*注意 この文章は、参考とした資料の歴史的信憑性について十分な考察を行なっておりません。 また、その取捨選択は作者の好みによるもので、主観、想像を多く含みます。 本文はあくまで「小説」であり、学術的な意味はありません。
越後荻田家の始まり
越後荻田氏の初代、荻田与五郎は近江(滋賀)から流れてきた浪人であったという。 与五郎の父荻田与三郎は江州(近江=滋賀県)荻田の庄の郷士であったが、1493年(明応2年)から佐々木一族京極家の執権上坂泰貞に仕え、水練の達人として武功を重ね1501年(文亀元年)には愛知《えち》郡 川南《かわみなみ》に領地を与えられ隼人正貞を名乗った。1516年(永正13年)3月、上坂泰貞が死去するとその子、信光(泰舜)に仕えた。同年8月、京極家の跡目争いに端を発した浅井新三郎亮政ら国人衆との対立の中で上坂信光ともども落命。15歳であった与五郎は父の仇を討って越後へ脱出したとされている。(北越風土記) このとき愛知郡に隣接する神崎郡小川村出身の小川与左衛門はじめ四人の郎党が従ったと言う。
近年の研究では実際に対立が始まったのが1517年(永正14年)ころ。しかも信光はまだ存命している。浅井亮政が上坂、今浜両城を乗っ取り上坂信光と京極高清・高慶父子を国外に追放したのが1523年(大永3年)といわれている。 近江を出奔した与五郎は越後能生谷小見村の龍光寺に身を寄せた。越後は青苧(麻の一種)を原料とした越後上布の産地であり敦賀湾、琵琶湖経由で近江、京への商業ルートが出来ていたと思われる。与五郎はこのルートをたどって越後に逃れたとも考えられる。
その後荻田与五郎は越後守護代長尾為景(謙信父)に仕えることになる。 「魚津古今記」には1505年(永正2年)長尾為景が越中に侵攻「長尾ノ侍荻田監物ハ魚津城主鈴木大和守国重ヲ討トリ・・・」とある。魚津古今記は成立が1770年頃と新しく、史料的な正確さを欠いている。江戸時代の書物によく見られるように長尾能景(謙信祖父)と為景の行跡を混同しているなど、誤りも多い。魚津古今記の記述が1520年(永正17年)の為景による越中侵攻を混同したものであれば、城主を討ち取った「荻田監物」とは与五郎のことを指しているのかもしれない。
為景の春日山城府中長尾家は、その後も越後統一を目指し、越後守護職上杉氏や関東上杉氏、越後国人衆、越中一向一揆、さらには同族である坂戸城上田長尾家(上杉景勝実家)、栖吉城古志長尾家(謙信の母、虎御前実家)らと複雑な抗争と連帯を繰り返すことになる。府中長尾家の家督は為景からその子晴景、さらに確執の末、弟の景虎(後の上杉謙信)へと移り、1550〜1551年(天文19〜20年)坂戸城主長尾政景の反乱と降服によって一応の越後平定はなった。 一生を戦乱の中で過ごしたであろう荻田与五郎は1552年(天文21年)糸魚川にて50歳で死んだという。
武田晴信(信玄)に信濃を追われた村上義清の要請により、川中島での甲斐武田氏との抗争が始まる前年のことである。
上杉謙信の時代
荻田家菩提寺であった龍光寺には荻田三代の墓が残っている。初代が与五郎、二代が荻田孫十郎長繁、三代が荻田隼人となっている。 「北越風土記」には与五郎が1552年(天文21年)に死んだとき長繁は2歳で主に母親に養育された、とあるが全然年数があっていない。与五郎の死が1552年。長繁が生まれるのが1562年である。与五郎を長繁の父とするには無理がある。もっとも三代とされている隼人が実は長繁の孫だから、ここでも間が一代抜けている。(長繁の子は38歳で長繁より先に死んだとされる。)与五郎と長繁の間にもう一代いたと考えても良いのではなかろうか。 この時期、長尾景虎(上杉謙信)配下で活動した越後荻田二代目、長繁の父と思われる武将に荻田備後守(名不明)、荻田与三左衛門がいる。活躍する時期、登場する資料が重複しないのであるいは同一人物かも知れない。米沢藩の資料「古代士籍」(新潟県史収載)によると孫十郎(長繁)の父は孫十郎(同名)。二人兄弟で長男が与三左衛門(与惣左衛門)次男が孫十郎(長繁)となっている。あるいは荻田備後守が孫十郎(父)のことか? もっともこの「古代士籍」米沢藩の公式資料であるにも関わらず、宇佐美「定行」(架空の人物)が記載されているあたり、かなり怪しい。
1559年(永禄2年)謙信は4月に二度目の上洛を果たし10月に越後に帰還した。越後、信濃の諸将や直臣たちは太刀を贈ってこれを祝った。その名簿が「御太刀之次第」であり「御馬廻年寄文之衆」に荻田の名がある。翌永禄3年、荻田備後守は、北条高広らと伊勢崎城(群馬県伊勢崎市)を攻め、さらに翌永禄4年の小田原城攻めにも荻田姓の武将が参加している。
文政年間(1818〜)に成立した「甲越信戦録」によると1561年(永禄4年)9月、世に名高い第四次川中島合戦の際、柿崎家臣萩田与三兵衛・吉田喜四郎・河田郡兵衛・坂木磯八が武田の軍師山本勘助を囲み、磯八が勘助の首を取ったとされる。 「甲越信戦録」自体はいわゆる軍記物でありほとんどフィクションである。越後勢の登場人物名も他の史料から適当に持ってきたものであろうが、これらを史料上の実在の人物に当てはめるならば、萩田与三兵衛=荻田与三左衛門、吉田喜四郎=吉江喜四郎資堅(信景)、河田郡兵衛=河田軍兵衛、坂木磯八=不明、ということになろうか。興味深いのはこのうちの三人、荻田(祖父?与五郎が近江出身)、吉江喜四郎(もと近江浪人、吉江家に養子に入る)、河田軍兵衛(河田一門は近江守山市川田町出身)といずれも近江に縁のある武将である。偶然で済ますには惜しい気もする。ちなみに三人とも上杉謙信直臣で柿崎家の家臣ではない。
荻田備後守は主に関東圏、上野(群馬)下野(栃木)あたりで活躍したと思われる武将であるが、1572年(元亀3年)大失態をおかしている。 「新田老談記」によれば、小田原北条氏の傘下で渋川相模守義勝が城主を務める小俣城(栃木県足利市)は周辺諸将と紛争を抱えていた。謙信は折を見て攻め落とすよう駐留軍や配下の関東諸将に命じていた。 城主義勝が小田原へ出向いて留守となった隙を突いて元亀3年4月(正月とも)、荻田備後守は膳城(群馬県渋川市)城主膳備中守宗次とともに小俣城を攻めた。小俣勢は総勢百五十名足らず、越後勢は数倍の大軍であったという。突然の攻撃で籠城の準備もなく開城するしかないと思われた小俣勢であったが、城代石井尊空の「われら守勢が天下無双の上杉勢を迎え討ち、華々しく討ち死にすれば主君渋川義勝の小田原での立場がよくなり、御家再興にも有利になる。」という提言に奮い立った。 上杉勢は膳備中守を先陣に攻めかかったが折りからの暴風雨で身動き出来なくなってしまう。