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作品名:荻田孫十郎の生涯 作者:猫跨三十郎

最終回   後編

  上杉家移封と秀吉の死

 上杉家を追放された長繁であったが一説には秀吉の甥、関白豊臣秀次に仕えたという。
 このころ豊臣秀次は秀頼が生まれたことにより秀吉から譲られた関白としての立場が微妙なものになっていた。1595年(文禄4年)2月、会津の蒲生氏郷が死去すると遺領の相続に関して秀吉と意見が対立。両者の緊張は高まっていた。上杉家において武名のあった長繁をすかさず召抱えたのであろう。また、秀吉に対する無礼を理由に上杉家を解雇された者を時間を置かずに雇えるものは関白である秀次ぐらいのものだったろう。
 しかし長繁はすぐに秀次の下を辞している。秀次に奇矯の振る舞いがあったためと言う。何か失せ物、足りない物があると「主馬(長繁)が落としたのだろう。」と責めた。息子が椀を取り落としたことにこじつけてからかったのであろうか。だとしたらあまりに無神経である。あるいは、秀吉からのプレッシャーを受けて、精神のバランスを欠いていたのかもしれない。いずれにせよ秀次が高野山に追放、切腹させられる7月までにはその下を離れていたと思われる。
 この時期、秀次の下にはかつて佐々成正配下の名将として知られた久世但馬守も出仕していたらしい。長繁が越中戦線で敵将であった久世但馬と、この時親交があったかはわからないが、両者は後にも関わりを持つ事になる。
 1595年(文禄4年)7月15日高野山に追放されていた関白豊臣秀次は切腹させられ、8月2日京の三条河原で、正室、側室、子ら30人以上が処刑された。「腹に子が居るかも知れぬ。」と言うのがその理由である。その中にはまだ祝言前であった最上家の姫や秀吉の馬廻衆の息女なども含まれていた。
 当然ながら浪人中の荻田長繁の行動は不明である。可能性で言えば荻田家、家臣の小川家の出身地である近江琵琶湖東岸付近に居ついたのではなかろうか。
 その後、荻田長繁は家康の次男、結城秀康に仕えることになるが、そのはっきりした時期は明らかでない。

 1597年(慶長2年)9月、朝鮮との講和は破れ秀吉は再び出兵する。(慶長の役)上杉家にも結城家にも動きは無く、秀吉政権にしても東日本の外様大名を動員するだけの意欲も余裕も無かったのであろうか。
 1598年1月、秀吉は上杉景勝に越後90万石から会津・米沢120万石(合計150万石とも)への移封を命じる。名将蒲生氏郷亡き後の会津の混乱を抑え、伊達政宗に対抗するための政策とも言われる。しかし、越後の実質石高は青苧などの商業作物、金銀山の鉱山収入、日本海沿岸貿易、漁業などを合わせると200万石に達していたと言われ、実際には大幅な減封であった。そもそも秀吉は景勝が算出した90万石という検地結果に不満だったとも言われる。日本の黄金の6割を算出する越後の地を外様である上杉家に任せておくのは問題があった。
 秀吉は佐渡も接収するつもりだったが、石田三成の進言で引き続き上杉家の所領となったと言う。
 同年2月、川中島海津城城主、須田満親が海津城で死去。病死とも越後を離れることを拒み切腹したとも言われる。満親は上条政繁のあと要衝である海津城を任され、直江兼続、荻田長繁同様豊臣姓を許されるなど上杉家きっての重臣である。一説には満親は会津移封を命じられた際、景勝に「秀吉が死ぬまで仮病を使って越後に居座れ。」と進言したが容れられず、憤死したとも言う。
 秀吉は石田三成を越後、会津の現地に送り込んで兼続とともに移封を指揮させた。3月には景勝も会津に入っている。春日山城には秀吉直臣の堀秀治が30万石で入り、越後の大部分は事実上秀吉政権の直轄地となった。年貢の引継ぎに当たってトラブルがあり上杉家は堀氏から恨まれることになる。

 同年8月、豊臣秀吉死去。須田満親の眼は確かであったが時すでに遅し。直後から徳川家康は政権奪取に動き始める。


   関ヶ原の戦い

 秀吉の死後、日本軍は朝鮮から撤退したが、疲弊した譜代大名らは指揮を執っていた石田三成を深く恨んだ。実際には秀頼誕生や健康問題で侵攻への興味を維持できなかった秀吉の問題であり、上杉家移封、秀吉の死後処理、明との和平交渉、撤退の指揮など三成の働きは超人的でさえあった。安全な日本にいたと思われている三成だが実は文禄の役では渡朝、戦闘で負傷さえしていた。
 1599年(慶長4年)閏3月3日、五大老の一人、前田利家が死去すると、直後、歯止めを失った福嶋正則、加藤清正、黒田長政ら武断派が石田三成を襲撃。常陸(茨城県)水戸54万石の大名佐竹義宣の助言で脱出した三成は伏見城に入る(家康の屋敷に逃げ込んだというのは俗説)。
 水戸佐竹家の実質石高は周辺の「御親戚衆」をあわせて100万石とも言われており佐竹義宣は「五大老」に加えて「六大将」とされる実力者であった。家康は後に義宣について「佐竹義宣以上の律義者はいない。律儀すぎて(関が原では)どっちつかずになったのは残念。」と評した。
 三成は家康の仲介で諸役を辞することで武断派と和解。3月10日、佐和山城まで家康の次男結城秀康が警護して送り届けることになった。
 荻田長繁本人(?)が後に越前松平家の事柄を記した「荻田主馬助覚書」の中でこの石田三成襲撃事件の仔細や、秀康が三成から感謝のしるしとして秀吉から拝領したという名刀を贈られ「石田正宗」と名づけたという顛末が詳しく記述されている。「荻田主馬助覚書」のこれ以前の記述が割りとあっさりしていることから(文禄の役=第一次朝鮮侵攻時に秀康が備前名護屋に在陣したことについては触れてもいない。)長繁が秀康に仕えたのはこの頃から(1598〜99年ころ?)ではないかと思われる。
 結城秀康は徳川家康の次男。1574年(天正2年)生まれ。秀康は母が正室築山殿の侍女であったため築山殿の嫉妬を避けて「鬼作左」の異名を持つ本多重次の元で養育された。(妹との双子であったため当時の感覚から忌み子扱いされたと言う説もある。) 3歳のとき長男信康のはからいで初めて父家康と対面したが無視されたと言われる。1579年(天正7年)7月、兄信康は織田信長から謀反の疑いをかけられ、父家康によって切腹させられた。三男秀忠が徳川家の後継者として扱われたのとは裏腹に1854年(天正12年)秀吉の養子(実質は人質)となり、元服して羽柴秀康と名乗る。勇猛苛烈な性格で武将としての資質は誰もが認めるところであったが、秀吉に嫡子鶴松(後に2歳で夭折)が生まれると1590年(天正18年)下総(茨城県結城市)の大名結城晴朝に婿養子に出され、結城11万石をついで結城秀康となった。義父となった結城晴朝は小国ながら関東の争乱を生き抜いてきたしたたか者であり、謙信の関東進攻に対しても味方にも敵にもなっている。秀康を婿にするにあたって秀吉、家康双方によしみを通じる心積もりがあったのであろう。

