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作品名:鍛冶屋のせがれ 少年多一 作者:羅々見 朴情

第9回   新自転車購入
手術から一週間が経った。

多一は術後の経過も良好で、とても元気である。

しかし、喉の痛みはまだ少し残っていた。
 
その為、ご飯も飲み込めないので、未だにお粥をすすって

いるのだが、そのお粥の味に多一はすっかり飽きてしまっ

た。

そこで多一はその日の朝食のお粥に、ほんのちょっとだけ

醤油をたらしてみよう、と思いついた。

多一は醤油差しを手にして、ほんのちょっぴりお粥の上に

醤油をたらしてみた。

それを見ていた祖母のゆきは

「お粥の味に飽きちゃったんだね。」

と言った。

多一は

「うん。」

とだけ答えた。

お粥から立ち上る湯気には醤油の香りも混ざっていて、それ

が多一の鼻をつく。

多一は思わず 

「ウウーン、良いにおい。」

と口走ってしまった。

それだけで食欲が湧いてくる。

多一は、

「美味しそう、でも食べられるかな。」

と、やや不安を感じながらスプーンでお粥をすくい口の中に

入れてみた。

多一はお粥を口の先でゆっくりと噛んでから飲み込もうとし

たが、その途端、ビリビリっという刺激を伴った痛みが喉全

体に広がった。

「ウゥ、沁みるぅ。 まだ駄目だぁ。」

「大丈夫かい。」

とゆきが心配そうな顔をしている。

手術から一週間が経ったとはいえ、多一の喉は醤油の持つ刺

激にはまだ耐えることはできなかった。

多一は仕方なしに、醤油がかかっていないところのお粥を食

べなければならなかった。





そして夏休みは半分終わってしまった。

その頃には多一の食事は普通食に戻っていた。

ある暑い日の朝に利隆が

「多一、喉はもう痛くないか?」

と聞いてきた。

多一は

「うん、もう痛くないよ。」

と答えた。

利隆は多一の顔を覗き込むようにして

「そうか。 じゃ、今日自転車を買いに行くぞ。」

と言った。

利隆は扁桃腺の手術をするとき約束した自転車を買って

くれるというのだ。

「えっ、本当?」

多一は元気良く答えた。

利隆は多一が元気になったことを喜んだ

「いいか、多一。 仕事が終わったら行くからな。」

「今日は何時に終わるの?」

「五時半ごろだな。 仕事が終わったらすぐに田中さんの

店に行くからな。」

「うん。」

多一は早く五時半になれば良いのにな、とその日はしょっ

ちゅう居間に掛かっている古い柱時計を見るのであった。



多一は幼稚園に入る前には補助車なしで十六インチの自転

車に乗っていた。

その後、小学校に入ってからは二十インチの自転車に乗っ

ていたが、三年生になった多一には二十インチの自転車は

もう小さすぎたのだ。

多一は三年生といっても五年生ぐらいの身長がある。

同級生たちのなかには二十四インチの自転車に乗っている

子も何人かいたので、多一はその子たちに頼んで二十四イン

チの自転車に何度か乗せてもらったことがある。

やはり二十四インチの自転車はスピードが出る。

「大きな自転車はやっぱりいいなぁ。 お父ちゃんに買っ

てもらうように言ってみようかな。」

ということで、多一は何度か利隆に新しい自転車を買って

くれるように頼み込んだことがあった。

そのたびに利隆は
「よしわかった。 チョッと待っていろ。」

という返事をするだけで、なかなか買ってくれなかった。

気前の良い利隆も、そのときは自由になるお金がなかったの

かもしれない。
 




やっと五時半になった。

今、父との約束が実現すると思うと、もう嬉しくて飛び跳ね

たい気分の多一である。

「さてと、多一の新しい自転車を買いに行くとするか。」

「うん。」

田中輪業までは歩いて五分ほどである。