そこへ小俣勢が丸太、大石を投げ落とし鉄砲を撃ちかけると膳備中勢は敢え無く全滅、撤退の命令も届かぬ大雨の中で上杉勢は二〜三百名の死者を出して逃げ帰った。これに対し小俣勢は死者どころか一人のけが人も出なかったと言う。 謙信の座右の銘である「死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり。」を敵である小俣勢が実行したのである。無敵のはずの上杉軍にとってまさに赤恥と言えた。 北条、武田、上杉の間を立ち回る者の多い関東諸将にあって、律儀に忠誠を守った膳宗次が戦死。さらに城主以下、主だった武将を失った膳一門は帰城した渋川義勝勢の報復攻撃にあって離散してしまった。 一方の当事者である膳宗次が戦死してしまった以上この敗戦の責任は荻田備後が負うことになったはずである。寺社への願文に自ら「短気を直して立派な人間になりたい」と書くほど怒りっぽい謙信がどれほど激怒したか想像に難くない。何らかの処分を受けたのではないか。 荻田与三左衛門については 1578年以降に名前が出てくるので後に述べる。
「春日山日記」によると1576年(天正4年)10月「荻田(荻野?)某 徳川家康への使者として三州(三河・駿河・遠江のことか?)へ赴く。下旬帰還。」大いに歓待を受け猿楽(能楽)を見物、帰りには馬を賜ったとある。 一見何の変哲もない記述だが当時の状況を見ればただ事ではない。 1571年(元亀2年)北条氏康、1573年(天正元年)武田信玄が死去。変わって織田信長が大きく台頭してきた。天正元年浅井・朝倉氏を滅ぼし、天正3年長篠の合戦で武田軍を打ち破った信長は1575年(天正3年)北陸へ侵攻。 それまで謙信と信長は一応同盟関係にあったが、1576年(天正4年)5月、謙信が加賀、越中一向一揆衆の本山である本願寺と和睦、9月に能登畠山氏の直系である上条政繁を立てて能登へ進攻すると事実上敵対関係となった。 謙信は信長の同盟者である家康とも同盟を結んでいたが、当然それにも影響があったはずである。その天正4年10月に家康の本拠に赴くのである。単なる友好使節ではない。信長と手切れになった事情を説明し、あわよくば家康を調略しようと言う意図があったかも知れない。逆に言えば使者がスパイとして斬られたとしても文句は言えまい。その使者を大いに歓待し無事に帰してよこした家康に感心したからこそ、この記述がなされたのであろう。 この「荻田某」が失地回復のため危険な任務に赴いた荻田備後であったかは知るよしもない。
御館の乱
越後荻田氏三代?となるのが荻田孫十郎長繁である。後に朝廷より任官を受けて「主馬」と名乗る。生まれは1562年(永禄5年)、第四次川中島合戦の翌年である。後に上杉家執政となる直江兼続(樋口与六)が生まれたのが1560年(永禄3年)であるから兼続より2歳年下ということになる。孫十郎がどこで少年時代を過ごしたかはわからないが、一定の年齢になれば謙信直臣の子として越後府中(上越市)春日山へ出仕したと思われる。 1564年(永禄7年)坂戸城主長尾政景が野尻池(湯沢付近)で舟遊び中、家臣の一人、下平修理亮と争って水死すると、その子喜平次顕景(後の上杉景勝)は謙信の養子となって春日山城に入った。母は謙信の姉仙桃院である。 1570年(元亀元年)には小田原北条氏との和睦で証人(人質)として春日山城に入った北条氏康の七男氏秀(当時17歳)が謙信の養子となり「三郎景虎」を名乗った。 これ以前にも能登畠山氏から人質に入った畠山義春が謙信の養子となっていたが、すでに越後の名族柏崎上条城主上杉氏の名跡を継いで「上条政繁」を名乗り独立していた。 三郎景虎も畠山義春も仙桃院の子を娶っており、景勝とは義兄弟となる。樋口与六(直江兼続)も景勝側近として春日山城に入っていたはずである。 荻田備後守が小俣城での敗戦によって(おそらく)失脚した1572年(元亀3年)孫十郎は11歳、荻田某が家康の使者にたった1576年(天正4年)には15歳である。 1577年(天正5年)2月17日、孫十郎は元服し謙信より「長」の一字を賜り、「長繁」と名乗る。(上杉謙信一字状) 長尾姓の「長」あるいは「武運長久」の「長」かと思われる。このことを見ると孫十郎の父親(備後守?)は上杉家中である程度の地位にいた(または回復していた)と思われる。 謙信はこの年9月、再び能登へ進攻、七尾城を攻略し手取川で柴田勝家率いる織田軍に圧勝。 翌1578年(天正6年)3月には関東平定を目指して春日山城下へ大軍団を召集した。しかし3月9日、厠で倒れ3月13日に死去した。3月15日葬儀の直後、喜平次景勝が春日山城実城(本丸、金蔵があった)を占拠すると三郎景虎との間で後継者をめぐる内乱に発展する。三郎景虎方は春日山城下にあった前関東管領上杉憲政の屋敷である「御館《おたて》」に本陣を置いたことから「御館の乱」と呼ばれる。 すでに軍装を整えた大軍団が準備されていたために戦線は急速に拡大。当時、京都に次ぐ日本第二の人口と繁栄を誇った春日山城下は焼け野原となった。 1578年(天正6年)6月、居田浜の戦いにおいて越後における反景勝のリーダー古志長尾家の実質当主、上杉(長尾)十郎景信が山浦国清(根知城主村上義清の子)隊に討たれ、戦死。 栖吉城(長岡市)古志長尾家は景勝の実家である坂戸城上田長尾、謙信の春日山府中長尾と並ぶ越後長尾一族の雄であり、謙信の母虎御前の実家である。十郎景信は謙信の従兄弟に当たる。早くから謙信を支持。上田長尾が謙信に降ったのちは政景とともに親戚衆として謙信政権を支えてきた。しかし謙信は政景の死後、喜平次を養子とすることで上田衆を事実上解体、併合。長尾三家のバランスは大きく崩れた。さらに謙信は景信に春日山城内の屋敷を与え上杉姓を名乗らせる。名誉職を与える反面、古志長尾家の名跡と栖吉城を腹心河田長親に相続させ、栖吉衆の併合を図った。 景信にしてみればライバル上田長尾の正統である景勝が越後国主となることをすんなり認められるはずもない。謙信の死を機に古志長尾家の勢力回復を図り、三郎景虎を支持したのである。 越後での最大の支持者景信を失った景虎は実家である北条氏、さらにその同盟者である武田家を頼ることになった。古志長尾家同様、あまりに強大化していた春日山の支配から脱却し独立性の回復を図ろうとする国人衆は景虎を支持。武田、北条の支援を受けた御館勢は優勢に戦いを進める。
