* 二つの月が、紺色の空の中心へと昇っていく。 晩餐会の客達が、一人、また一人と家路に着き始めた頃、一人の若い警備兵が長い軍服の裾を緩やかに翻しながら、屋敷の四階に上がる広い階段をゆっくりと昇っていた。 深くかぶった軍帽の隙間から零れる茶色の癖毛が、ゴーグルをかけた耳元で軽やかに揺れている。 晩餐会が開かれている三階は、未だかなりの厳重警備が敷かれているが、さすがに、イズミル国家主席の私室や寝室、書斎などを備えているこの階は、この時間、まだ警備が手薄であった。 軍服の袖に隠したリモコンで、多機能ゴーグルに映し出された屋敷の見取り図を切り替えながら、その若い警備兵・・・いや、警備をしていた兵士の一人を殴り倒し、その軍服を奪って身につけたリョータロウ・マキは、厳しい顔つきをしたまま、階段を昇り切ったのである。 一階にあるリビングと会議室、それと食堂には、既に、小指の爪の先ほどしかない小型盗聴器を設置し終わっていた。 セラフィムのインフォメーションデスクの情報では、大抵の会談は、一階にあるその三つ部屋のうちのどこかか、この四階に3箇所ある、国家主席の私用リビングのどこかで行われるということだった。 5箇所の寝室と5箇所の私室、3箇所のリビングと2箇所の書斎、その他にリネン室が2箇所、そして大浴場とシャワールーム、この階の部屋数は極めて多い。 それらは全て、イズミル国家主席が私用で使うものだということだ。 ゴーグル越しに覗く、リョータロウの鋭い黒曜石の瞳が、長く広い廊下の先を睨むように見つめすえる。 その視界の先から、ライフルを肩に下げた警備兵の姿がゆっくりとこちらに近づいてきていた。 すれ違う寸前、リョータロウは、何事もないような顔つきで敬礼すると、その兵士の脇をすんなりと通り過ぎていく。 この屋敷の警備兵たちは、暗視ゴーグルを着けたまま警邏(けいら)にまわるため、リョータロウが少し形の違うゴーグルをつけていようと、その不審さに気付く者は誰一人としていなかった。 遠ざかっていく足音を背中で聞きながら、リョータロウの指先が、再び、袖の下に隠した多機能ゴーグルのリモコンを操作すると、その視界に、国家主席専用リビングの場所までをナビゲートする赤いカーソルが点滅した。 上質の絨毯が敷き詰められた廊下を左に曲がり、2ブロックほど行ったところに、一箇所目のリビングがあるようだった。 この通路上には、大浴場と寝室もあり、突き当たりの大きな窓の向こう側には、海を臨むテラスが広がっているはずだ。 リョータロウがその通路を曲がった時、ふと、視界の左側に見える寝室前に、二人の警備兵の姿が映りこんでくる。 「?」 晩餐会は、まだ終わっていないはずなのに、何故、こんなに早い時間に警備が配置されているのか・・・そう、不審に思った瞬間、リョータロウは、苦々しくその眉根を寄せたのだった。 ソロモンの言っていた言葉が、ふと、その脳裏を過ぎっていく。 まさか・・・まだ客は帰ってないんだぞ・・・っ 嫌悪すら感じて奥歯を噛締めると、寝室の前に立つ兵士たちに何気なく敬礼し、ゆっくりとその場を通り過ぎたのである。 リビングは、この通路の一番端、海際の角部屋だ。 通路から入るつもりであったが、通路上に兵士がいたのでは不審に思われる。 一旦テラスに出て、窓から侵入するしかない。 そんなことを思って、突き当たりの大きな窓辺に浮かぶ二つの月を見上げた時、一瞬だけ、あの妖艶で美麗で、そして無邪気なセクサノイドの切な気な顔が、瞼の裏を通り過ぎて行ったのだった。 今、イズミルの寝室にいるのがあのセクサノイド、メイヤであったとしても、警備の兵士たちを殴り倒してまで中に押し入る訳にはいかない・・・無駄に騒ぎを起すことは出来ないからだ。 そういう約束で、ソロモンは彼を此処によこしてくれたのだ。 「くそ・・・っ」 だが、どこか納得のできない感情が、ふつふつと胸の奥に湧き上がってくる。 