「このメスを移せば終わりっと・・・あー落ちた!」 すくい網からぽろりと落ちたゼブラフィッシュはテーブルのうえでぴょんぴょん跳ねていた。あわてて手で掴もうとすると後ろから笑い声が聞こえてきた。 「ふじー、朝から楽しそうだねー」 「いやいやいや、よし、捕まえた!」 捕まえたサカナを水槽に戻すと、元気良さそうにスイスイ泳いでいた。 「あ、ゆっきー、おはよう」
ここは国立N大学大学院理学部の研究室。「ふじー」と呼ばれてるのは、僕が藤井伸二だから。「ゆっきー」というのが杉沢友紀で、僕と同じ大学院の修士課程の1年。ただ彼女は別のK大学で4年いた後、大学院からうちの研究室にいる。 うちの研究室では、ゼブラフィッシュという体長3cmほどの小型熱帯魚を使った遺伝子の研究を行っている。どうやって心臓や腸ができるのか、それに関わっている遺伝子はなんなのか・・・とかを研究している。研究と言うと響きはいいけど、毎日似たような実験の繰り返しで、その中から地味にいろいろ見つけていくというタイヘンな作業。しかも学生だから授業料も払わないといけない。研究室は朝から晩までいるから、バイトする時間もほとんどない。おまけに指導教官からはデータ出せと急かされる。タイヘンな身分なのだ。
この日も淡々を実験をこなして、気付くと夕方になっていた。休憩室でコーヒーを飲んでいると、ゆっきーと、博士課程3年の長谷部裕太――僕らはべーさんと呼んでいるが――が入ってきた。 「ベーさん今日はオーバーナイトですか?」 「たぶんね・・・学会出すデータが足りん・・・しんどいわー」 すると学部4年の小西千恵美――彼女はちぃと呼ばれてる――も加わってきた。 「オーバーナイトって・・・一晩ってことですか?」 彼女はまたうちの研究室に所属されたばかりの学部4年生だから、専門用語ならぬ、研究室用語というものを知らない。この世界ではまだウブな女の子。 「実験操作でオーバーナイト・・・一晩保管するってあるだろ。それから転じて徹夜するって意味だよ」 「徹夜することってけっこう多いんですか?」 「研究発表の直前とかはデータまとめたり、足りないデータを集めるために実験したりとかで、1回か2回やってるかなぁ」 「ふじーさんやゆっきーさんもするんですか」 「僕も卒論のときは2回徹夜したな。あれはしんどかった」 「私は完徹はしなかったけど、3時間睡眠が1週間くらい続いたかな」 「えー、私もするんですかねぇ・・・」 ちぃはちょっと不安そうに怯えている。うん、やっぱりウブだ。しかもちょっと天然入り。 「オーバーナイトしないと一人前の研究者じゃないんだよ」僕はちぃをいじめてみる。 「えーいやですよ絶対。ふじーさんみたいな人にはなりませんから」 「どーゆー意味じゃい!?」 4人ともいっせいに笑った。うん、ちぃはいじりがいがある。そしてかわいい。
「そうそう、さっきネットニュース見てたんですけど」 ちぃが新しい話を切り出してきた。 「恋愛対象を決めてる遺伝子にキューピッドって名付けたって」 「あ、見た見た。でもどーなんだろうね、あれって」 「論文見てないからなんともなー、引っ張ってこようか」 そういってべーさんは自分の机に戻っていった。大学のパソコンからは、契約している論文サイトなら論文を自由にダウンロードできるからだ。 「でも恋愛遺伝子って前にもあったよね」 ゆっきーが確かね・・・と思い出しながら答えた。 「白血球にあって免疫に関わってるやつ。MHCだっけ?」 「あ、なんか免疫がどーのって聞いたことあります。違うタイプのを好きになりやすいでしたっけ?」 「そうそう、なんかそれを臭いで感じ取るって話」 僕はコーヒーをすすりながら二人の会話を聞いていた。恋愛が絡むと、やっぱり女の子はおしゃべりが進む。話してることはすごい理系なんだけど、本人たちはガールズトークってやつのつもりだ。 「わたしも好きな臭いってありますよ」 「えー、ちぃ、どんな臭いが好きなの?どんなMHCが好きなの??」 ゆっきーが詰め寄る。 「いや、どうって・・・なんかこう・・・『ふにゅー』って感じ」 ちぃは至高のスイーツを食べたかのような幸せそうな顔をしている。 「わたしは『すわー』って感じだな」 対してゆっきーはミントのアイスを食べたかのような爽やかな顔をしている。 