油で汚れた作業服姿の利隆と一緒に並んで歩きながら

「色は何にしようかな。 スピードメーター付けてくれると

良いんだけどな。」

などと多一は考えていた。

多一はたまに町中でサイクリング車を見かけることがあるの

だが、どのサイクリング車もフレームに円筒形の携帯用空気

入れが付いていた。

それはなんともカッコ良くて、多一はずいぶん憧れたのであ

るが、そのようなサイクリング車の中にはドロップハンドル

にスピードメーターまで付けているものもあった。

携帯用空気入れもたしかにカッコ良いけれど、スピードメー

ターはそれ以上にカッコ良かった。

当時の小中学生の男の子はそのスピードメーターに強く惹き

つけられていた。

それは多一も同様であったが、スピードメーターを付けるの

はやめておこうと諦めた。

何故ならスピードメーターは値段が高いし子供には贅沢なも

のだからだ。

それにもし、新しい自転車にスピードメーターを付けたりす

れば、美紀子が怒り出すに違いない。 




そんなことを歩きながら考えていたら田中輪業についた。
 
田中輪業は東長崎駅の北側の商店街の中にあって、経営者の

田中宗太郎は利隆の同級生で親友でもある。

この店は自転車以外にもオートバイの販売や修理も手掛けて

いて、先代は永く商店街の会長を勤めていた。

元村家にある自転車は田中輪業で購入したものばかりである。

「こんばんは。」

「おや、利ちゃん、いらっしゃい。 あれ、今日は多一ちゃ

んも一緒かい。」

とこの店の経営者の田中さんが愛想良く答えてくれた。

利隆は多一に挨拶をするよう促した。

「おい、挨拶は?」

「こんにちは。」

「違うぞ。こんばんはだろ。」

あっ、そうだったと思いながら多一は

「こんばんは。」

と言い直した。

挨拶をやり直した多一に

「いいよ、いいよ、そんなことは。」

と田中はやさしく言ってくれた。

「多一ちゃん、ずいぶんと背が伸びたね。何年生になっ

たの?」

と田中が尋ねてきた。

利隆は多一に田中の質問に答えるように促した。

「何年生になったんだか答えろ。」

「三年生。」

「へえ、三年生にしちゃ、ずいぶんと大きいね。 

クラスでも後ろのほうだろ。」

「うん。 一番後ろ。」

と多一は答えた。

「へー、一番後ろなの。 そりゃ、大きいわけだ。」

と田中は少々驚いた様子であった。

「今日はせがれに、新しい自転車を買ってやろうと思っ

てよ。」

と利隆は来店の趣旨を田中に告げた。

「そうかぁ、多一ちゃん、そりゃよかったなぁ。」

「うん。」

「あれ、そういやぁ、多一ちゃん、どこか手術したとか聞

いたけど?」

「扁桃腺を取ったの。」

「えっ、扁桃腺をかい?」

田中は少々驚いたようだった。

「うん。」

と多一が答えたところで利隆が

「だからよ、今日買う自転車はご褒美さ。」

と事の仔細を説明した。

「なーるほどなぁ。 手術で頑張ったご褒美かぁ。」

と得心した田中は

「手術は痛くなかった?」

と多一に聞いてきた。

手術のときは怖くて、痛くて大泣きに泣いた多一だが、ここでそん

なことを言うわけにはいかない。

ここは一番、父親と同じように見栄を張って田中を大いに感心させ

るぐらいでなければいけないと思った。

そこで

「うん、ちょっとだけ痛かったけど・・。」

と多一は答えた。

「へえー、そうかい。 そんなには痛くなかったのかい。」

「うん。」

「ほー、今の医学ってぇのはずいぶんと進歩したんだなぁ。」

と田中は多一を褒めるより医学の進歩を褒めた。





 
「たしか多一ちゃんが乗っているのは二十インチだったよね。」

「うん。」
「だったら二十四インチかなぁ。 もう少し背が高ければ二十

六インチなんだけどな。 二十六インチはまだ早いかな?」

と田中は思案している。

利隆は

「滅多に転ぶことはないとは思うけど、両方の足をピタッと