端整な顔を厳しく歪めながら、テラスへと続く窓を押し開けると、その視界の隅に、二つの月影とサーチライトの帯に照らされた人影が飛び込んできたのだった。 「!?」 リョータロウは、咄嗟に腰の銃に手をかけて、それでも勤めて冷静な仕草で、ゆっくりとそちらを振り返った。 場合によっては、撃つしかない。 そう思った次の瞬間、リョータロウは、思わず、その動きを止めてしまった。 揺れる前髪の下で、驚いたように見開かれた黒曜石の瞳に、強い海風に煽られながら、月明かりにきらきらと輝くルビー色の髪が飛び込んでくる。 リビング前のテラスには、手すりの上に両腕を乗せ、そこに綺麗な頬を埋めた、一人の若い女性の姿があった。 悲痛な表情で長い睫毛を伏せている彼女は、明らかにこちらの気配に気付いているはずなのに、何故か、決して振り返ろうとはしない。 どこか怯えた様子で、白いショートボレロを羽織った肩を震わせながら、ひたすらその身を硬直させている。 強い風と二つの月影の中で跳ねるルビー色の髪と、どこか妖艶な雰囲気を持つ美麗な横顔。 それは、紛れもなく、あのトライトニアのタイプΦヴァルキリー、メイヤの姿であったのだ。 彼女の生体センサーが、人間の気配に気付かない訳がない。 リョータロウは、何故か、安堵にも似たため息をついて、絶対にこちらを見ようとしない彼女の元へと、静かに足を進めたのだった。 彼が傍らに立っても、メイヤは、頑なに瞳を閉じたまま身動ぎもしない。 そんな彼女の肩に、リョータロウは、静かに手を乗せた。 「おい」 その瞬間、ビクリと身体を震わせながらも、彼女は、何かに気付いたように、その瞳を大きく見開いたのである。 サーチライトの帯が、その妖艶で美麗な顔を照らし出しては、ゆっくりと通り過ぎていく。 跳ねるように揺れる前髪の下で、ルビー色に輝く綺麗な人工眼球が、眼前に立ったリョータロウの顔をまじまじと見つめすえた。 「・・・っ!?」 「おい・・・・・・大丈夫か?メイヤ?」 ゴーグル越しにこちらを見つめる、揺るぎない強さを持つ真っ直ぐなその瞳。 もう二度と会えないと思った青年の凛としたあの眼差しが、何故か、今そこにある。 突然、その場に姿を現したリョータロウを、瞬きもせずに、ひたすら真っ直ぐに凝視して、メイヤは、風に揺られて秀麗な頬にかかる艶やかな赤い髪を片手で抑えると、まるで、フリーズでも起したかのようにその場で立ち尽くしてしまった。 「あ・・・」 メイヤのなだらかなその肩が、予想もしなかったその出来事に、再び、小さく震え出す。 「どうした・・・・?俺がわからないのか?」 深く被った軍帽の下で凛とした眉を寄せたリョータロウが、片手でゴーグルを外して見せると、そのとたん、メイヤの震える唇が、消え入るような微かな声で、彼の名前を呼んだのだった。 「リョータロウ・・・」と。 だが、彼女には、それ以上何をも言うことができない。 リョータロウは、精悍な唇だけで軽く笑うと、ゆっくりと彼女の眼前を通り過ぎながら、リビングの窓辺に立って、手首の腕時計を窓或に向けたのである。 その小さなスイッチを片手で押すと、セキュリティシステムを解除する磁気レーザーが、一瞬だけ照射される。 セキュリティが解除されると同時に、大きな窓に掛けられていた鍵が、微かな音を立てて外された。 窓のノブに手をかけながら、リョータロウは、鋭い表情をしながら、背後で未だに呆然としているメイヤに聞くのである。 「無事か?何もされなかったか?おまえ?」 「う、うん・・・07が、庇ってくれたから・・・でも、もう少ししたら・・・わからない。 あの・・・・どうして・・・こんな所に、居るの?」 サーチライトに照らし出されたルビー色の髪の下で、大きな瞳を見開いたまま、やっとそんな言葉を口にしたメイヤを、横目でちらりとだけ顧みると、リョータロウは、慣れた手つきで窓の内側に盗聴器を貼り付けて、静かに窓を閉じたのだった。 