この戦いのさなか、孫十郎長繁は天正6年7月28日、9月1日の二回、景勝から感状(部下の戦功を讃える感謝状のこと)をもらっている。 7月28日分については同日に出された他の武将への感状から、春日山城大場口での戦いにおけるものと思われる。 春日山籠城の功をねぎらう9月の感状では早川(糸魚川市)に知行を与えるように書かれている。もっともこの時、早川不動山城には上杉家中で猛将として知られた山本寺(上杉)定長がいたはずである。定長は謙信より三郎景虎の守り役に任じられており、当然御館方である。勝敗の行方もわからぬ戦いの最中での知行を約す感状は、初陣の若武者に対する景気づけの空手形みたいな物だったのかもしれない。 同年8月には松代《まつだい》犬伏城(十日町市)から景勝側の毛利秀広、吉益伯鰭守、荻田与三左衛門(長繁兄?)、長尾筑後守、等が妻有に出撃したとされている。 翌1579年(天正7年)2月1日、孫十郎(数えで18歳、上杉家年譜では16歳と)は三郎景虎方の北条丹後守景広(32歳)を討ち取ると言う大殊勲を上げる。
北条《きたじょう》丹後守景広(長国とも)は後に上杉二十五将の一人に数えられる勇将であり、御館に立てこもる三郎景虎方にとっては精神的な主柱でもあった。 景広の父、北条(毛利)高広は柏崎北条城城主、合わせて関東攻めの拠点、厩橋《まやばし》城(前橋城=群馬県前橋市)をも預かる実力者であったが、二度にわたって謙信を裏切った経歴を持つ。一度は武田に応じ、二度目は小田原の北条《ほうじょう》氏に寝返っている。1570年(元亀元年)の北条氏との和睦の際、上杉への帰参を許されるが、後に高広は隠居、景広が当主となった。北条《きたじょう》氏は越後毛利一族で、小田原北条氏と血縁は無い。 丹後守景広については名前に「景」の一字を持つこと、30歳過ぎまで独身であったことなどを見れば強く謙信の影響を受けていたとも考えられる。謙信のほうでも、天正5年9月の能登進攻の後、独身の景広を心配して(自分の事は棚にあげて)能登畠山義隆未亡人を嫁がせようとするなど親身に思っていたようである。二度も背いた北条高広の帰参を許したのも景広を失うのを惜しんだためかもしれない。 北条丹後守景広と謙信について「武辺咄聞書」に次のようなエピソードが載っている。
おそらく出陣前の馬揃えの時であろう。諸将が豪華絢爛、長大な旗指物(軍旗)を競う中、景広は反物一反を一尺五寸(約45cm)のたけに仕立て、墨で熊蟻を書いただけの小さく質素な旗を掲げて現れた。ミニチュアといっていいような小旗である。 これを見た謙信が「お前の指物は小さすぎる! 」と怒ると、景広曰く「私のこの小旗はどんな大指物よりもよく見えます。なぜなら、大きな指物は遠くにいる敵に見せるための物ですが、私は他の誰よりも敵陣近くに乗り付けるので。」というのである。謙信も思わず笑ってしまったのであろう。 おそらくこの頃の家中に指物の大きさを競うような風潮があったのだろう。見栄えばかり気にして大旗を掲げる武将を皮肉った悪戯であろうか。恐ろしく豪胆で、ちょっと曲がったユーモアの持ち主だったようである。なかなかの「傾寄者」である。
景広の祖父(?)北条高定は御館の乱勃発時、春日山城にあって景勝側に味方していたが、5月、三郎景虎方との関係を疑われて殺されてしまう。また父高広が一時小田原北条氏に下っていたこともあって、丹後守景広は景虎方につくこととなった。あるいは三郎景虎本人と親交があったのかも知れない。 序盤は優勢であった御館方だったが、景勝が武田勝頼と同盟を結ぶと徐々に孤立。天正6年暮れ、冬に入ると小田原勢の救援も望めなくなり、追い詰められた景虎の懇願を受けて丹後守景広は上州厩橋城から柏崎北条城へもどり、さらに御館に入った。
「武辺話聞書」によれば、1579年(天正7年)2月1日、夜毎に御館から坂戸城に宿番に出ていた北条丹後守の帰りを上条政繁配下が二段構えで待ち伏せた。自らの武勇に絶対の自信を持つ丹後守は単身、兜も着けずに現れ、待ち伏せの第一陣を蹴散らす。第二陣の孫十郎は名乗りを上げ、若輩と見て相手にせず駆け抜けようとする丹後守に追いすがり槍で突くが、景広はものともせず走りぬけ、御館にもどる。その際、門前で二度三度と馬を走らせ健在振りを見せつけた。孫十郎に同道していた大井田新九郎房仲らが、槍を検めると確かに血が着いている。「惜しいことをした、後一歩で討ち取れたのに」「門前で馬を責めたところを見れば傷は浅かったようだ」と言い合った。荻田は愛宕山の陣に戻って報告するが丹後守景広の武勇を知る諸将には「小僧ごときが丹後守に傷をつけたなどとは片腹痛い。」「大方、馬の尻でも刺したんだろう。」と相手にされなかった。ところが翌日、御館より火葬の煙が上がり、御館より帰る僧を尋問したところ北条丹後守の戦死が明らかになる。
「上杉家年譜」にもこの事件について記述がある。 雪のため府中の来迎寺で足止めされていた丹後守は積雪の減ったのを見計らって御館に向かい、途中八幡宮に参拝し一泊した。荻田孫十郎、左近司伝兵衛、三俣九兵衛ら春日山方は丹後守の御館入城を防ぐために三段四段構えで待ち伏せを仕掛けるが丹後守の武勇をよく知っているだけに一、二、三陣ともその気力、眼光に威圧されて仕掛けることが出来ない。孫十郎が名乗りを上げ後方から追いすがって槍で突くと、重傷を負った丹後守は槍を捨て刀を抜いて応戦しようとするが、傷のため「心目眩然」とし、駆け去って御館に入り、夕刻には死去したという。動揺した御館勢は脱走兵が続出、「各々落ち行く仕度のみにて軍事の沙汰は無かりけり」という有様であった。この大手柄に景勝も「御喜悦のあまり賞詞あり」という。後に加増のうえ糸魚川城将に抜擢されたとある。 「賞詞」と思われる2月3日付の景勝の感状が孫十郎の子孫に伝わっており、その中に「数度の高名(功名)神妙に候」と書かれている。上杉家年譜にも「行年十六歳、心強にして又並ぶ者無き武勇の士なり」と記されており、先に二通の感状を受けていることを見ても単に幸運や偶然だけの手柄ではなかったようである。
「上杉家年譜」に「武名も世に隠れなし」と記されているように、この手柄によって荻田孫十郎の名は諸国に伝わることになる。逆に言えば「北条丹後守景広」の武名がいかに高かったかと言う事の証明でもあろう。32歳の若さで子孫も無く敗軍の将として死んだ景広の武功の詳細は後世には伝わっていない。その戦死が世間に与えた衝撃によって間接的に知れるばかりである。「手浅ければこそ館の城の馬場にて馬をば責たりし」と「武辺話聞書」は書く。瀕死の重症であったはずの景広が命がけの虚勢を張ったのは、自分の負傷が味方、敵の士気に及ぼす影響を知ればこそであったろう。となればその死を隠しひそかに埋葬すべきものを、煙を上げて荼毘に付し、あまつさえ僧を呼んで供養した三郎景虎は士道において不覚悟と言わざるを得ない。