 政権奪取を狙う家康はまず、前田家を継いだ前田利長に謀反の疑いをかけるが、前田家は利家未亡人芳春院(おまつの方)が人質として江戸に入ることで切り抜ける。
 次に目をつけたのは上杉家だった。会津移封後の築城、領内整備を謀反の意志ありと咎めた。讒言したのは越後移封時に恨みのあった堀秀治。
 これに対し上杉家では主戦論が台頭し、家康との和睦を図った重臣藤田信吉は出奔せざるを得なかった。1600年(慶長5年)3月13日謙信の23回忌法要が事実上の決起集会となった。5月、直江兼続は家康からの追及に対し逆に家康を糾弾、挑発する文書を送りつける。世に名高い「直江状」である。
 激怒した家康は諸将を招集。秀頼の命を受ける形で「豊臣家への謀反人」上杉景勝を討つべく6月会津に向けて進軍を開始した。7月2日、江戸城に入った家康は出撃を7月21日に決定。
 一方、石田三成は反家康勢力を結集して挙兵、7月19日伏見城攻撃を開始。家康は7月24日、下野小山(栃木県)まで進軍したがここで三成挙兵を諸将に伝え、上杉征伐の中止と反転して三成を討つ事を宣言する。各武将たちの妻子を三成が人質として押さえた事もあり、家康方につくか三成方につくかは自由である、とした。(小山評定)
 福嶋正則はじめ豊臣恩顧の将のほとんどが家康を支持。会津征伐軍はそのまま反石田三成軍となった。一説には福嶋正則らの説得に、この時期家康の客分となっていた上条政繁が一役買ったともいう。
 三成の挙兵に関してはあらかじめ直江兼続と共謀があったといわれているが証拠があるわけではない。
8月2日家康は小山を出発、江戸に向かう。(8月5日江戸城到着)直江兼続が石田三成援護のため家康を追撃するとすればこのタイミングしかないはずだが、上杉景勝は兼続の進言を退け東北での地盤固めのため最上領への攻撃を選択する。
 上杉軍による家康追撃が行われていれば日本の歴史は変わっていた、と言われる。しかし、実際にはこの時点で江戸に引き返したのは家康だけで、結城秀康率いる徳川・結城軍2万だけでなく徳川秀忠(家康三男、後の二代将軍)率いる徳川軍主力3万5千も実に8月24日まで宇都宮に在陣している。この時点で上杉軍が仕掛ければそれは「追撃戦」ではなく主力同士の「正面衝突」になったはずである。
ほとんどの武将が様子見を決め込んだ関ヶ原合戦と違い、戦意盛んな徳川、上杉直属の主軍が交戦したらどれほどの被害が出るかわからない。景勝は移封直後で前君故蒲生氏郷を慕う会津領民を掌握出来ていない。兼続の領地となった米沢にいたっては他ならぬ伊達政宗の本領である。背後から最上義光、伊達政宗の圧迫を受け、また上杉家の味方となるはずの佐竹義宣は、家康支持であった先代(父)義重の反対もあり家中をまとめきれていなかった。
 この状態で家康を追撃すれば徳川勢に打撃を与えることは出来ても、肝心の領国を失うことになる。景勝の選択は当然であった。ましてや石田三成は景勝にしてみれば本領越後を取り上げた張本人みたいなものである。危険を冒して合力するいわれはなかった。景勝の目的は天下取りではなく、最終的に越後を再度領有することであった。
 家康は江戸城に留まったまま景勝が追撃してこないことを確かめると8月24日秀忠を信濃経由で上方へ向けて出発させ、自らも9月1日出陣した。
 結城秀康は秀忠出立後も宇都宮に留まり上杉・佐竹に備えるよう命じられる。留守役を命じられたと思った秀康は憤るが、現実問題として謙信の衣鉢を継ぐ闘将上杉景勝に対抗するだけの覇気の有る徳川総大将となれば秀康しかいなかった。また、秀康の義父結城晴朝は領地を佐竹家と接し、敵とも味方ともなったことのある武将である。当然、先代佐竹義重とも親交があったと思われる。交戦するにせよ、調略するにせよ、これ以上の適任者はいなかった。
 荻田長繁は「荻田主馬助覚書」で小山評定から宇都宮在陣に多く筆を割いている。長繁も秀康旗下で在陣したようである。ほんの数年前まで上杉家馬廻衆の中核にいた長繁である。あるいはその情報目当てで会津征伐直前に雇用されたのかもしれない。
 秀康は景勝に「退屈なのでひと合戦いたしましょう。」と挑戦状を送るが景勝は「上杉家は人の留守中に戦は仕掛けません。家康殿が戻られてから・・・」と応じなかったと言う。江戸時代初期の徳川方の説話は、直江兼続を主君に反逆をそそのかした極悪人とする一方で景勝に対しては好意的である。