地面に着けられるような自転車じゃないとな。」

「そうだなぁ、たしかにそのほうが間違いはないやな。」

田中もそれには納得している。

「じゃ、これなんかどうだい?」

と田中は値札が付いた一台の青い色の自転車を引っ張り出し

てきた。

とてもカッコいい自転車だ。

「ウーン、なかなかいいじゃないか。 どうだ、多一?」

「うん、これいいな。」

「他のも良く見たほうがいいぞ。」

と利隆は促した。

多一は店内にある子供用自転車を一通り見てから

「ぼくはやっぱりこれがいい。」

と言った。

「そうか。 本当にこれでいいんだな?」

と利隆は念を押した。

「うん。」

「じゃ、宗ちゃん。 これにするわ。」

田中は

「ああ、そう。 多一ちゃん、よかったね。 これはね最新

型の自転車だから、とても乗りやすいよ。」

と説明してくれた。

利隆は

「近頃ぁ、自転車も随分とよくなったなぁ。 ハンドルのクロ

メッキなんざ、じつに良い具合に仕上がってるぜ。」

と鍛冶屋職人らしい感想を口にした。

因みにクロメッキとはクロームメッキのことであるが、利隆は

どういうわけかクロメッキと呼んでいた。

田中も

「たしかに、ここ二三年で急に良くなってきたな。」

と相槌を打った。

田中はその後で

「鑑札とペダルを付けるから、ちょっと待っててね。」

と言って鑑札の書類を作り、その後薄くて黄色い金物の鑑札板

をハンドルポストに巻きつけ、最後にペダルを取り付けた。

そして、きれいな白い布で自転車全体をキュッ、キュッと磨い

たが、それによって自転車はさらに輝いた。

「はい、お待ちどうさま。」

田中のその言葉で多一は改めて新しい自転車をじっくりと見つ

めるのであった。




「じゃ、宗ちゃん、これね。 つりは取っといて。」

とよせばいいのに見栄を張りながら田中にお金を渡す利隆。

「ええ、そりゃ、まずいよ。」

「なぁに、なぁに、 いいから、取っといてくれよ。」

「えぇ、なんだか悪いなぁ。 そうかい。じゃ、すまないね。」

田中は恐縮している。

「なぁに、いいから、いいから。」

と気持ちが良さそうな利隆はその後、田中と暫く雑談をしていた。







やがて利隆は

「じゃ、そろそろ帰るとするか。」

と多一に言った。

多一は

「うん。」

と返事をして、買ってもらったばかりの自転車に照れ笑いをしな

がら跨った。

新しい自転車に乗る嬉しさと、利隆と田中に見つめられている恥

ずかしさの両方が混ざってつい笑ってしまう多一。

「どうだ、多一?」

「ウーン、えへへ。」

多一は何かを喋ろうとするのだが、とにかく嬉しくてそれが笑い

になってしまう。

利隆は多一と自転車を見つめながら

「二十四インチで良いようだな。 でも、じきに二十六インチに

乗るようになっちゃうだろうな。」

と言うのであった。




利隆は自分の息子が育ち盛りの年齢に達したことが父親として嬉

しかった。


「そうだねぇ。 多一ちゃんは大きいからなぁ、アッという間に

そうなっちゃうかもしれないな。」

田中の思いも利隆の思いと一緒であった。

「そうだなぁ、あっという間にそうなるだろうな。」

と利隆は今よりも確実に大きくなっているであろう数年後の多一

の姿を心の中で想像してみた。

「利ちゃん、楽しみだねぇ。」

「うん、でもよ、子供が大きくなればなったで色々と心配なことも

あるしなぁ。」

「そうだよなぁ、でもそればっかりは、どうすることもできないよ

な。」

「違ぇねぇ。 ところで宗ちゃん、今日は世話になったね。」

「こちらこそ有難うございました。 多一ちゃん、自動車に気を付

けるんだよ。 それから、あんまりスピード出しちゃ駄目だよ、危

ないからね。」

「うん」

多一は田中の言葉に頷いた。

「じゃ、また。」