わ、分からん・・・これがガールズトークってやつなのか?? 「あ、ふじーのは『ふにゅー』に近いかも。ちょっとちぃ、かいでごらんよ」 「はい??」 どんな会話の流れだ・・・やっぱり分からん。でもちぃはちょっと上目遣いで僕のほうを見ている。 「ふじーさん、いいですか?」 うん、断る理由はどこにもない。なんだか微妙なシチュエーションだけど、悪くはない。 「じゃあふじーさん、失礼します」 ちぃはまず僕の肩のあたりに鼻を当て、そのまま胸、腰のあたりに頭を移していった。なんだこの光景。うん、でも悪くない。ちょっとドキドキもの。ところがちぃは顔を上げると、うーん、と首をかしげた。 「ふじーさんのはこう・・・『ぷしゅー』って感じ」 「『ぷしゅー』??」 「なんか・・・自転車のタイヤがパンクしたみたいな」 僕のドキドキもいっしょにしぼんでいった。ぷしゅー。
「あったぞー論文。あれふじー、何しぼんでるんだ?」 べーさんが戻ってきた。パンクしてるなりにがんばって会話に入る。 「見せてくださいよ。おお、ほんとキューピッドだ・・・」 論文のタイトルには大きく「Concordance rate of CUPID gene-sequence determines the affinity of lovers」とある。ちぃが顔を覗かせる。 「CUPID遺伝子の塩基配列の一致率が、恋人の相性を決める・・・てことですか?」 「そだね。ずいぶんストレートなタイトルだな」 「なんでCUPIDなんですか」 「こいつから作られるタンパク質が銅原子を取り込む性質があるんだと。で、その領域をCu-Picking Domainと名付けて、それを持ってるということでCUPID遺伝子だとさ」 「でもなんかオシャレですよねーキューピッドって」 ちぃは目を輝かせている。僕のパンクしたタイヤ・・・じゃない、ドキドキに少し空気が入ってくる。 「あ、そうだ、ゆっきー」 べーさんは論文の1ページ目を取り上げてゆっきーに渡した。 「この論文K大から出てるんだ。たしかゆっきーK大だっただろ?A. Yumitaってあるけど知ってる?」 ゆっきーは論文を受け取ると、あー弓田先生のところかー、をつぶやいた。 「応用神経生物学だったかな、確か。いろんな感情を遺伝子からアプローチするってところですよ。恋愛感情だけじゃなくて、闘争本能や食欲とかもやってるはずですよ」 「へぇーおもしろそうだな」 「友達がそこにいるんですよ。近いうちに先輩が論文出すって聞いてたんですけど、キューピッドとはね・・・」 そのとき、ゆっきーはなにか思いついたように小さく口を開け、そしてにやにやし始めた。 「ねぇ、このCUPID遺伝子で恋愛の相性計ってみません?この4人で」 「ええ?」 ゆっきー以外の3人が声を上げた。何言い出すんだこの子。 「どーせ髪の毛とかを溶かしてシークエンスかけるだけでしょ?おもしろそうじゃん」 「いや、でもヒトで同じことが言えるとはこの論文には書いてないぞ」 「ですからべーさん、あくまでゲームみたいな感じで」 「仮にそうだとしても・・・プライマーどうするんだよ」 「友達に言ってちょこっとだけ送ってもらいますよ。あと詳しいプロトコルとか、ヒトで同じようなことが言えるか、ついでに聞いてみますよ」 ゆっきーは完全にやる気だ。ちぃもなにやら楽しそうだ。 ・・・これでもし、僕とちぃのCUPID遺伝子の一致率が高かったら・・・「いける」可能性は高い。少なくともきっかけにはできそうだ。 「やってみましょうよべーさん。こういうのも研究者の特権ですよ」 「まぁいいけど・・・ボスにバレないようにこっそりとな」 ボスというのはここの研究室の教授である鎌田教授のことだ。どこの研究室でも、教授のことは通称ボスと呼んでいる。仕事以外のことをやってるのが上司にバレるのは、どこの組織でもマズい。 「じゃあ友達にメールしときますね。届いたらみなさん、サンプル採取にご協力をー」 ゆっきーはさっそく自分の机に戻って、メールソフトを立ち上げた。 ちぃは興味ありげな笑顔で僕のほうを見た。ああキューピッド様、僕とちぃのCUPID遺伝子が一致するように、愛の架け橋を!
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