 1600年(慶長5年)9月15日、東西両軍は関ヶ原(岐阜県不破郡)で激突。わずか半日で東軍勝利となり、西軍は壊滅、石田三成は捕らえられ10月1日処刑された。(41歳)
 徳川主力を率いて上方へ向かった徳川秀忠は途中、信濃上田で西軍についた真田昌幸、次男信繁(幸村)を牽制するために上田城を攻めるが古豪真田昌幸に翻弄される。城攻めを断念し、進軍を再開するが悪天候で家康の使者との合流が遅れ、関ヶ原合戦に間に合わないという失態を犯す。

 三成敗戦の報が会津に伝わったのが9月29日、実に2週間後のことである。越後時代には上方の情勢は最短3日で春日山城に伝わったというから景勝、兼続にとってはまさに痛恨事であった。
 兼続は自ら殿軍を務め最上領内から撤退。途中追撃にあって一時は死を覚悟したが、前田慶次郎利益らの活躍でなんとか米沢へもどる。

 11月、結城秀康は宇都宮在陣の功績をもって越前68万石を拝領。いかに上杉軍の抑止が重要事であったかが伺える。
 関ヶ原戦後、上杉家が家康に謝罪、和睦を図った際、結城秀康に仲介を依頼している。戦前より景勝、兼続と秀康の間には親交があったようでもある。秀康が一時秀吉の養子であり、秀頼を弟とも思っていたこと。先だって石田三成とも関わりがあったことを考えれば、上杉軍への抑止であるはずの秀康が上杉・佐竹・結城連合軍に変ずる恐れも十分にあった。秀忠が宇都宮にぎりぎりまで留まったのは秀康を監視する意味もあったのかも知れない。
 戦後、三成側に味方した大名はことごとく改易、減封となった。上杉家は会津120万石から米沢30万石に、佐竹家は常陸水戸54万石から出羽久保田(秋田)21万石に減封された。上杉家御年譜には、このことに対し「武運ノ衰運今ニ於テハ驚クヘキニ非ス」とのみ記されている。
米沢移封後間もない1602年(慶長7年)兼続は亀岡大聖寺文珠堂で文芸の士27名を招いて詩歌の会を催している。大国実頼(樋口与七=兼続弟)、前田慶次郎らとともに長繁の娘を妻としたといわれる高津刑部長広も従兄の高津五郎兵衛秀景とともに出席している。この高津刑部は後に元巻館(巻町)城主、与板衆西山庄左衛門の養子となったと言う。あるいは長繁の娘を西山庄左衛門が養女にし刑部を婿に迎えたのか? その西山庄左衛門、直江家の婿に本多政重(本多正信次男)を迎える使者となった際、乱心した大国実頼に斬られ死亡している。


   越前68万石

 結城秀康は関ヶ原後、越前(福井、敦賀)68万石を拝領(実質70〜80万石とも)徳川家親藩として大大名となった。この時秀康は「松平」あるいは「徳川」の姓に復したと言われるが、自身は生涯「結城」姓で通したようである。自分を冷遇した家康への意地、次男の自分を差し置いて徳川家の跡取りとなった三男秀忠への反発があったとも言われる。
あるいは義父結城晴朝への恩義だったかもしれない。結城家の名跡は後に秀康の五男直基が継いだ。(晴朝の死後「松平」に改姓)
 実子を廃してまで秀康に賭けた結城晴朝の大博打は見事に当たったわけである。しかし、晩年晴朝の最大の望みは故郷である結城領へ戻ることであったとも言われる。

 越前家における荻田長繁の知行は「結城秀康給帳」によれば1千石。1612年(慶長17年)頃の記録と思われる「源忠直公御家中給帳」によれば1万石となっている。加増となった経緯については次のような説話がある。

長繁が御館の乱において北条景広を討ち取った経緯を記した「武辺咄聞書」第54話によれば、家康が秀康の家老である本多伊豆守冨正を召して「荻田主馬は、槍一本で上杉景勝に越後を取らせたる覚の者である。小身にて召抱えるのは秀康の不覚なり。」と語ったため、いきなり1万5千石(?)になったと言う。
 また別の説話では、長繁が知人であった「和泉守」なる人物を通じて加増を申し出ると家康は「武功のことは同じ家中にあった者の言う事が真実だ。」と言い、傍らにいた上杉入庵(上条政繁)に「荻田主馬の武功ならお主がよく知っておるだろう。」と尋ねた。入庵は、「上杉家では自分の組下であり、越中での戦では両軍が膠着した際、一騎駆にて一番槍を付けたこと。また御館の乱において北条丹後守を討ち取ったことが大手柄であり他のことはこれに比べると大したことはない。」(つまりこれ以外にも手柄がある。)と語った。家康は「これほどの功名あるものを少禄で召抱えていたのではほかの者の士気も落ちる。秀康は合点のいかぬ者だ。」と言って加増を認めたと言う。(糸魚川市史)
 いずれも加増が家康直々の沙汰であったとして語られている。だが20年も前の上杉家における武勲である。長繁をクビにした景勝への「あてつけ」としても1万石というのはいささか過分であるように思える。(徳川家旗本で1万石以上は大名扱い)小山評定から宇都宮在陣における対上杉工作であまり大っぴらには言えないような功績があったのではないか? と勘ぐりたくなる。また当時の知行は役目上の必要経費・配下の人件費込みであるから何か新たな職務を与えられたのかもしれない。
 ところで家康に話を通せる「和泉守」となれば考えられるのは「藤堂高虎」だが(1606年までは「佐渡守」)ちょっと大物すぎるような気もする。20万石の大大名であり、武功、内政、外交に優れ、外様でありながら家康がもっとも信頼、評価した武将である。秀吉の死後すかさず家康支持に転じたことや、あまりにまめな人柄のためか「おべっか大名」と揶揄されることもある。後に直江兼続の娘婿として米沢上杉家に入っていた本多政重(本多正信次男)を前田利長が加賀前田家に家老として招いた際、仲介と幕閣への根回しを引き受けている。(政隣記・加賀藩史料) なにかと手広く世話を焼く人物だったようである。