丹後守の戦死が伝わると景勝側は大いに意気上がり、柏崎一帯を制圧し御館への兵糧ルートを完全に遮断した。 御館の本来の主である前関東管領上杉憲政は三郎景虎の嫡男道満丸(10歳)を伴って景勝の下へ和平交渉(事実上の降服)に赴くが途中で二人とも殺害される。「彼地ニ有合侍衆、仔細ハ存ゼズ。又ハ御内證モ御座候。」 事情を知らない雑兵によって殺されたとも、景勝の内意を受けた桐沢具繁(後に柏崎琵琶島城主)に討たれたとも言われる。「管領様、若君様ヒシヒシト殺シ申シ奉ル。」(景勝一代記) 景虎は鮫ヶ尾城(妙高市-新井)まで逃れるが城主堀江宗親の寝返りにより3月24日自害して果てる(26歳)。景虎の妻(景勝の妹または姉)も御館、あるいは鮫ヶ尾城で自害したとされる。血のつながった姉妹、甥を切り捨てた景勝の非情さは人情的にはともかく、戦国武将としての覚悟は三郎景虎をはるかに凌ぐものであったと言えよう。
越後の危機
「御館の乱」に勝利し越後国主となった上杉景勝だが、内乱による国力の衰えはいかんともしがたく織田信長勢の猛攻を受ける。特に能登、越中での劣勢は明らかだった。 越中方面の総司令官河田豊前守長親は謙信の腹心中の腹心であった。武田信玄が川中島海津城に春日虎綱(高坂弾正)を配したように、もっとも敵からの調略を受けやすい最前線には最も信頼できる家臣を置くことが必須だったのであろう。 長親は魚津、松倉両城の城主であり松倉金山の差配も担当していた。もとは近江出身で、謙信が二度目の上洛の際、近江日吉神社の稚児であったものを連れ帰ったとされる。その後、謙信側近として頭角を現し、近江にいた親族もこぞって越後に移住したという。その一人、叔父(?)の河田重親は景虎方に、同じく親族の一人と思われる河田軍兵衛は景勝側についていた。 当初長親は景勝への支持をはっきりさせていなかった。名目上、栖吉城主古志長尾家の名跡を継ぎ上杉十郎景信(景虎側)を義父としていた立場もあったのかも知れない。(長尾姓を名乗るのは畏れ多いとして辞退していた。) 実際のところ越中の情勢はきびしく、織田軍を食い止めるので手一杯あり御館攻めに兵力をまわす余裕はなかった。実は9月まで病気で動けなかったとも言う。長親は10月4日には越中今泉城(富山)攻防戦の末、椎名小四郎(長尾景直)とともに月岡野で織田軍に敗退していた。 景勝は長親を味方につけるために1578年(天正6年)12月、上条政繁、吉江喜四郎、山崎秀仙、河田宗隣軒(軍兵衛のことか?)を遣わし糸魚川で会談を持ちその真意をただした。長親は景勝に忠誠を誓うが、実際に春日山まで兵を送ることはできなかった。結果として景勝を援護できなかった長親であるが、御館の乱鎮圧後も引き続き越中方面の差配を務めており景勝にも事情はわかっていたのであろう。 河田長親自身、信長から故郷近江に領地を与えるとして勧誘を受けていたが頑なに越後への忠誠(謙信への忠義であろう)を誓っていたと言う。 1581年(天正9年)3月、河田長親は景勝の出馬を仰ぎ、織田勢の越中方面司令であった佐々成政が2月28日の京都馬揃えのため留守となった隙を突いて留守役佐久間盛政・久世但馬守又兵衛が守る小出城(富山市水橋)を攻めた。 久世但馬は後に前田利家との戦いにおいて能登鳥越城を二度にわたって死守する名将で、上杉勢は数の上では圧倒的に有利だったにもかかわらず、結局攻略できず、佐々成正が帰還したため撤退。河田長親は過労・病気のためか4月、松倉城にて死去した(39歳) 越中志微によれば、天正年間(1573〜1591年)越中水橋川(富山市水橋)で河田長親が織田方佐々成正についた土肥美作政繁と交戦、撤退する河田勢の殿《しんがり》(撤退する軍の最後尾、最も危険な役目)を務めていた「荻田伝兵衛」が土肥方有沢釆女配下の舟喜治部左衛門という武士の追撃を受けている。(「舟喜治部左衛門勲功書」) 位置、年代から見て小出城攻めの際の出来事かと思われる。 この舟喜治部左衛門、後に前田家家老となった本多政重に仕えたと言う。
外敵ばかりではない。1581年(天正9年)6月、かねて御館の乱の論功行賞に不満を持っていた阿賀北(下越阿賀野川北岸地方)の雄、新発田《しばた》重家が景勝に反旗を翻した。 重家は新発田家次男で五十公野《いじみの》家に養子に入り五十公野源太治長を名乗っていた。1561年(永禄4年)北条攻めにおいて小田原城包囲から鎌倉へ引き上げる際、15歳にして殿軍を務めたという剛将である。 小田原からの撤退が決まった際、引揚げの布陣を見た治長は軍議の席で「自分はこれから小田原城に赴き北条方に寝返って出撃し、この布陣を突き破り御本陣の御館様(謙信)を討ち取って見せましょう。」と放言した。(この布陣では自分のような剛将の攻撃は防げない。)要するに自分に殿軍をやらせろとアピールしたのである。謙信はこれを採用、治長も見事期待に答え殿を守りきった。その後、同年代である北条景広とともに千葉臼井城攻めの撤退戦でも殿軍を務めるなど関東で勇名を馳せた。新発田因幡守治長として、米沢に伝わる上杉二十八将に挙げられている。 御館の乱では兄新発田尾張守長敦(同じく二十八将)とともに景勝方について武功を重ねていた。武田方との交渉でも活躍したと言う。御館の乱後1580年(天正8年)3月、兄長敦が病没すると新発田家を継いで新発田重家を名乗った。五十公野家は義弟の長沢信宗(三条道如斎)が継いだが、結果として道如斎が奉行を務めていた三条の領地を失うことになり、新発田一族全体としてはむしろ減俸という不当な扱いを受ける。(山崎秀仙の進言によると言われる) 長沢信宗は1569年(永
年)謙信が能登へ遠征した際、越中湯山城(氷見市)城代長沢光国の小姓であったものを連れ帰ったとされる。謙信の死後剃髪して道如斎と名乗る。道如斎も重家とともに挙兵した。 1580年9月25日、新発田重家、長沢信宗、河田軍兵衛らを景勝方に勧誘したとされる安田城主安田顕元(越後毛利一族)が恩賞問題で板ばさみとなり、責任を感じて切腹した。ここに至って重家は憤懣やるかたなく、1581年(天正9年)6月16日、織田方に応じてついに挙兵したのである。 さらに同年9月1日、やはり顕元の勧誘により景勝に味方した毛利秀広が春日山城で山崎専柳斎秀仙(元謙信側近、儒学者、書生から出世したと言われる。)を斬殺。居合わせた直江信綱が巻き添えで死亡し、毛利秀広本人も斬死した。秀広は河田長親から領地の約束を得ていたが長親の死後、7月になって景勝の命令で変更された。この処置に対する不満が凶行の動機であるとされている。従来、個人的な恩賞の不満から暴挙に及んだ不埒者として語られる毛利秀広であるが、前述の状況を見れば毛利一族のリーダー格であった安田顕元の悲劇に対する義憤が根底にあったのではないだろうか? この事件で死亡した直江与兵衛信綱(長尾藤九郎景孝?)は直江景綱(実綱)の娘婿で与板城(長岡市)城主であった。長く謙信の補佐を勤めた重鎮、直江大和守景綱には男子が無く、関東を追われ越後に逃れていた上野国惣社長尾氏から長尾藤九郎を婿として迎え直江家を継がせていた。(景綱本人は1577年謙信死去の前年に没) 景勝は未亡人となった直江の娘(お船の方)に自分の腹心樋口与六を娶わせ、直江家を存続させた。以後、上杉家執政となる直江兼続である。
