聖恵の視線は「愛」という一文字に集中していた。母の名前が入っている交換日記……偶然だろうか。いや、母の時代に「愛」という名前は珍しいはずだ。 あのノートはなんなのだろう。気になるが、さすがに見ず知らずの男性にいきなり聞くわけにもいかない……だが、会話の切り口くらいならある。 「あの……どうして、その席なんですか」 男性は聖恵の不審な面持ちに気付いたようで、ああ、と言って説明を始めた。 「親父が若かった頃、付き合ってた人とよくこの席でプラネタリウムを見てたらしいんですよ。それがこの交換日記に書いてあって」 男性は大塚穂尊(おおつか ほたか)と名乗り、ノートを手渡してくれた。彼の父親の名前が良樹らしい。 「今から30年以上は前のことらしくて。あ、付き合ってたのは今の母ではないです。この日記を書いてた女性と別れてずっと経ってから、今の僕の母と出会ったらしいんですけど」 聖恵はノートをめくりながら、特に女性の書いた文章に注目して読んでいた。なんとなく母の字体に似ている。大塚は話を続ける。 「実は、親父が1ヶ月前に急に死んでしまってね」 「え?」 「急性脳出血で。それで親父の荷物とかを整理してたら、そのノートが見つかったんです。親父とは特別仲が良くもなく悪くもなくですけど、母以外の人とも付き合ってた頃があったんだな、と思うと不思議な気分になって」 そういえば、と聖恵は思い出していた。母に、どうしてそんなにプラネタリウムが好きなのかと昔聞いたことがあった。そのとき母はこう答えていた。 『まだお父さんと知り合う前にね、他の人といっしょによく行ってて、それで好きになったの。その人とは結局気が合わなくて別れたんだけど、プラネタリウム好きはそのまま残っちゃったの』 聖恵がノートをめくっていると、あるページに目が止まった。見慣れた単語が書いてあったからだ。
やっと見つけた特等席! ここが一番、星空が眺められるところ。 これからはずっとここに座ろう。 私がF−14、良樹くんがF−15
母は大塚の父と付き合ってた頃、この席を見つけたんだ。 「F−14……」聖恵は思わずつぶやいてしまった。 「え?」大塚が尋ねてきた。 「あ、すいません、実は……私もそうなんです。3年前に母を亡くしたんですけど、いつもここに連れてもらったときには、必ずここの席に座らせてくれたんです。ここ……F−14が一番見やすいんだよって」 「それって……」大塚は体を聖恵のほうに向けて聞いてきた。 「母の名前、愛って言います」 「じゃあ……」大塚は聖恵の顔とノートに視線を移し替えながら答えた。 「たぶん、私の母と、大塚さんの父が付き合ってたんでしょうね。まだ将来の結婚相手と出会う前に」 不思議な気分だった。親だって時代が違うとはいえ、それなりにいろいろな恋愛経験をしてきたはずだ。だけど聖恵を始め、子供が知っているのはすでに結ばれた父と母の姿だけで、2人が過去にどんな恋愛をしてきたかなんて想像もできない。 30年前、聖恵の座っている席には母が、大塚の座っている席には彼の父親が、そのときはお互い最高の恋人だと信じて、こうしてプラネタリウムを見ていた。やがて二人は残念ながら別れてしまったけれど、お互いパートナーを見つけて結婚、そして今、その子供がまた同じ席に座っている……これを親子の絆と呼ぶのか、はたまた運命と呼ぶのか、聖恵にはよく分からなかった。だが少なくとも30年前、ここに座っていた恋人たちは、本当にプラネタリウムが、そしてお互いに好きだったことだけは間違いないのだと実感できた。 ホールの照明が落ちてきた。プラネタリウムが始まるころだ。大塚は「どんな眺めなんだろうな……」とつぶやきながら、シートを倒していた。
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