 68万石の大身となった秀康は不遇時代の鬱憤を晴らすように積極的に高名な武将を雇用する。中でもかつて佐々成正配下として越中戦線で活躍した名将久世但馬守については「家康の感状、越前68万石の拝領、久世但馬の召抱え」の三つを無上の喜びであると語ったという。また、上杉家が会津移封後に対家康戦のために雇用し、米沢減封後に解雇された武将の多くも迎え入れた。
 また11万石から68万石への転封となれば行政担当の人手も不足したはずである。この頃、かつて上杉家で長繁の同僚であり、景勝の会津移封後佐渡で奉行を務めていた大井田房仲も越前家に入っている。
越後大井田氏は上田長尾家に仕えた生粋の上田衆である。房仲の従兄弟にあたる大井田景能は長尾政景(景勝父)の死後、一時景勝の養育を担当した。
大井田監物新九郎房仲については1583年(天正11年)景勝から信州飯山に知行を与えられ、その後1589年(天正17年)の佐渡平定後、新穂城代に任命されている。会津移封後も上杉領の飛び地となった佐渡に奉行として残り2万石を差配していたといわれるから景勝の信任厚い実務派の武将だったのだろう。
 越前では4百石、けして高禄とは言えない。米沢へ同行せず、他家へ移ったのは減封となった上杉家の財政に配慮したのであろうか。越前に出仕した時期は明らかでないが、1600年11月に大久保石見守長安が佐渡接収役を務め、1603年(慶長8年)7月に佐渡奉行に就任(石見銀山奉行と兼任)しているから佐渡を退去したのはこの頃と思われる。
 
 1603年2月に征夷大将軍となった家康は1605年(慶長10年)3男秀忠に将軍職を譲り、「大御所」と称した。
 同年、家康次男である結城秀康は京都伏見城において阿国一座の歌舞伎を見物。出雲神社の踊り巫女であったとも言う阿国は独立後、佐渡に巡業。気の荒い鉱夫たちを相手に芸を磨き、資金をためた後、京都で興行を打ち、名を上げた。(佐渡巡業=ドサまわりの語源) 一説には大久保長安の後押しがあったとも。見物中、秀康は「この女は一芸をもって天下一となったが、儂はついに天下一の男(将軍)にはなれなかった。」と言って涙を流したと言う。
阿国は1607年(慶長12年)江戸城において家康、秀忠にも歌舞伎を披露。その2月20日は「歌舞伎の日」とされている。
 1607年(慶長12年)4月8日、結城秀康は34歳で病死した。梅毒であったとも言われる。(当時の化膿性感染症はみんな梅毒扱いである。)その一ヶ月前に家康四男で秀忠の同母弟である徳川忠吉も病死している。これまた梅毒であったとも言われる。秀忠は二代将軍には就任したものの、家康の後継者としての地位が盤石とは言えなかった。ライバルとも言える兄弟のあまりに都合のいい死に、秀忠による毒殺説が付きまとう事になる。
 越前家は長男松平忠直が13歳で相続した。
 
 1612年(慶長17年)越前家で騒動が起こる。久世但馬の家人の一人が起こした殺害事件に端を発して結城家以来の家臣今村掃部、清水丹後、林伊賀らと新参である久世但馬、久世派竹島周防、徳川家からの附家老である本多冨正らが対立。今村掃部らは忠直に進言して久世但馬成敗を本多冨正に命じさせた。秀康の寵愛によって新参ながら2万石を得ていた久世但馬と徳川本家に近く何かと眼障りな本多冨正の共倒れを狙ったのである。冨正は心情的には久世派であったが堂々とこの任務を受けた。久世但馬も女子供を退去させた後、家人百数十人でこれを迎え討った。
 激戦の末、久世但馬は自害、家人も残らず討ち死、自害した。但馬は人使いが荒かったと言うが、久世家臣で事前に退去したものは一人もいなかったと言う。勇将久世但馬は死に花を咲かせたのである。
 さすがに徳川親藩での騒動とあって幕府が介入。関係者を連行して審議した結果、本多冨正にはお構いなし、今村掃部、清水丹後、林伊賀らは他家にお預けとなった。
 本多冨正は幼少の頃、秀康を養育した「鬼作左」本多重次の次男で秀康股肱の家臣である。最初は長兄である本多成重が家老を勤めていたが、相続のために実家にもどり弟冨正と交代したと言う。有名な「一筆啓上火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ。」と言う重次の手紙のお仙(仙千代)は成重のこと。幕府が徳川家直臣の直系である本多に味方するのは自明のことである。
 竹島周防も無罪となったが、罪人扱いで連行されたことを恥として切腹した。

 この騒動に荻田主馬長繁の名は出てこない。前述のように家康やその周辺の人物となじみのあった長繁は、江戸、駿府に詰めていて越前にはいなかったのであろうか。あるいは生前の秀康が京都の伏見城番を勤めていたこともあり、上方に駐在していたのかもしれない。「結城秀康給帳」では長繁の縁者と思われる「荻田助市」なる人物が3百石取りで伏見御供番衆・大小姓を務めている。(あるいはあの長繁長男か?)