内憂外患、1580年(天正8年)一向一揆衆の首領とも言うべき石山本願寺顕如が信長と和睦(事実上降伏)。さらに1582年(天正10年)3月11日、景勝の同盟者である武田勝頼が自刃し武田家が滅亡。上杉家は孤立無援となった。越中からは佐々成正、信濃からは森長可(信長直臣、森乱丸の兄)、関東から滝川一益、さらに会津の芦名盛隆が信長に応じ、阿賀北からは新発田重家の猛攻を受ける。 越中魚津城は織田勢に包囲され、籠城を余儀なくされた。景勝は救援に赴くが、春日山に信濃から森長可が迫ったため、果たせず越後に引き返してしまう。1582年(天正10年)6月3日、山本寺孝長(定長の弟、景長とも。御館の乱では景勝方、32歳)、中条景泰(中条家養子25歳)、吉江景資(景泰実父56歳)、吉江宗信(景資父78歳)吉江喜四郎資堅(信景、吉江家養子45歳)、竹俣義綱(59歳)ら魚津城の城将たち13名は徹底抗戦の末、名を残すため自らの耳に穴を開け、名を記した木札を針金でくくり付けた上切腹して果てたと言う。 この時城主を務めていた中条越前守与次景泰は吉江家次男。阿賀北衆中条家に養子に入り名跡を継いだ。1573年(天正元年)朝日山城(石川県)での初陣の際、興奮した景泰は命令を無視し矢玉の飛び交う最前線に飛び出した。驚いた謙信は景泰を捕らえさせると縛り上げて押し込めた。思わぬ事態に恐縮する吉江景資夫妻に謙信は「大事な子息を初陣で死なせては申し訳ないと思い捕らえたもので、罪に問うわけではないので心配しないように」と言う手紙を送っている。 上杉家への忠義を貫いて吉江一門は魚津城で全滅した。 一説には、織田方は魚津勢にいったん降服を許し、城兵が出てきたところをだまし討ちにしたという。魚津勢は降服することも出来ず憤死した。越後方はこの作戦を命令、実行した柴田勝家、佐々成正を深く恨み、後の羽柴秀吉支持の大きな理由になったと言われる 魚津落城により越中は織田勢に占領され、春日山城の命運も尽きたかに思われた。
魚津落城に先立つことわずか一日、6月2日、明智光秀は本能寺に織田信長を攻め、これを自刃させた。織田軍の布陣は崩壊し、関東、信濃から撤退。越後の危機は去り、上杉勢は反転攻勢に出る。
新発田の乱と越水の会
本能寺の変によって滅亡の危機から逃れた景勝は北信濃に侵攻、謙信時代からの念願とも言える川中島海津城を手中にした。海津城主には山浦国清を任命。 国清は根知城主信濃衆村上義清の子であるが、謙信の引き立てによって越後名族山浦上杉家の名跡をついで「山浦国清」を名乗っていた。一説には国清は実子ではなく親族から養子に入ったとも言われる。(村上氏の嫡子は別にいる。)かつて武田信玄に信濃を追われた村上氏は国清によって悲願の信濃復帰を果たしたのである。 しかし家臣屋代秀正の徳川家康内通が発覚。国清は責任を問われ解任。海津城には上条政繁が入った。 続いて景勝は新発田重家討伐に乗り出すが、謙信旗下歴戦の猛将である重家は織田の援助を失ってなお頑強であり、容易には攻め切れなかった。1582年(天正10年)からたびたび阿賀北を攻めるが成果を挙げられない。天正11年8月にも出兵したが成果のないまま10月に入り、連戦で疲弊した春日山勢は降雪を恐れ阿賀北から撤退を開始。放生橋(新発田市法正橋付近)で豪雨に遭遇。周りが泥地となった一本道で重家の追撃を受ける。水原《すいばら》城主水原右近光家、菅名綱輔、上野久兵衛らが討ち死にした。 景勝は藤田信吉らの奮戦で難を逃れ、春日山にもどった。城主を失った水原城には荻田与三左衛門を守護として残した。しかし、荻田与三左衛門は重家に内通した水原家家臣二瓶某によって刺殺されてしまう。水原城は新発田側の手に落ちた。
天正10年、明智光秀を破り、いわゆる清洲会議を経て旧織田軍の主導権を握った羽柴秀吉はやがて織田家家老柴田勝家と対立。越前柴田勝家、加賀前田利家、越中佐々成正と交戦状態となった。秀吉は勝家牽制のため越後と同盟を求め、景勝もこれに応じた。しかし新発田重家との戦闘が激化した上、関東で北条氏が復権、信濃、甲斐で徳川家康が勢力を拡大したため、越中に軍を進めることが出来ず秀吉を援護できなかった。1583年(天正11年)4月秀吉が勝家を滅ぼすと、結果として、前田利家に能登、越中の権益を明け渡すこととなってしまった。利家は織田家若党時代の恩人勝家と決別し親友秀吉に味方したのである。 この頃、景勝は糸魚川に新城を築くよう命令している。糸魚川新城は天正12年に完成。糸魚川城築城を指揮した落水城主、信濃衆秋山伊賀守定綱を城主に迎え、かわって荻田孫十郎長繁は城将として落水城(旧青海町勝山)に入った。 翌1585年(天正13年)5月ころ(?)秀吉は石田佐吉三成、木村秀俊と30名ばかりの護衛を伴って越中国境に入り、景勝との会談を求めた。越後側は会談場所を落水城に設定した。このときの落水城主は須賀修理亮盛能であった。秀吉の一行を見た須賀盛能は景勝に「あの人数なら秀吉を討ち取ることも可能」と報告するが景勝は「義にもとる、上杉家が天下の笑いものになる。」としてこれを退けた。秀吉は景勝、兼続と石田三成をまじえた4人だけで会談を行い、景勝は秀吉の招きに応じて上洛することを約したという。(事実上、秀吉に臣従) 後に関ヶ原の戦いの引き金を引く直江兼続と石田三成が初めて顔を合わせたこの会談は「越水の会」といわれる。 実際にこの会談が行われたかは史実としては疑わしいが、兼続と三成がこの時期さかんに書状を交わしていたことは事実である。もし本当に「越水の会」が行なわれたとしたら落水城将として荻田長繁もその場に居合わせたはずである。 落水城(おちみず、おちりみず、墜水城、越水城とも)は後に「勝山城」と名を変えている。城の名前が「落ち」水城ではいかにも縁起が悪い。「勝つ」山城のほうがありふれてはいるがはるかにましであろう。案外秀吉あたりの提案だったのではなかろうか。
