの言葉通り、自らが指揮をとる戦闘母艦セラフィムに戻るため、ソロモンは、ギレアデ・セクションの発着デッキに立った。 見送りに来た元老アルベルトに振り返ると、ソロモンは、凛と引き締まった表情で正敬礼をして見せたのである。 「お手間をおかけしました、元老アルベルト」 肩に広がる栗色の髪と、その前髪から覗く薄紫色の鋭い双眸。 そこはかとない秀麗さを持つ精悍な顔立ちは、どことなくソロモンに似ているが、アルベルトが醸し出す雰囲気はひどく鋭利であり、畏怖すら感じるほどの強い威厳があった。 その容姿は37〜8歳に見えるが、アルベルトは、べテル・セクションの中枢コンピュータの中で、実に三世紀もの長い時を生きている人物である。 長い寿命を持つソロモンでさえ、まだ、彼ほどの時を生きている訳ではない。 ソロモンにとってアルベルトは、今だ越えることの出来ない目標でもあり、唯一畏怖を感じる尊大な人物でもあった。 そんなアルベルトは、揺るぎない威厳を保つ眼差しで、真っ直ぐにソロモンの紅の瞳を見つめ据えると、端整な唇を小さくもたげながら落着き払った口調で言うのである。 「その顔が、部下の前で、おまえがしなければならない顔だ。腑抜けた顔だけは絶対にするな・・・・・・・いいな?」 「イエッサー」 ソロモンは、ゆっくりと敬礼の手を下ろして、パイロットスーツの胸元で長い銀色の髪を揺らしながら、唇だけで小さく微笑する。 「では・・・・セラフィムに戻ります」 やけに改まった口調で「レムリアス」と呼びかけると、アルベルトは、僅かに足を踏み出して、珍しく柔和に微笑ったのである。 ソロモンは、僅かばかり驚いて、そんなアルベルトをまじまじと見つめ据えてしまう。 アルベルトは、武骨な両腕で、いささか戸惑い気味のソロモンの肩を抱き寄せると、静かな口調でこう言うのだった。 「おまえは、この俺には似つかわしくない、よく出来た息子だ・・・・・・・武運を祈る」 「・・・・・・・・っ?!」 これまで生きてきて、今だかつて、アルベルトが、こういう風にソロモンを褒めたことは一度もなかった。 アルベルトは、常に厳格であり、畏怖を感じるほどの鋭い眼差しでその顔を見つめ、時には声を荒げられることすらあった。 そのアルベルトが・・・・ 自分を褒めた・・・ プロジェクト『NEW WORLD』が始動するこの時に、ソロモンは、心の支えであった愛しいひとを失った。 それが、どれほどの痛手であるのか、アルベルトは、口には出さずともよく知っているのだ。 驚きを隠せない紅の瞳が、まるで、少年のような面持ちになって、にわかに潤み始める。 その褒め言葉は、アルベルトなりの武骨な励ましに他ならない。 アルベルトのひとなりを良く知っているソロモンは、それを直ぐに理解する。 「ありがとうございます・・・・」と答えたその声は、既に、言葉にはなっていなかった。 叱責されることを覚悟する前に、その紅の瞳からは、後から後から涙が溢れ出て、止まることを知らなくなった。 ぎりりと奥歯を噛締めて、広い肩を小さく揺らしながら、少年のような顔つきをしたソロモンが、ゆっくりとその美しい紅の瞳を伏せる。 哀しみは心を苛んだまま、じりじりと焼け付くように広がっていく。 悲哀の破片が、涙となって心の底から溢れ出し、鋭い畏怖と威厳を保つ“父”とも言うべき人の緋色の服を濡らしていった。 だが、いつまでも、哀しみの縁に留まっている訳にはいかないのだ・・・ セラフィムに戻れば、また、死と隣り合わせの多忙な日々が待っている。 だから、せめて・・・ この時だけ・・・ この短い時だけ・・・ 「・・・・・・父さん・・・・」 幼い少年が、厳格な父を遠慮がちに呼ぶように、消え入るような掠れた声で、ソロモンはアルベルトをそう呼んだ。 アルベルトは、無言のまま、ただ、震えるその肩を抱きながら端整な唇の隅で小さく微笑するのだった。 やがて、この深い哀しみは未来を生き抜く力になる。 この先には、いつ果てるとも知らない壮絶な戦いが待っているのだ。 900名を越える部下を守り抜き、そして、『新世界』の扉を開く者達を守り抜き、その道筋を導く重要な任務を、必ず、まっとうしなければならない。 忘れ去られた遠い惑星を・・・・・・蒼く澄んだ美しい惑星を目指すのだ。 ヒルダが「溺愛する息子」と称した、あの凛と強い黒曜石の瞳をした青年と共に、人類の希望をその肩に担う、血の繋がらないもう一人の愛息である少年と、その伴侶となる少女を、その地に送り届けるために・・・・ 少年の頃に見たローレイシアの蒼い月。 それを嬉しそうに眺めていた、ミウのためにも、そして、25年という月日を、そっと傍らで見守ってくれていたヒルダのためにも、また、立って歩きださなければならないのだ。 宇宙の波乱は、これから激戦の様相を呈していく。 その先に待っているものが、例えで死であっても、進んでいかねばならない。 惑星に周回する衛星のように、思いは命を周回する。 この哀しみはやがて、宇宙を彩る星屑に変わるはず。
それまで、もう少しだけ・・・ この命を与えてくれた人の腕を借りて、泣こう・・・・ もう少しだけ・・・
【NEW WORLD 〜Side Story〜 ローレイシアの月 END】
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