 騒動はあったものの二代目松平忠直の治世は順調であった。本多成重、冨正兄弟が家老として支えたためか、地元では新田開発を進めた名君であったとも言われる。


   大坂の陣

 1614年(慶長19年)方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川幕府と豊臣家の対立が激化。大坂勢が浪人を集めていることを知った徳川秀忠は大御所家康に、各地に関所を設けて浪人を足止めすることを進言する。家康は「その必要はないだろう。景勝どのに聞いてみろ。」と答えた。秀忠が景勝に尋ねると「浪人衆などというものは少数であればもとより恐れることはなく、逆に数が多くなればそれは烏合の衆であり、軍勢の足を引っ張るばかりでこれまた恐れる必要はない。」と答えたと言う。
この時期の徳川家と上杉家の関係はおおむね良好であったようである。直江兼続が本多正信の次男政重を娘婿に迎えるなど積極的に融和政策を図った事が功を奏したのであろう。すでに幕府を興し、正統の政権となった徳川家にとって秩序の維持を第一義とする景勝の性格は都合が良かった。東北における伊達政宗への牽制もあったかもしれない。
 唯一、家康の誤算となったのが真田信繁(幸村)である。関ヶ原後、真田昌幸、次男信繁親子は高野山九度山(和歌山県)に配流となっていた。大坂方の招きに応じて信繁は九度山を脱出。大坂城に入った。知らせを聞いた家康は狼狽し「父親(昌幸)のほうか? 息子のほうか? 」と聞き返したと言う。真田昌幸は三年も前に世を去っていた。
 真田といえば反徳川と思われがちであるが、実は真田家の正統は昌幸の長男信之が継いでおり、本領信州上田から松代《まつしろ》へ移されたものの幕末まで徳川大名として続いている。特に家康は徳川四天王本多忠勝の娘をいったん養女とした上で信之に嫁がせている。形の上では真田信之は家康の娘婿である。関ヶ原合戦の際、信之は家康の信頼にこたえ父昌幸と決別し徳川勢に味方、名も「信幸」から「信之」に改めたと言う。昌幸、信繁親子が助命されたのも信之に対する家康の好意からだった。もっとも関ヶ原遅参という恥をかかされた秀忠の恨みは深かったらしい。
 10月、大阪側では徳川融和派であった片桐且元が主戦派に追われ大坂城を退去した。大阪城にいた上杉入庵(上条政繁)も一緒に退去したと言う。10月23日、京都に入った家康は二条城に入城。翌日、片桐且元、藤堂高虎を呼び戦略を説明した。また、この頃かと思われるが、諸将列席の中、上杉入庵を召して上杉謙信の軍法について質問した。武辺話聞書によれば、入庵は小柄であったがその語りは「大音にて口上爽やか、立て板に水を流すがごとく」であり大名諸将これに聞き入ったと言う。
 11月、ついに家康は豊臣家を討つべく大坂に出陣した。越前家松平忠直、米沢上杉家、秋田佐竹家も参陣した。荻田長繁は再び上杉勢と友軍となった。この時期、大坂城には全国から浪人衆が集まり豊臣勢の主力となった。
本来、豊臣秀頼を支えるはずの秀吉子飼いの大名たちは全く参陣しなかったのである。
 11月大坂冬の陣開戦。上杉勢は武門の家の意地を見せた。佐竹家家老渋江内膳政光が狙撃により戦死。混乱した佐竹軍を救援して大坂方と激戦を展開。(今福・鴫野の戦い)その戦いぶりと軍規の厳しさで「謙信公以来の弓矢の戦、いまだ衰えず。」と評判をとる。
 一方、越前家は経験不足を露呈。12月4日、戦功を焦って命令も無いまま真田信繁の築いた「真田出丸」に攻めかかった。他家の軍勢と連携が取れていないため友軍の撤退の障害になり、自軍自身も下がることが出来ず真田勢に攻めまくられる。討ち取られた将兵は四百余騎、雑兵数知れず。
 松平忠直はまだ二十歳、家老本多も文治の人であり実戦経験は少ない。秀康によって召抱えられた長繁ら諸士も所詮、兵卒としては豪傑であっても一軍を率いる器量はない。まさにこの時、指揮を執るべきであった久世但馬はすでにこの世に無かった。忠直はふがいない戦いぶりと軍令違反を咎められ家康の叱責を受ける。
 この時、加賀前田家も真田出丸で大損害を受けている。率いていたのは上杉家から前田家に迎えられた本多政重である。
 家康は戦術を転換、大筒による砲撃で威嚇し和平交渉に持ち込む。徳川方が外堀を、二の丸を大坂方が埋めることで和睦するが徳川方は一気に二の丸まで埋め立ててしまう。大坂方の抗議に対し「手間取っておられるようなので助力した。」「現場との連絡ミス」とうそぶいた。