越水の会より一年後、1586年(天正14年)5月、景勝は直江兼続を伴って上洛する。この時長繁が同行したかは不明。上洛中に事件が起こる。 前年、信州上田の真田昌幸は武田家滅亡後、徳川家康に臣従していたが本領である上田を召し上げられそうになったため、徳川家を離れ上杉家との同盟を結んだ。これにあたり証人として越後に送っていた次男、真田信繁(幸村)が景勝の上洛中、越後を出奔。上田に戻ってしまった。景勝は信繁を優遇し知行を与え人質ではなく家臣として扱っていただけにこれに激怒したと言われる。 もっともこれには裏があったようで、この頃、秀吉は家康を臣従させるためにご機嫌取りとして、徳川軍を悩ませていた真田昌幸を「表裏比興の者」(裏表のある卑怯者)と呼び、成敗しようと景勝に持ちかけている。情勢を察した昌幸が信繁に帰還命令を出したのであろう。景勝も了解済みだったのではないか。 さらに7月、かつて謙信の養子であり、景勝の義兄にあたる上条政繁が出奔した。 政繁は御館の乱後、景勝政権の重鎮であったが川中島海津城主を努めていた際、信濃政策で景勝と対立したとも、直江兼続と軋轢があったとも、また新発田重家と親しかったため疑惑を持たれたとも言われる。前年(天正13年)海津城主を須田満親と交代、「長年の功績によりすべての兵役を免除する」とされた。要するに兵権を取り上げられたわけである。また景勝が秀吉に臣従したことで出身である能登畠山氏の本領回復も不可能になった。(能登は秀吉の盟友前田利家の所領となった。) 上杉家を離れ、直接秀吉に仕えることで起死回生を図ろうとしたのかもしれない。しかし直江兼続と親交があった石田三成に妨害されて果たせなかったという。 実は荻田長繁の武勇は主に上条政繁(後に上杉入庵と名乗る)とその子孫によって伝えられた可能性が高い。長繁にとって直属の上司と言える人物であり、上杉家を離れた後々まで親交も深かったのであろうか。 この上条政繁なる人物、元は能登七尾城主畠山義綱の弟、「畠山義春」といい、人質として春日山城に入り、謙信に気に入られて景勝の姉あるいは妹を娶って謙信の養子「上杉義春」となった。その後柏崎上条城上杉氏の名跡を継いで「上条政繁」と名乗り、謙信の死後は「宜順斎」、越後出奔後家康の客分となって「上杉入庵」と名乗る。名前がたくさんある上にそのまま計算すると99歳まで生きたことになる。先の放生橋の戦を記述した資料の中には「上条政繁隊を上杉義春が救援」すると言う記述があったりして、政繁と義春は別人説。親子二代の行跡混合説などはっきりしない部分も多い。 信州海津城へ赴く際、直江兼続を自分の奉行につけてくれるよう望んだが景勝に拒否された。兼続を高く評価していたのか、それとも景勝から引き離すつもりだったのか? 政繁出奔後、怒った景勝は政繁の妻子(自分の姉妹・甥たち)を監視、座敷牢に閉じ込めたとする説もある。もっとも、憎ければ追放すればいいだけの話。当時、実子のなかった景勝は跡取り候補の甥たちを手放したくなかったのであろう。自身が謙信の甥であり、先にもう一人の甥、道満丸(三郎景虎の子)を処断していることを考えると、景勝の複雑な心境がうかがえる。後に結局、三人の甥たちは政繁のもとに引き取られる。 長男の景広は後に米沢上杉家にもどり一門衆として畠山姓を名乗ったらしい。次男、上杉長員は徳川家旗本となり高家上杉家初代となった。三男、畠山義真も幕府旗本となり畠山家を起こした。景勝はこの義真を跡取りに考えていたらしく養子にして秀吉のもとへ人質に出している。大阪、京都で大名諸将と顔つなぎをさせる心積もりがあったのだろう。 旗本となった政繁子孫は、三大将軍家光の頃興った戦国軍記ブームで上杉謙信関係の情報ソースとなったらしい。長繁のエピソードもその一つであったようだ。
一方、徳川家康がようやく秀吉への臣従を承諾したこともあって、真田昌幸は秀吉直臣として召抱えられ、信繁(幸村)は大坂城に入った。景勝は信繁に未練があったようで、「越後を無断で出奔した不実者を召抱えないように」と秀吉に書状を送っている。上杉景勝が惚れ込んだ若者を自分の家来にできたのだから秀吉はさぞいい気持だったろう。 家康の臣従により信濃方面の不安も消えた景勝は新発田重家征伐に全力を挙げる。重家の武名は京都、大坂にも届いており、景勝との和解さえなれば秀吉も臣下に置きたいと思っていたようである。だが、景勝には到底認められる話では無かった。 1586年(天正14年)7月、越後に帰った景勝は8月に出陣、さらに翌天正15年4月、8月とたびたび阿賀北に出陣して新発田勢を攻めた。5月、青蓮院尊朝親王の使者が重家に和睦を勧めるが重家はこれを拒否。すでに死を覚悟していた。 景勝はついに10月、五十公野城を攻略、道如斎は討死。10月25日には新発田城を攻めて重家を自刃させた。新発田家の諸将は残らず重家とともに討ち死にした。この時の重家は自ら先陣に立って奮戦し、いよいよ最後と見るや景勝方色部長真の陣に駆け込み「親類のよしみ、首を取って手柄にせよ。」と叫ぶと切腹して果てたという。その武勇、戦いぶりは武士の鑑として上杉家のみならず広く諸将の語り草になったと言う。
豊臣秀吉と上杉家追放
翌1588年(天正16年)景勝は再び上洛した。この時は長繁も同行している。先の上洛で景勝は朝廷より従四位下・左近衛少将の叙任を受けていたが、今回の上洛で従三位・参議兼中将に叙任。さらに 8月17日直江兼続が従五位下・山城守、 8月20日色部長真が従五位下・修理大夫、 9月1日荻田長繁が従五位下・主馬允、 12月30日須田満親が従五位下・相模守にそれぞれ叙任されている。官位の上では兼続や須田満親と同列の扱いを受けていたわけである。 この当時、戦国武将の「○○守」と言った名乗りはほとんどが「自称」であり正式のものではなかった。京都御所に上がり、朝廷より正式に官位・官名を任ずる「豊臣長繁」と記された口宣案(くぜんあん=天皇の勅命を文書化した書状、ここでは官位の任命状のこと)を賜った長繁の感激、如何ばかりであったろうか。(下村效「荻田長繁の口宣案」戦国史研究25) 小千谷市、真人《まっと》町には荻田主馬が築城し、付近を統治したという通称「主馬城」(真人城が正式名?)があり「主馬殿」なる地名が残っている。その地名から任官を受けた1588年以降の築城と考えられる。小城とはいえ「城持ち」でもあったわけである。小千谷一帯の山城からは狼煙台の跡が見つかっており、上田衆の本拠坂戸城(六日町)、直江兼続の本拠与板城(長岡)、兼続の弟与七が養子に入り小国実頼を名乗った小国郷(小国町)などを狼煙《のろし》によるネットワークで結んでいたのではないかと思われる。かつて城将を務めた勝山城も同様の性格を持っていたから、通信網の整備も馬廻衆の重要な仕事のひとつだったのだろう。魚津城落城(その前日に本能寺の変)を経験した景勝・兼続は情報伝達とそのスピードの重要性を思い知っていたはずである。
