東長崎駅の南北には線路を挟んで踏み切りで結ばれた
二つの商店街がある。
この頃はまだ東長崎駅の近所にはスーパーマーケット
のような店もなかったので、二つの商店街はいつも賑
わっていた。
東長崎駅の駅舎は線路の南側にあり、それと並ぶよう
にして三十メートルほど西側に交番があった。
その交番を背にして商店街を南に数分行ったところを
目白通り(現在の旧目白通り)が東西に走っている。
その目白通りの五十メートルほど手前の右側に「笠間
稲荷」の小さなお社がある。
それは商店と商店に挟まれていて、うっかりするとそ
のまま見落として素通りしてしまいそうになるほど小
さなお社だ。 その「笠間稲荷」の縁日が東長崎駅の南口の広場を中
心として毎月三回、「五の日」に開かれる。
この頃、夕方になると母の美紀子はいつも幼稚園児の
多一を連れて駅前の二つの商店街まで買い物に行って
いた。
その日、二つの商店街はどちらも七夕の大売出し中で
あった。
夜には縁日も開かれるということで買い物客は普段よ
り多くとても混雑していた。
美紀子と多一は駅の北側の商店街を見て廻った後、踏
切を渡り今度は南側の商店街に向かった。
踏み切りを渡って右に折れ、線路伝いに行くと駅舎が
見えてくる。
駅の改札口の前の広場では縁日の準備が始まっていた。
縁日の会場では露店商のおじさんやおばさんたちが慣
れた手つきで、しかし忙しそうにその夜の商売の準備
をしている。
植木の露店商のおじさんやおばさんがトラックから売
り物の植木を降ろし、それを別のおじさんやおばさん
が手際よく売り場に並べている。
いつも、その植木屋さんとは通路を挟んだ反対側で商
売をしている名物のバナナのたたき売りのおじさんは、
もう商売の準備を終えたようでタバコを美味しそうに
吸いながら、まだ商売の準備をしている隣の雑貨屋の
おじさんと何かとても面白そうに談笑している。
七月なので暗くなるまでにはだいぶ時間があるのだが、
それでも既に電球に明かりを点けている露店も何軒か
あった。
薄暮の中、所々で明るく輝く裸電球。
多一は自分の日常生活にはない、その光景が好きで
あった。 縁日の露店商のおじさんやおばさんたちは皆、威勢
良く動き回り商売の準備は着々と進んでいる。
そのような光景を見ると幼い多一はウキウキワクワク
としてくる。
多一にとって縁日はお祭りなのだ。 そうか今日は縁日だったな、と思うと多一はなんだか
すごく得をしたような気分になった。
テレビが普及する前の昭和三十年頃は映画のほかには
これといった娯楽もなく、地元の人々にとって縁日は
大きな楽しみの一つであった。 当時の縁日は露店の数は勿論のこと見物客も現在より
は遥かに多く、会場全体が活気に溢れていたものである。
ところで、その夜は美紀子の代わりに利隆が多一と一
緒に縁日に行くことになった。
父の利隆はとても気前が良い。
多一が何かを買ってもらおうとねだると大抵の場合に
利隆はそれを買ってくれた。 「今夜はお父ちゃんと一緒か」
と多一は心の中でにんまりとした。 何故なら多一は今夜の縁日で、どうしても買ってもら
いたいものがあるからだ。
それはおもちゃの消防車である。
それも普通の消防車ではなくリモコンで動くカッコい
いはしご車なのだ。 そのはしごは三段になっていて、三段目の端を指でつ
まんでそのまま引っ張り出すと、すべてのはしごがグ
ゥーッと伸びるのだ。
そしてそのままの状態で、はしごはグルッと一回転す
るのである。
以前の縁日でその消防車が三段のはしごを全部引っ張
り出したカッコ良い姿で飾ってあったのだが、それを
見た多一はなんとしてもそれが欲しくなってしまった。 しかし、そのとき一緒に縁日に来ていたのは美紀子だっ
た。
多一は自分の要望に美紀子がそう簡単には応じないこ
とぐらい分かっていたのだが、それでも一応ねだって
みた。
「ねぇ、あれ買って。」
と消防車を指差す多一。
それをチラッと見た美紀子の口からは
「あんな高いのは、だめ。」
という返事が即座に返ってきた。
あぁ、やっぱりなぁ、と多一は思った。 多一はその後も何度か食い下がったのであるが、その
都度、美紀子の口からは
「だめ。」