 翌1615年(慶長20年)4月、大坂城内の浪人衆の不穏な動きを口実として徳川勢は再び大坂城を攻めた。大坂夏の陣である。堀を失い、籠城策をあきらめた大坂方は各所で激戦を展開。
 終盤となった5月6日道明寺口の戦いで伊達家の軍勢が劣勢となった際、越前家は軍令が無いことを理由に救援せず、家康の怒りを買う。冬の陣で軍令違反を咎められたことが足かせとなったのである。「昼寝でもしていたのか! 」「明日は越前兵の配置場所はない。」と罵倒される。
 追い詰められた忠直は抜け駆けを決意。5月7日未明より進撃を開始。1万5千の兵を率いて前進。茶臼山で真田信繁隊と激突する。もとより真田隊はすでに決死の覚悟である。死兵対死兵の激突は凄まじい激戦となった。越前勢は大坂城内へ乱入。各所に火を放ち敵の首級3千7百を挙げた。
 「掛カレ掛カレノ越前衆、タンダ掛カレノ越前衆、命知ラズノツマ黒ノ旗」と言う囃子歌が上方で流行したという。
 一方、真田勢も乱戦を縫って一部が徳川本隊に突入。家康の本陣にせまった。すでに徳川方の勝利は疑いようが無く、ましてや本陣に敵が迫るなどとはまったくの想定外である。徳川勢は大混乱となった。すでに戦勝気分の徳川本隊に決死の兵が更に死戦を越えて乱入したのである。かつて精強と言われた三河武士だが関ヶ原以降実戦を経験しておらず、官僚・役人化が進んでいたのであろう。家康の警護も忘れて逃げ惑ったと言う。家康はわずかな供回りとともに逃走。途中自害まで覚悟したと言われる。
 「真田、日本一の兵《つわもの》」と面目を上げた真田幸村であったが多勢に無勢。真田勢は徐々に数を減らし、幸村自身も負傷し疲労困憊で治療を受けていたところを越前衆西尾宗次に討ち取られた。
 荻田長繁も越前衆として戦闘に参加。この時54歳。上杉家馬廻衆として御館の乱、越中戦線、新発田の乱、佐渡進攻、小田原攻めを経験した長繁は戦国最盛期最後の世代であり、実戦経験豊富、筋金入りのいくさ人である。大坂城内に侵入、放火し武功をあげた。この時、嫡男も行動を共にしていたという。この嫡男が、1594年秀吉の前で椀を取り落とした長男であれば35〜36歳。後に高田藩家老となり38歳で死んだとされる次男?であれば18歳であるからどちらともとれる。
 大坂城はついに落城、豊臣秀頼、淀君も自害して果てた。以降250年の徳川政権を決定づける戦いであったが、秀吉以前、戦国の最盛期を生き抜いた旧世代の武将にとってはいささか物足りない戦いであったようである。「子供の飛礫《つぶて》うちのようなもの」とは、冬の陣で徳川秀忠から感状をもらった水原親憲(上杉家老臣)の言葉である。鉄砲、大筒が主体の戦いはかつて槍、刀で肉弾戦を展開した戦国武将にとって武の時代の終焉を実感させたのかも知れない。
 真田勢の猛攻から逃れ、勝利を得た家康は真田の陣があった茶臼山に一時本陣を移した。その際、上杉入庵が戦勝祝いに訪れると家康は入庵の手を取って「入庵。また勝った。」とご機嫌であったと言う。

 豊臣家打倒の宿願を果たした家康は京都二条城において大坂の陣の論功行賞を行なった。荻田長繁は再び家康から表彰を受け、「辻が花染めの小袖」、「盃」を拝領し5千石の加増を受けている。この「小袖」は大御所家康公が(儀礼的に)肌着として袖を通したものである。家康が死後、「神君」と讃えられる様になるととんでもなく貴重なものになる。
「盃」には水流紋と「水葵《みずあおい》」、「沢潟《おもだか》」が描かれている。いずれも水辺の草である。「葵」は言わずと知れた徳川家の家紋。荻田家の家紋は不明だが、直接の家臣で同郷近江の出身である小川与左衛門家は「沢潟」を用いている。おそらく荻田家も沢潟紋を用いていたのであろう。この時荻田長繁だけが特別扱いを受けたとは考えにくい。おそらく表彰を受けたすべての武将に同様に徳川家とのよしみを強調する意匠が用意されたのだろう。宿敵豊臣家を滅ぼして、なおこの心遣い。家康の人柄、あるいは命がけの武功に報いる武家の気風といったものが感じられる。
 この「葵梶葉文染分辻が花染小袖」「黒漆沈金葵沢瀉流水文盃」は川崎市の明長寺に現存しており、小袖は国の重要文化財に指定されている。

 松平忠直にはこの時、大名物「初花肩衝の茶入」を拝領、その他の恩賞・加増については後日行なうとされた。
だが、大坂の陣自体が治安行動とも言うべき局地戦である。しかも参戦した大坂方の大部分が浪人衆では恩賞として分配する領土が拡大したわけではない。結局、加増は行なわれなかった。
 家康の六男でこの時、越後高田藩主であった松平忠輝は大坂の陣で怠慢と軍規違反を咎められ家康から勘当扱いとなった。陣中において忠輝の軍勢と秀忠の旗本との間にトラブルがあったためと言う。
松平忠輝は1610年(慶長15年)越後領主となり1614年(慶長19年)高田城を築城した。余談だが、犬伏城のあった松代《まつだい》村はもともと松平《まつだいら》村といったが忠輝が入封した際、殿様と同じでは畏れ多いとして改名したのだと言う。
翌1616年(元和2年)4月徳川家康死去。腹心であった本多正信も6月死去した。
 名実ともに幕府の長となった二代将軍秀忠は弟忠輝を改易、配流とした。一説には家老であった大久保長安(1613年没)、正妻いろは姫の父伊達政宗、さらにキリシタン勢力と謀って秀忠追い落としの陰謀があったとも。
 越後高田には忠直の弟、忠昌が1618年(元和4年)25万石で入っている。

1619年(元和5年)12月、直江兼続が江戸で死去。60歳
1623年(元和9年)3月、上杉景勝死去。69歳

 戦国時代の雄は相次いで世を去り後に「元和偃武」とよばれる時代となった。


     再び越後へ

 家康の死後、秀忠政権下で越前家の地位は相対的に低下し、大坂の陣での恩賞が無かったこともあって、忠直は不満を募らせ乱行に走るようになったとされる。参勤交代を怠り、家中で残虐な行いがあったと言われる。だが、実際には乱行説が語られるのは死後50年もたった1700年以降のことである。参勤交代の途中で幕府に説明なしに引き返したこと、わがままな性格であったことは事実のようだが乱行説の内容は、のちの徳川忠長(家光の弟)遡れば豊臣秀次(殺生関白)武田信虎(信玄の父、信玄によって甲斐を追放)、武烈天皇(大悪天皇)でも語られたものと同じ内容で信用できるものではない。(妊婦の腹を裂いて云々と言うもの)
 1623年(元和9年)ついに幕府は忠直を処分、豊後(大分)へ配流となった。真相については諸説ある。
 前年に切腹となった本多正純(本多正信長男)が諸大名(前田・伊達・最上・島津・細川・加藤ら)と謀って秀忠を排し忠直を将軍に迎えようとした、というもの。(いわゆる宇都宮釣天井事件である。)イギリス、オランダの商館が本国に送った手紙にこの噂が書かれている。また後に新井白石もこの噂に触れている。あまりに重大事なので処分を徳川内部に限定し事実を隠蔽したと言うのである。
また忠直自身がキリシタンだったため風聞をはばかった幕府に処分されたという説。現実的なところでは正妻の勝姫(秀忠の娘)と不仲であり、勝姫が自分の子光長に家督を継がせるため讒言したという説。
 いずれにしても豊後に流された忠直は5千石という賄扶持を与えられ悠々自適、1650年(慶安3年)56歳で死去するまで民衆に交わって「一伯さん」と呼ばれ親しまれたと言うから、残虐乱行説とはかけ離れている。