と言って利隆は多一と共に店を出た。






これから家に着くまでの間、多一は新しい自転車に乗っている

ところを何人もの知り合いの人から見られるであろう。

そう思うと多一は気分が良かった。

さっそく豆腐屋のおじさんが利隆と多一を見るなり店の奥か

ら出てきた。

そして

「おぉ、カッコ良い自転車だねぇ。 お父ちゃんに買って

もらったの?」

と聞いてきた。

多一は照れ笑いを浮かべながら

「うん、そう。」

と気分良く答えた。

利隆の親友でもある豆腐屋のおじさんは

「そうかぁ、多一ちゃんのお父ちゃんは多一ちゃんには

甘いもんな。」

とニコニコしながら利隆と多一を見た。

利隆は

「そんなこたぁねぇよ。」

とうれしそうな顔をしている。

豆腐屋のおじさんが多一にこう聞いた

「多一ちゃん、お父ちゃんは何でも買ってくれるだろ?」

「うん、大抵は何でも買ってくれるよ。」

と答えた。

それを聞いた豆腐屋のおじさんは

「それ見ろ、聞いたか利ちゃん。 子供ってぇのは正直な

もんじゃねぇか。」

と笑いながら利隆に言うのであった。







家に着いた。 

利隆と多一は

「ただいまあ。」

と声を合わせた。

「どれ、どんな自転車だ。」

と藤蔵と芙美子が居間から出てきた。

「おお、いい自転車じゃねぇか。 カッコも良いな。」

藤蔵もこの新しい自転車を気に入ったようだった。
 
芙美子は
「あらぁ、いい色じゃない。 扁桃腺の手術を頑張った

甲斐があったね。」

と自転車の色と多一が扁桃腺の手術で頑張ったことを合

わせて褒めてくれた。

そこへ美紀子も台所からやってきて 

「へえ、いい自転車じゃない。 多一が選んだの?」

と聞いてきた。

「ううん、僕じゃなくて田中のおじさんが選んでくれたの。」

「フ―ン、そう。 ところで多一、お父ちゃんにお礼言った?」

と聞いてきた。

そういえばまだお礼は言っていなかった。
 
これはいけない、と思った多一は

「お父ちゃん、ありがとう。」

と利隆にお礼を言った。

「ああ。」

利隆は満足そうに頷いた。

そして

「今日はもう暗くなっちゃったから、乗るのは明日にしろ。」

と注意をした。

「そうよ、そうしなさい。」

叔母の芙美子も自転車に乗るのは明日にしろと言っている。

「うん。」

と素直に父と芙美子の言うことを聞く多一。

そして多一は買ってもらったばかりの自転車を慎重に玄関の

中に仕舞いこんだ。

ハンドルの端が玄関の壁に当たりはしないかと自転車の前の

ほうを見たり、後ろのほうを見たりしながら真剣になって玄

関に仕舞いこむ多一。

家族はそんな多一の姿を優しく見守るのであった。

自転車がやっと玄関に仕舞い込まれたのを見届けた美紀子は

「じゃ、あんたお風呂に入って。 お父ちゃんの次は多一だよ。」

と声をかけた。






ラジオからニュースが聴こえてくる。

元村家の居間には夕食のカレーライスの匂いが漂っている。

お膳の前で藤蔵は湯飲み茶碗を片手に夕刊を読んでいる。
 
藤蔵は酒は飲まないが、タバコは呑む。 

風呂からあがった利隆はラジオを聴きながら冷奴を肴に冷え

たビールを飲んでいる。

ゆきと美紀子は台所で夕食の支度をしている。

しばらくして、台所のほうから

「さあ、できたよ。」

という美紀子の声がした。

二階から芙美子も降りてきた。

皆がお膳についたところで、元村家の夕食が始まるのであった。 

「いただきまーす。」

育ち盛りの多一は黙々とカレーライスを食べる。

そして、三杯目のカレーライスを食べながらこう考えた。

「明日はいつもより早く起きて、新しい自転車のスピードテスト

をしよう。」

多一はそんなことを考えると楽しくて仕方がなかった。



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