多一は小学校の一年生になった。
ある晴れた秋の日のことである。 その日は日曜日であったが、工場では祖父の藤蔵と
父の利隆が仕事をしている。
当時は工場も忙しかったのであろう。
「ドッシーン」という音が振動と一緒になって聞こ
えてくる。
その機械の音とは別にラジオの音も聴こえてくる。
ラジオではもうすぐ東京六大学野球の秋のリーグ戦
の実況中継が始まろうとしていた。
その日の試合は立教大学と慶応大学による優勝決定
戦であった。
当時はプロ野球以上の人気を誇った東京六大学野球
であるから、日本中がその日の優勝決定戦を注目し
ていた。
それに加えて立教大学の長島選手が学生最後の試合
となるその日の優勝決定戦で、はたしてリーグ新記
録となる八号本塁打を打てるかどうかにも大いに注
目が集まっていた。
元村家では立教大学の優勝もさることながら、むし
ろそれよりも長島選手の本塁打新記録のほうに関心
があった。
当時、元村製作所のある町には立教大学の野球部の
練習グランドと二つの合宿所があった。 練習グランドと数年前に新しく建てられた合宿所は
桜並木で有名な千川上水の南側の川べりにあり、そ
れを地元の人々は「立教グランド」と呼び町の自慢
の一つにしていた。 もう一つの合宿所は「立教グランド」から歩いて十
分ほどの住宅街の中にあった。
立教大学野球部は長島・杉浦・本屋敷選手らの活躍
でこの頃に黄金期を迎えていたが、長島選手は取り
分けて人気が高く東京六大学野球のスターであった。
祖父の藤蔵は東京六大学野球の大ファンであるが応
援するのは勿論、地元の立教大学であり、それ以上
に長島選手を熱烈に応援していた。
だから、立教大学の試合の放送があると工場のラジ
オの音は普段よりも大きくなる。 立教大学の選手がヒットを打ったときや点を取った
ときなど藤蔵と利隆は仕事の手はそのままで
「よーし、よーし。」
と力のこもった喜びを表していた。
ラジオから立教大学の応援団の歌う応援歌が流れた
りすると、藤蔵はそれと一緒になって応援歌を歌っ
ていた。
その応援歌はミッション系の学校の応援歌で
「セントポール ウィル シャイン トゥナイト
セントポール ウィル シャイン」
という歌詞である。
ところが明治生まれの職人の藤蔵には英語がわからない。
それで藤蔵は自分の耳で聞こえたとおりに
「シャンテーボル シャンシャン シャンテーボル
シャン」
と歌っていた。
なるほど、たしかにラジオから流れてくる立教大学の応
援歌はそう聞こえなくもない。 だから、幼い多一も藤蔵と一緒になって
「シャンテーボル シャンシャン シャンテーボル
シャン」
と歌っていたが
「シャンテーボル シャンシャン」
とは一体どういう意味なのだろうかと歌うたびに考えて
いた。
だが、その頃の多一にそれが分かるはずはなかった。
いよいよ試合開始である 。 表通りから人影は消えた。 近所の人たちもみんなラジオの野球放送に夢中なのだ。
藤蔵と利隆はラジオ放送を聴きながら喜んだり、がっ
かりしたりを繰り返していた。
だが、長島選手が東京六大学野球の新記録となる八号
本塁打を打ったとき、利隆がいつもより大きな声で
「よーし、よーし。」
と歓声をあげた。
藤蔵も大喜びだ。
とうとう皆が待ちに待った長島選手の八号本塁打が出
たのだ。
隣の八百屋さんの家からも歓声と拍手の音が聞こえて
きた。
八百屋さんの家も立教大学と長島選手の大ファンであっ
た。
大喜びをしているのは八百屋さんだけではなかった。
地元の人たちはみんな大喜びだ。
「学生最後の試合で新記録を作れるかどうか随分と心
配したけど、よくやったぜ。 それにしてもよ、長島っ
てぇのは物が違うぜ、まったく、てぇしたもんだ。」
と藤蔵は大いに感心していた。
利隆も
「長島は、ここ一番ってぇときにゃ本当に強ぇな。
プロ向きの選手だぜ。 すげぇもんだ。」
と感心していた。
ラジオはその後も興奮が頂点に達した神宮球場の模様を
克明に伝えてくる。
大歓声と共に立教大学の応援歌も何度となく流れてくる
が、その都度、藤蔵は仕事の手を休めることなく、じつ
に嬉しそうに
「シャンテーボル シャンシャン シャンテーボル
シャン」
と歌うのであった。
やがて試合は終わった。
見事、優勝したのは立教大学である。
立教大学はこの優勝でリーグ五連覇の大偉業も達成した
のである。
藤蔵と利隆は大いに喜んだ。
二人ともニコニコとしている。
もちろん、多一も喜んだ。
ゆきと美紀子と芙美子も喜んだ。
さあ、今夜は待ちに待った提灯行列だ。
前述したように元村製作所は表通りには面していない。
表通りに面している三軒の商店の裏に元村製作所はある。
表通りは西側にある駄菓子屋、八百屋、酒屋、タバコ屋、
米屋と東側にある魚屋、お茶屋、豆腐屋、床屋に挟まれ
ている。
小さな商店街だが買い物をする近所の奥さんたちでいつ
も賑わっていた。
この日は各商店が立教大学の優勝を祝して大安売りをし
ているので、いつも以上に賑わっていた。
まるでお祭りのような雰囲気が商店街に漂い大人も子供
もウキウキと浮かれていた。
やがて夜になった。
いよいよ提灯行列が出発する。
ろうそくの明かりが入った提灯を手にした大人と子供を
合わせた百人ぐらいが二列縦隊を組んで町の中を練り歩
き、立教大学野球部の合宿所へと向かうのである。
優勝祝賀会が開かれるのは住宅街の中にある古い合宿所
である。
商店街のおじさんやおばさんも皆、手に明かりの点いた
提灯を持っている。
藤蔵も明かりの点いた提灯を片手に持ち、もう片方の手
で多一の手を握って町の中を練り歩き、合宿所へと歩を
進めた。
やがて合宿所の近所まできたら
「ばんざーい、ばんざーい」
という大きな歓声が何度も聞こえてきた。
立教大学の優勝を喜ぶ大勢の地元の人たちが発する歓声
である。
このとき合宿所の窓はすべて開けられていて、選手たち
はそこから身を乗り出すようにして手を振り、地元の人
の歓声に笑顔で答えていた。
当然そのなかには立教三羽烏といわれていた長島・杉浦・
本屋敷選手もいたのであろうが、幼かった多一には誰が
長島選手で、誰が杉浦選手かわからなかった。
ラジオしかなかった時代であるから多一は長島選手たち
の顔を知らなかったのである。
合宿所内部の食堂では選手や関係者たちが何度も祝杯を
上げていて、そこだけは普段とはまったく違う時間が流
れていた。
多一は優勝すると、こんなにも多くの人が喜ぶものなの
かと思った。
合宿所の周囲には幾つもの仮設照明が焚かれ、その明る
さがより一層興奮の度合いを高めていた。
静かな住宅街にある合宿所は暗闇の中に、そこだけが
くっきりと明るく浮かび上がり、それが多一には幻想的
な風景に見えた。
しかし、残念なことにこのときの多一の記憶はそこで終
わっている。
そこから先のことを多一は覚えていないのである。
歩き疲れ、大勢の人の優勝祝賀の興奮にも疲れきってし
まった多一はどうやらそこで眠くなってしまったらしい。
きっと、藤蔵は多一を背中に負ぶって家まで帰ったので
あろう。
|
|