「見ての通り、仕事だよ」 「仕事?」 「・・・・そんな事より、メイヤ」 ゴーグルを首元に引っ掛けたまま、リョータロウは、不思議そうに小首を傾げるメイヤを振り返ると、端整な顔を神妙な面持ちに満たし、落着き払った声色で言葉を続けたのである。 「おまえ・・・俺と一緒に来る気はないか?ガーディアンエンジェルの船に・・・?」 「え!?」 驚いたように肩を震わせたメイヤの綺麗な顔を、揺るぎない強さを持つ黒曜石の瞳が真っ直ぐに見つめ据えている。 その眼差しに、嘘があるようには思えない。 メイヤは、どこか戸惑った様子で、そんなリョータロウの顔をひたすら凝視したのだった。 リョータロウは、そんな彼女にゆっくりと背中を向けながら、更に言葉を続けたのである。 「ガーディアンエンジェルは、少なくとも、おまえを”道具”として扱うようなことはしない」 そう断言したリョータロウの軍服の長い裾が、海風に煽られて緩やかに翻った。 深く被った軍帽から零れる茶色の癖毛が、鋭いサーチライトの帯の中で音もなく揺れている。 そんな彼の広い背中を見つめていたメイヤは、その綺麗な顔を、まるで光が差すように明るくすると、二つの月影の下で、ルビー色の瞳をキラキラと輝かせながら、咄嗟に両腕を伸ばしたのだった。 強い風の最中に赤い髪が乱舞する。 跳ねるように床を蹴ったメイヤが、何の遠慮も無く、思い切りリョータロウの背中に抱き付いた。 「!?」 リョータロウは、その暖かな温もりを背中に感じながら、驚いたような、怒ったような、そんな複雑な表情をして背後を振り返ったのである。 「おい!何やってんだよおまえ!?」 「・・・・行く、リョータロウと・・・行く・・・!本当に、行っていいの?私、行っていいの?」 やけに無邪気に、そしてひどく嬉しそうにそう言って、くったくなく微笑んだメイヤに、リョータロウは、どこかしら照れたような顔つきをしながら、片手で軍帽の鍔(つば)掴むと、それを深くかぶり直して、ぶっきらぼうに答えて言うのだった。 「来させなくなかったら、そんなこと聞かねーよ・・・・・」 「嬉しい・・・私、リョータロウと一緒にいて・・・いいんだね?」 「何言ってんだおまえ・・・っ?別に、そういう意味じゃなくて・・・っ」 そこまで言いかけて、リョータロウは、思わず、諦めたように肩を竦めてしまった。 きっと、今の彼女に何を言っても無駄だ。 彼女は、まだ、人間に関する学習が足りていない。 小さくため息をつくと、くるりと前に向き直り、リョータロウは、その広い肩越しから、ゴーグルに映し出された四階の間取り図を、メイヤの目の前に突き出したのである。 「ただ、助けたかっただけだ・・・」 「え?」 不思議そうに小首を傾げメイヤに、リョータロウは、乱暴な口調で言うのである。 「詳しい話はまた後だ・・・五分後に、この部屋に来い。それまでに仕事を終わらせておく、遅れるなよ」 嬉しそうに笑ったメイヤは、その部屋の場所を的確に把握し、瞬時にそれをAIにインプットする。 「うん!」 何の躊躇いもなさそうなメイヤの返答に、リョータロウは、心無しか安堵したように再びため息をつく、ゴーグルをかけ直し、唇だけで小さく微笑したのだった。 そして彼は、軍服の長い裾を翻し、早足で通路へと戻っていったのである。 そんなリョータロウの後姿を、メイヤは、ほんのりと頬を赤らめながら、静かに見送ったのである。 長く伸びるサーチライトの合間に、二つの月が浮かんだ夜空の下、例え様のない高揚感が、本来は、機械であるはずの彼女の全身を満たしていく。 今まで、学習したことのなかったこの不思議な幸福感に、ひどく嬉しそうに微笑みながら、メイヤは、自分の体を自ら腕で抱き締めたのだった。 これが、人間で言うところの恋心であることを、彼女は、薄らと自覚し始めていた。
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