 越前松平家は、忠直の長男光長が相続する。しかし光長はまだ10歳。しかも母勝姫ともども江戸に在住し、到底越前で加賀前田家に対抗する力量は無かった。そこで幕府は1624年(寛永元年)、越後高田25万石の藩主となっていた松平忠昌(秀康次男、忠直同母弟)を越前50万石に、光長を越後高田へと国替えを命じた。
越前松平家の跡継ぎが光長から忠昌に代わった、ということではない。忠昌は常陸下妻3万石、信濃松代《まつしろ》12万石、越後高田25万石を経ての転封であり、その家臣団はすでに越前家の分家の域を超えて独自のものとなっていた。
「越前松平家」は越後高田へ、「忠昌の松平家」は越前に引越しである。50万石と25万石の引越しとなればその混乱は想像を絶する。越前北ノ庄に入った忠昌は北ノ庄を「福居」(後に福井)に改称。福井藩の初代となった。家老本多冨正、本多成重は越前に残り忠昌の補佐を務めることに。隠居していた大井田監物房仲は忠昌に召しだされ、加増の上政務に復帰したと言う。
 その後、松平忠昌は藩政に手腕を発揮。度重なる地震、洪水など天災に耐えて福井藩を発展させた。

 一方、松平光長は幼少であり江戸在住のため、国替えも、68万石から25万石への減封も数字上のことでしかなかった。光長が初めて越後にお国入りするのは10年後、1634年(寛永11年)のことである。
家老を務めていた本多兄弟が越前に残ったため、新たに高田藩家老となったのは小栗正高と、長繁の摘子荻田隼人?(名不明)である。長繁はすでに隠居の身であったというが、息子に従って越後に移住、糸魚川城に入った。この糸魚川城は堀氏が築城したもので清崎城とも言われる。今の糸魚川市役所付近に築城されたもので、遺構が発掘、調査されている。上杉時代の糸魚川城との関係は不明。
 荻田長繁が上杉家を追放され、越後を離れてから実に30年が過ぎていた。

 隠居していたと言われる長繁だがこの時期に荻田主馬名義で発行された公文書が残っていることから、政務に復帰していた可能性がある。元上杉家家臣の豪傑としてネームバリューがあり、越後に縁故もある長繁がのんびり隠居していられる事態ではなかったろう。一時的に家老職にあったという可能性もある。
移封は順調に進んだようで、その後10年近く史料には目立った事件は無い。
 1634年(寛永11年)領主松平光長が初めてお国入り。光長はその後も主に江戸に在住。中央の政治には関与する一方、高田藩主としての存在感はほとんど無い。
翌1635年(寛永12年)次席家老である荻田隼人が急死、38歳。長繁74歳の時である。家老職はその子荻田隼人(同じ名乗り、名は不明)が継いだという。生年は不明だが父隼人の38歳という年齢からして若輩であったと思われる。一時的に長繁が補佐を務める事態であったかも知れない。
 主席家老小栗正高、次席家老荻田隼人のコンビはこの後約30年にわたって越後高田藩の藩政を担当する。