という言葉のみが発せられた。 やっぱりお母ちゃんはケチンボだ、と多一は落ち込んだ。 でも今夜は利隆が一緒なのである。 うまくいけばあの消防車を買ってもらえるかもしれない、
という期待を胸に秘めて多一は利隆と一緒に家を出た。
利隆は家の前の商店の人たちと
「こんばんは、今日も暑かったねぇ。」
などと挨拶を交わし、多一の手を引いて縁日の会場へ
歩を進めた。
やはり縁日に行くのだろうか、団扇を手にした浴衣姿
のおじさんとおばさんがカラコロと下駄の音を立てて
多一たちの前を歩いて行く。
かと思えばリィーン、リィーンと涼やかな音のする
「南部風鈴」を手にしたおじさんが駅のほうからこち
らに向かって歩いてくる。
きっとそれは縁日で買ったものであろう。
多一はその「南部風鈴」を見て、うちの縁側には風鈴
がないからお父ちゃんに買ってもらおう、と思った。
暫くすると、二人の女の子を連れて縁日から帰る途中の、
利隆の知り合いのおじさんと偶然に出逢った。 二人の女の子は多一と同じくらいの年齢である。
「よー、利ちゃん、これからかい。」
と、おじさんがニコニコしながら威勢のいい職人口調で
聞いてくる。
「あぁ、こんばんは。 今夜は久しぶりにせがれのお供
だよ。 で、どうだった、混んでいたかい。」
と利隆も職人らしく威勢よく応える。
「あぁ、相も変わらずだ。 すげぇ混んでいたよ。」
「そうかぁ。 もうすぐ七夕だから混んでいても不思議
はねえなぁ。」
と言ったあとで利隆は
「多一、挨拶は。」
と多一を促した。
「こんにちは。」
多一は元気よく挨拶をした。
「違うぞ、夜なんだから、こんばんは、だろう。」
利隆が多一を注意したので多一はさっきよりは少し小さ
な声で
「こんばんは。」
と挨拶をやり直した。
すると、おじさんが
「はい、こんばんは。 元気よく、ちゃんと挨拶ができ
るんだね。 そう、いい子だね。 多一ちゃんは幾つなの?」
と聞いてきた。
「六つ」
と元気よく多一は答えた。
「六つかぁ。 そうかい。 で、今夜はお父ちゃんに何を買っ
てもらうの?」
と、おじさんは多一にとってはすこぶる都合の良いことを聞
いてくれた。
多一は迷うことなく
「うん、消防車を買ってもらうの。」
それを聞いたおじさんは
「へー、消防車かぁ。 おい、利ちゃん。 消防車だってよ。」
と言うのであった。
利隆は苦笑しながら
「消防車ぁ?」
と困ったような顔をしている。
おじさんは
「多一ちゃん、良かったな。 お父ちゃんは消防車でも何でも
買ってくれるってさ。」
と笑いながら勝手に決め付けてしまった。
でも、利隆はただ苦笑するだけであった。
多一はおじさんの言葉どおりになれば良いのにな、と思った。
よく見ると、そのおじさんの二人の女の子は、それぞれが花火
の入った紙の袋と金魚の入ったビニール袋を手にしている。
そして、おじさんは大きな箱を一つずつ両手に下げている。
その包装は包装紙を箱に一回りさせただけの簡単なもので、
箱の両端までは包装されていなかった。
箱の両端の文字を読んでみると中味が「おままごと」のセッ
トであることが分かる。
どうやら、おじさんは二人の娘には甘いようだ。 なんとしても消防車を買ってもらおうと思っている多一に
とっては、良いときに良い人たちと遭遇したものである。
その後、利隆とおじさんは職人らしく
「じゃ、ごめんなさい。」
と言い合って別れた。
多一の父親で気前の良い職人である利隆は見栄も張る男で
あった。
自分の知り合いは自分の子供に花火やおもちゃを買い与え
ていた。
そういう光景を目のあたりにすると利隆は往々にして、な
らば俺も、という具合になることがよくある。 だから、あのおじさんたちと逢ったことは多一にとっては
幸先の良いことであった。 そんなことがあったからであろうか、多一の頭の中には消
防車の姿がハッキリと浮かんできた。 それから暫くして、利隆と多一は縁日の会場となっている
駅の南側の広場に着いた。
「安いよ、安いよー。 さあ、どうだ二百五十円だ。 ウン、
いないの、こんなにたくさんのバナナがたったの二百五十円
だよ。 なんだよ誰もいないのかよ。 今夜のお客さんはし
けてるねぇ。」
と大声を張り上げているのはさっきのバナナのたたき売りの
おじさんだ。
いつもながら面白い。
お客さんたちも威勢の良いおじさんの商売口調を楽しんでいる。