1589年(天正17年)6月、秀吉の命を受ける形で景勝は佐渡へ進攻。佐渡を実効支配していた本間一族を討伐・強制移住させ、直属の上田衆諸将を配置した。 「越後の金」=「佐渡」と思われがちであるが、実は謙信の軍資金であった黄金は第一に岩船郡朝日村高根の鳴海金山の産出であった。加えて越中松倉金山、さらに青海橋立金山、南魚沼市上田銀山、蓮華銀山も謙信の頃の開発とされている。この頃の佐渡では鶴子銀山での採掘や砂金の採集が行なわれ黄金の存在は知られていたが、本格的な鉱山開発はまだ行なわれていなかったらしい。当時すでに「日本一の大金持ち」であった上杉謙信はまだ日本最大の金山「佐渡」に手をつけていなかったのである。もし謙信が長生きして佐渡の黄金を手にしていたら、その財力は日本の歴史を変えていただろう。 慶長3年(1598年)の「伏見蔵納目録」によれば秀吉の下に納められた黄金の6割が景勝(越後)からの物であり、そのまた半分は鳴海金山産であった。佐渡平定により佐渡の金山開発は本格化するが、日本一の金山になるのは徳川家康の奉行、大久保長安の手が入ってからになる。(余談だが佐渡の「石見」姓や地名は大久保長安が石見銀山から移住者を連れてきたことによると言う。また、佐渡で能楽が盛んなのも元は武田氏に仕えた能楽師だった長安が奨励したためと言われる。)
1589年(天正17年)12月、真田昌幸との紛争を名目に、秀吉は頑なに臣従を拒んでいた小田原北条氏を討つべく総動員をかける。豊臣方は総勢20万を超える大軍勢である。1590年(天正18年)7月に小田原城が降伏するまで、上杉勢は加賀前田勢、徳川勢とともに関東の北条方の城攻略に転戦した。上杉謙信の下で父親たちが攻めた小田原城を今、秀吉の指揮の下で攻めることになった長繁たちはどのような気持ちであったろうか。
北条氏の処分は、前当主(実質的な当主)北条氏政、その弟氏照は切腹。現当主氏直と氏規(氏政弟)は高野山へ追放となった。北条氏配下の諸将も残らず追放となり小田原にとどまることは許されなかった。ただ一家、宇野光治だけは「誠に由緒深き家柄」であるとして存続を許された。 宇野家の始祖は陳延祐という中国人である。陳家は1400年も続いた公家の血筋であり、1368年元《げん》王朝が滅んだ際に日本に渡来したのである。元では大医院・礼部員外郎《れいぶいんがいろう》と言う役職にあったため「陳外郎《ちんういろう》」と名乗った。その子孫は天皇家・将軍家の典医や外交顧問を務め重用された。子孫が宇野源氏の名跡をついで宇野家となったが先祖の経緯から「外郎《ういろう》家」とも言われる。後に北条早雲に招かれて小田原に下り小田原外郎家となったのである。 外郎家には、中国の霊宝丹という丸薬の処方を基にした薬が伝わっており、これが「透頂香《とうちんこう》」または「外郎《ういろう》」と呼ばれる。またお菓子の「ういろう」も宇野家先祖の発案による物と言われる。 小田原城包囲中、秀吉は籠城する北条方の戦意をくじくため本陣となった石垣山に、側室淀君や茶頭千利休を呼び寄せ、これ見よがしに茶会、歌会を催した。4月、かつて秀吉を批判して上方から出奔し小田原北条家に身を寄せていた茶人山上宗次(利休の高弟と言われる)が利休の仲介で秀吉と面会するが、結局鼻と耳をそがれた上斬首される。
明けて1591年(天正19年)1月22日、豊臣政権の成立と繁栄を陰から支えた秀吉の弟、大和大納言豊臣秀長が病死(52歳)。この頃から秀吉の行動は戦略性を欠いたものになる。 2月22日、千利休(70歳)を切腹させる。理由については諸説ある。利休宅が上杉家屋敷の近所だったこともあって、この前後、上杉家は利休の警護を担当する。利休の弟子である細川忠興、古田織部らが利休奪還を図るのではないかと言う噂があったためである。 8月6日には秀吉の子、鶴松が3歳で夭折。(母は淀君)秀吉は以前にも側室に男子を授かったが6歳でなくしているとも言う。落胆した秀吉は12月、関白の座を甥の秀次にゆずり、太閤と呼ばれるようになる。
暴走する秀吉は翌1592年(文禄元年)朝鮮半島に侵攻する。(文禄の役)「朝鮮侵略」と言われるが、実は秀吉の目的は明(中国)の征服(唐入り)である。李氏朝鮮に対する要求は秀吉に臣従し、明国攻撃の尖兵になれと言うものであった。東のはずれの島国から家来になれ、と攻撃を受けた上に要求をのめば更に妄想としか思えない中国大陸侵略に駆り出されると言うのである。李氏朝鮮王朝はさぞ混乱しただろう。どうも秀吉は大陸を四国、九州に毛の生えた程度の物としか認識していなかった節がある。 景勝は1592年(文禄元年)3月肥前名護屋に入り、6月、秀吉の名代(名目上総司令官)として兼続とともに朝鮮に渡り釜山港から熊川城(慶尚南道鎮海市熊川洞南山にある倭城)に入った。翌文禄2年9月まで朝鮮に留まる。 戦意盛んな秀吉子飼いの武将たちと違って外様の大名たちはこの侵攻計画に冷ややかだった。徳川家康は小田原北条氏討伐後その領地、関東に転封となったため(旧領三河、甲斐、駿河三州は召上げ)その仕置き多忙を理由にほとんど参加していなかった。日本海側の港を支配していた景勝なら当然、明、朝鮮との交易も行なっていたはずで、この侵攻作戦がどれほど馬鹿々々しいものかわかっていたはずである。事実まったくやる気が無く、景勝は熊川城で連歌の会を催し、兼続はもっぱら漢書の収集に精を出した(一種の火事場泥棒とも言えるが・・・)。荻田長繁が朝鮮に渡ったかは不明である。
1593年(文禄2年)8月、秀頼が生まれると(母親はまたも淀君)秀吉は朝鮮侵攻など忘れたように名護屋から大坂にもどってしまう。9月には景勝も帰国する。 この頃の秀吉は過酷な軍役と莫大な戦費負担を諸大名に課しながら、自らは遊興に耽ることが多かった。また聚楽第屋敷を新関白秀次にゆずり、伏見城に移った際の改装など土木工事、普請も数多く行なった。兼続も伏見城総構堀普請の監督を担当している。 これらの費用負担を最終的に負うのは税を取り立てられる民衆であった。いわゆる太閤検地によって徴税は苛烈となり、その怨嗟の声は高まっていた。石川五右衛門伝説で有名な釜茹で事件は1594年8月24日のことである。処罰は本人のみならず家族、縁者にも及び、この時は五右衛門の母ら19名も磔になったと言われる。 この時期、秀吉は「御成り」と称して諸大名の屋敷を訪れることを楽しみとしていた。訪問を受ける側は贅を尽くした接待を強要されることになる。その費用は莫大であり度重なる戦役、普請で消耗した諸大名にはすこぶる評判が悪かった。(もちろん表立っては言えないが。) 1594年(文禄3年)9月26日前田利家亭訪問に続き、10月28日、聚楽第にある上杉家屋敷への「御成り」が決まった。