 1641年(寛永18年)荻田主馬孫十郎長繁、糸魚川にて死去。享年80歳
 1643年(寛永20年)上杉入庵死去、99歳
 すでに三代将軍家光の時代であった。


   その後

 長繁死後の高田藩について述べる。
主席家老高田城代小栗正高を、次席家老糸魚川城代荻田隼人が補佐するという形で高田藩の藩政は非常に良好であった。江戸における主君光長とその母勝姫の浪費という悩みの種はあったものの、新田開発や、上田銀山の再開発などで高田藩25万石の実質石高は36万石にも及んだと言われる。
 事態が暗転したのは1665年(寛文5年)12月。高田を大地震が襲った。高田城は倒壊。崩れ落ちた天守閣の下敷になって小栗正高、荻田隼人の両家老は圧死してしまう。この難局に跡を継いだのはそれぞれの嫡子、小栗美作正矩と荻田主馬本繁(正幸とも)である。
 小栗美作は大老酒井忠清と交渉、幕府から5万両の融資を受け、高田城本丸を再建。市街の区画整理を行なって現在の高田の元となる町並みを復興した。
 一方、荻田主馬は三ノ丸の再建に失敗し美作の助力を仰ぐなど、両者の力量にはかなりはっきりした差があったようである。
 小栗美作はその後も藩政改革を推し進め、藩士の報酬を知行制(領地を与える出来高制)から、蔵米制(給与制)に変更。用水の整備、新田開発、商業作物(タバコ)の奨励、銀山開発などで藩財政を再建。高田藩の実質石高は再び40万石に達したとも言われる。
 しかし、蔵米制への移行によって大幅減収となった藩士たちの不満は大きく、保守派勢力の改革への反感は徐々に高まっていった。
 1674年(延宝2年)光長の嫡子、綱賢が死去(42歳)。男子が無かったためあらたに世継を立てることとなった。忠直は配流先の豊後で二男一女を儲けており、その子等は高田に引き取られ永見姓を名乗っていた。永見長頼、永見長良(大蔵)兄弟と異母妹のお勘である。長頼(1667年既に死去)の子永見万徳丸(15歳、光長の甥に当たる)が世継となり、松平綱国を名乗った。
 この時、小栗美作はお勘を妻としていたことから美作とお勘の子、小栗大六(やはり光長の甥になる)を世継にしようとしていると疑惑を持たれる。反発した藩士たちが美作を糾弾。騒動となる。反美作派は「お為方」を自称し、美作派を「逆意方」と呼んで自らの正義をアピールした。
 お為方の永見大蔵長良、荻田主馬本繁、岡島壱岐らは幕府を巻き込んで政治工作を行い、美作追い落としを図る。世継決定後も美作が高田に火を放とうとしている、などとして騒ぎをおこした。大老酒井忠清ら幕閣は事態沈静に務めたがお為方は仲裁を無視して騒動を拡大。ついに1679年(延宝7年)10月怒った幕府はお為方を処分。主要メンバーを他家に「お預け」との処分を下す。荻田主馬も松江藩お預けとなった。
 一方、小栗美作はその後も家老職を続け、小栗大六も1680年(延宝8年)2月、将軍(四代家綱)に謁見するなど、美作派の勝利によって騒動も収束するかに見えた。同年5月将軍家綱が死去。五代将軍に綱吉(家綱弟、家光4男)が就任すると事態は急変する。
 大老酒井忠清は綱吉の将軍就任には反対であった。一説には母親(桂昌院)の出自が低いことを嫌ったためとも。
 酒井忠清は皇族から有栖川幸仁親王を迎え将軍に就任させる案を提示。幸仁親王は皇族へ嫁いだ松平光長の同母妹、亀子の孫に当たる。結城秀康の子松平忠直、徳川秀忠の子勝姫、忠直と勝姫の子亀子という血縁である。神君家康の次男秀康、三男秀忠の血を引き、さらに天皇の血統である皇族を将軍に迎えることで幕府の神格化を図ろうとしたのであろうか? 
 幕府、徳川宗家のあり方そのものを変えてしまいかねない計画であり、他の幕閣の反対にあって、五代将軍綱吉の就任が決まる。この時、松平光長は血縁もあって酒井忠清のプランに同調した。
 将軍に就任した綱吉は報復人事に着手。酒井忠清は病気を理由に大老職を解任され隠居。綱吉はさらなる報復の機会をうかがっていたが、翌1681年(延宝9年)5月、忠清は病没した。6月、高田での騒乱が収まらないことを理由に綱吉は改めて詮議を行なった。
 結果は苛烈なもので、逆意方小栗美作とその子大六は切腹。お為方永見大蔵と荻田主馬は「喧嘩両成敗」として八丈島へ流罪。岡島壱岐らも三宅島へ流罪など。松平光長は責任を問われ改易、松山藩へお預けとなり越後高田松平藩はお取り潰しとなったのである。越後高田は幕府天領となった。(1685年、稲葉正往が藩主として入封)

 八丈島に流された荻田主馬、永見大蔵はそれなりの待遇を受けていたようである。だが、1701年(元 年)八丈島大飢饉が発生。島民の大半が餓死したといわれるこの飢饉によって、永見大蔵は手元に千両箱を置きながら食料の調達ができず餓死。荻田主馬も数日後、餓死したと伝えられる。

 荻田主馬の子、民部、久米ノ助らはその後放免となり、士分を失って川崎大師河原村に移り住んだ。生活は貧しかったらしく、1748年(延享4年)数十年後の子孫、荻田幸之助は長繁が大坂の陣で家康から拝領した小袖・盃(葵梶葉文染分辻が花染小袖・黒漆沈金葵沢瀉流水文盃)及び7通の書状を川崎の明長寺《みょうちょうじ》に預託している。家宝の保管すら重荷になったのであろう。7通の書状とは次のもの。

天正5年2月17日、上杉謙信一字状 1通
天正6年7月28日、9月1日、天正7年2月3日付上杉景勝感状 3通
天正16年9月1日、従五位下及び主馬允に叙任する口宣案 2通
元和元年9月5日、大坂の陣後、越前に知行を加増する証書 1通

 光長改易後、高田藩士には接収役の到着後三十日以内に退去するよう命令が出され、職、住居を失った大量の浪人が発生した。大半が百姓となったと言うが、それだけの人数を受け入れる土地があったとは思えない。浪士の生活は困窮を極めたはずである。(農業、漁業、職人、狩猟、土木作業、販売、何でもやるから「百姓」で単純に農民を指したわけではない。)

 糸魚川城も破却(取り壊し)された。越後へ荻田家初代与五郎とともに移住し主馬本繁の下で糸魚川町奉行を勤めるなど、一貫して荻田家に仕えてきた小川与左衛門一門も主を失って浪人した。旧青海町今井村須沢のあたりに移り住み百姓になったと言う。
 筆者のご先祖様である。
             了





参考ホームページ

播磨屋.com   http://www.harimaya.com/
菊池真一研究室   http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/
かわさきの文化財 川崎市教育委員会  http://www.city.kawasaki.jp/88/88bunka/home/top/ptop1.htm
「温故知新」川崎ロータリークラブ http://www.kawasaki-rc.com/onko/onko.html
武将系譜辞典   http://www.geocities.jp/kawabemasatake/
芝蘭堂   http://homepage1.nifty.com/sira/
富山市教育委員会 埋蔵文化財センター http://homepage2.nifty.com/kitadai/center.htm
小千谷真人町オフィシャルホームページ http://www2.ocn.ne.jp/~matto1/enkaku.html
おぢやファンクラブ  http://www.ojiyafan.com/mukashi/backnumber13.html

参考資料

越佐資料 高橋義彦 編
上杉家年譜 米沢温故会編
上杉氏の研究 戦国大名論集9 阿部洋輔 編
上杉氏家臣、荻田長繁の口宣案 戦国史研究25 下村效
上杉軍記(春日山日記改題)千秋社 刊
直江兼続のすべて
上杉景勝のすべて 花ケ崎盛明 編
小千谷の伝説 五十嵐秀太郎 著
甲越信戦録 岡澤由往 訳
荻田主馬亮覚書 内閣文庫(国立公文書館)
糸魚川市史
上越市史
資料集高田の家臣団 上越市史叢書5
福井市史


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