多一の祖父藤蔵は明治二十八年、東京府北豊島郡巣鴨村
(現、池袋)の地主の家に六人兄妹の次男として生まれ
た。
あるとき、藤蔵の兄の幸太郎は亡き藤蔵の思い出をこう
語ったことがあった。
「小さい頃の藤蔵は泣き虫だった。」
しかし、幼い頃は泣き虫だった藤蔵も若い頃には一旗上
げようと、単身で外国に渡ったこともあった。
また晩年の藤蔵からは想像もできないのだが、若い頃の
藤蔵はなかなか「やんちゃ」であったようで、左の二の
腕には見事な昇り龍の彫り物があった。
そんな「やんちゃ」な藤蔵もあるとき、それまでの荒ん
だ暮らしぶりを振返り、
「このままでは人間が駄目になってしまう。 これから
は地道に生きよう。」
と心に決めたのであった。
それは藤蔵が何歳のときのことかは今となっては分から
ないが、生き方の軌道修正を決意した藤蔵はさっそく板
橋の鍛冶屋に弟子入りし、そこでみっちりと修業を積み、
数年後に現在の地で裸一貫で独立したのであった。
藤蔵は地主の次男として親の遺産を貰い受けても良かっ
たのであるが、敢えて鍛冶屋として一本立ちの道を選ん
だ。
藤蔵は明治生まれの職人である。
だからといって、そのような人にありがちな頑固さとか
頑迷さというものは藤蔵にはなかった。
親類の人たちからも
「藤ちゃんはとても話のわかる人だ。」
といわれていた。
親類間に揉め事が起きたときなど、よく仲裁役を乞われ
たりもしていた。
また、藤蔵は多趣味の人で若い頃は鉄砲撃ちなどもして
いた。
しかし、多一に物心が付いた頃の藤蔵の趣味はといえば、
もっぱら釣りと小鳥を飼うことであった。
釣りに行く日の前の晩など、いかにも嬉しそうに釣り道
具を揃えている藤蔵の顔を見て多一まで嬉しくなったこ
とが何度もあった。 その釣竿を藤蔵は自分で作っていたが、その出来栄えは
本職も舌を巻くほどのものであった。
藤蔵は釣竿だけでなく何でも自分で作ってしまうのであ
るが、さすがに鍛冶屋の職人だけあって物を作ることに
は長けていた。
そして、釣りに行った帰りなどには、必ず甘納豆を多一
に買ってくるのであった。
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