文禄3年定納員数目録 越後侍中定納一紙(1594年9月ころ成立)によれば荻田主馬長繁は序列27位「宰配頭」として譜代馬廻衆のトップに位置している。自分の領地(知行)と配下の軍団を持ち一種の協力者(下請け会社の社長!?)として景勝に仕える「国人衆」に対して蔵米を受け取り上杉家直属の配下(サラリーマン!?)として仕える「馬廻衆」の筆頭を務めていたわけである。 もっともこの頃、上杉家の権力は直江兼続はじめ景勝の出身である上田長尾家の譜代衆(上田衆)に集中しており、謙信の春日山府中長尾家の譜代である馬廻衆にどれほどの実権があったかはわからない。荻田家は為景、晴景、謙信と三代にわたって府中長尾家に仕えた譜代であるが、長繁個人の功績はすべて景勝のもとで上げたものである。府中長尾家譜代でありながら行動のほとんどを上田衆と同じくする長繁の立場は微妙なものがあったのではなかろうか。
10月28日、秀吉は上杉家屋敷を訪れ、歓待を受けた。直江兼続は石田三成と懇意であったから万事怠りは無かったと思われる。列席者の顔ぶれは石田三成はじめ、徳川家康・前田利家・伊達政宗・蒲生氏郷・細川忠興・佐竹義宣・長曾我部元親・結城秀康・古田織部・京極高次ら。 この頃、秀吉はおそらく小田原宇野氏から献上されたと思われる丸薬「外郎《ういろう》」(=透頂香)を愛用していた。透頂香は現代で言う「仁丹」に似た外観で朝鮮人参などサポニン生薬を含み、鎮咳、去痰、強壮、健胃などに効果がある。麝香、龍脳などの香味生薬を含むため夏場、公家が冠に挟んでおくと布地を透して良い香りが漂ったと言う。(透頂香という名の由来)フラボノイド生薬も含んでおり口臭、体臭予防効果もあった。高齢であった秀吉には手放せない薬であったろう。 服用のための白湯を献ずる役目を仰せつかったのが長繁の嫡子であった。「古代士籍」によれば名は孫十郎(祖父、父と同名)。この頃14〜15歳であろうか。幼少時より景勝の小姓、近習を務めたというから主君の覚えもよく、こういう役目をもらうからには外見もよく将来を期待されていたのであろう。しかし、この嫡子は秀吉の眼前で椀を取り落としてしまう。 「豊臣の天下に水(湯)を差した。」と非難され、「越後武士にあるまじき無作法」として景勝の怒りを受けた。「父子ともに出仕に及ばす」との処分を受ける。馬廻衆筆頭「宰配頭」荻田主馬長繁とその一門は上杉家を追放され、浪々の身となったのである。 長繁が「主馬城」を築いた小千谷真人町あたりに次のような説話が伝わっている。 荻田家の家臣団は真人町字主馬殿に館を建て付近を統治していたが、長繁が春日山城に出向いている間に急に別の任務を仰せ付けられたため、あわただしく館を放棄し一夜にして引揚げた。この時、家宝であった北条景広を討ち取った槍や景勝から賜った太刀が行方不明になってしまった、と言うものである。伝説のもとになった事態がこの長繁追放によるものだったとすれば、家宝を紛失するほどの混乱振りも説明がつく。 長繁には他に娘がおり、このとき7歳。大乗寺(春日山北の丸の?)に匿われ、後に高津刑部長広の妻になったと言う。
この処分が当時の基準で過重なものであったのか、それとも(比喩でなく)首が飛ばなかっただけましと言うものだったのかはわからない。景勝は叔父謙信に似て短気であったと言い、怒って家臣を追放することも結構あったようである。突然、景勝が前線の陣を視察に訪れた際、あせった兵士が戦盾の「外側」に身を隠したというエピソードも伝わっている。敵の弓矢鉄砲より景勝の方が恐ろしかったのである。 しかし、この場合、山上宗次、千利休、石川五右衛門、後の豊臣秀次の例のごとく秀吉の残虐さが頂点にあったことを考えれば後者であるようにも思える。またこのときの列席者を見ればむしろ寛大な処置だったのでは?とも考えられる。景勝自身が処分を行なえば、さすがに秀吉といえども他家の家臣の処罰にまで口出しは出来なかったろう。景勝からもらった3通の感状を子々孫々まで伝えているところを見れば長繁自身は景勝に対して悪感情を抱いてはいなかったようにも思える。 ところで後に越後高田藩で松平光長に仕え、家老となった長繁の嫡子(名不明)は1635年(寛永12年)38歳で父長繁より先に死んだとされる。と、なれば1598年頃の生まれであり、この時まだ生まれていない。椀を取り落としたこの嫡子はあきらかに別人である。彼がどうなったかについて何の記録もない。 上杉家重臣の嫡男として生まれ、主君からの寵愛を受け、将来を期待されていた14、5歳の少年(おそらく元服前)。たった一度のミスによって父らを巻き添えにしてすべてを失った後、彼はどこに行ったのだろう?
実は、荻田長繁の上杉家離脱については諸説あり、会津移封時、米沢減封時などの説もある。上杉家の資料には「後、出奔」としか書かれていない。 先にあげた「椀落とし説」は出所がはっきりしない上、あまりに劇的で面白すぎる。「越水の会」同様、後世作られた「お話」である可能性が高いと思っていたが、秀吉と透頂香の関連。真人町の伝説。ほかの説も単なる予想で証拠がないこと。などを考えると案外本当のことだったのかもしれない。
参考ホームページ
播磨屋.com http://www.harimaya.com/ 菊池真一研究室 http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/ かわさきの文化財 川崎市教育委員会 http://www.city.kawasaki.jp/88/88bunka/home/top/ptop1.htm 「温故知新」川崎ロータリークラブ http://www.kawasaki-rc.com/onko/onko.html 武将系譜辞典 http://www.geocities.jp/kawabemasatake/ 芝蘭堂 http://homepage1.nifty.com/sira/ 富山市教育委員会 埋蔵文化財センター http://homepage2.nifty.com/kitadai/center.htm 小千谷真人町オフィシャルホームページ http://www2.ocn.ne.jp/~matto1/enkaku.html おぢやファンクラブ http://www.ojiyafan.com/mukashi/backnumber13.html
参考資料
越佐資料 高橋義彦 編 上杉家年譜 米沢温故会編 上杉氏の研究 戦国大名論集9 阿部洋輔 編 上杉氏家臣、荻田長繁の口宣案 戦国史研究25 下村效 上杉軍記(春日山日記改題)千秋社 刊 直江兼続のすべて 上杉景勝のすべて 花ケ崎盛明 編 小千谷の伝説 五十嵐秀太郎 著 甲越信戦録 岡澤由往 訳 荻田主馬亮覚書 内閣文庫(国立公文書館) 糸魚川市史 上越市史 資料集高田の家臣団 上越市史叢書5 福井市史
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