さっき出会った利隆の知り合いのおじさんが言っていたように、
今夜の縁日は凄い人出である。 なかなか思うように歩けない。
お目当てのおもちゃ屋はいつも駅前広場の交番寄りに店を開い
ている。
ようやくたどり着いたものの、おもちゃ屋はいつものように黒
山の人だかりである。
その多くは親子連れである。 子供たちは並べられてあるたくさんのおもちゃを真剣な表情で
見つめているが、お父さんやお母さんは各人各様の表情で子供
の後ろに立ってそれを眺めている。 子供におもちゃをせがまれたら、そのときはそれを買ってあげ
る積りでニコニコしながら眺めているお父さんがいるかと思え
ば、中には一刻も早くおもちゃ屋からは立ち去りたい、といっ
た気持がそれとなく表情に出ているお母さんもいる。 概していうならば、どの親子も父親は子供の要求に甘く、反対
に母親は厳しいように見えた。 その光景を眺めて多一は、うちとおんなじだな、と思った。
多一にはとても心配なことがあった。
それは、あの消防車はもう別の人に買われてしまったのではない
かということである。
でも、こればかりは自分の目で確かめてみるよりほかに手はない。 でも、多一の目の前には大勢の客がいてそこに並べられてあるお
もちゃが多一にはよく見えなかった。 しかし、しばらくすると多一の目の前にいた子供たちが四人どい
たので、多一と利隆は並べられているおもちゃのすぐ前に出るこ
とができた。
あの消防車はまだこの店にあるだろうかと多一は瞬間的に店の中
を見回した。 するとお目当ての消防車は店の奥の一段高くなっているところに
飾られてあった。 あぁ良かった、と多一はホッとした。 ホッとしたところで次はこの消防車をなんとしてでも買ってもら
わなければならない。
気前がよくて見栄っ張りな利隆と二人きりで縁日に行くという、
そんなチャンスはそう滅多にあることではない。
そこで、さっそく
「ねぇお父ちゃん、あれ買ってよぅ。」
と多一は消防車を指差しながら利隆にそう言った。 消防車を見た利隆は困ったような、それでいてどこか嬉しそう
な表情でニヤリと笑い、こう言った。
「あれが多一の欲しい消防車か?」
「そう。 あの消防車。」
利隆は店の奥に飾られてある消防車の値段を確認した。
そして、一呼吸してから
「ウーン、 おもちゃを買ってあげてもぉ、 いつもぉ、 多
一はぁ、 じきにぃ、 飽きちゃうだろう。 だからぁ、 ど
うしようかなぁ。」
と多一をじらしにかかった。
しかし、その言葉は多一の痛いところを突いていた。
子供は皆そうだが、多一はおもちゃを買ってもらっても、すぐ
に飽きてしまうのだ。
だが、今夜はそんなことを言われたぐらいで引き下がるわけに
はいかない。
そこで利隆からそう言われた多一はこう応えた。
「これは飽きないからさぁ、買ってよぅ。」
とは言うものの、本人もじきに飽きてしまうことは分かっている。
だが、そんな素振りはおくびにも出してはならない。 利隆は
「でぇもなぁ、じきに飽きちゃいそうに見えるけどなぁ。 だか
らぁ、 やめようかなぁ。」
と更にじらしにかかる。
だが多一も
「絶対に飽きないからぁ、買ってよぅ。」
と粘った。
利隆は再びニヤリと笑った。
お目当ての消防車を買ってもらおうと必死になっている我が子の
表情が可愛くてたまらない、という笑いであった。
「ほんとだな。」
と気前の良い利隆は念を押した。
しかし、その一言は買ってやるよと言っているようなものである。
途端に多一は表情をゆるめて
「うん、ほんと。」
と返事をした。
「フーン、どうだかなぁ。」
と言いながら利隆はさっきから自分たちのやりとりをそれとなく
聞いていた店主に
「じゃ、おやっさん、そこにある消防車もらうよ。」
と言うのであった。 そのとき、多一の周りにいた何人かの子供が羨ましそうに多一
の顔を見た。
その消防車はその店にあるおもちゃの中でも値段の高いもので
あったからだ。
「へい、有難うございます。」
店主がニコニコしながら軽く頭を下げた。
さっそく、店主はボール紙でできている箱に消防車を収めてか
ら簡単な包装をした。
そして手でぶら下げることができるように紙紐で箱を縛ってか
ら多一に手渡した。 それを多一はニコニコしながら両手で受け取った。
利隆は財布からお金を出して
「はいよ。」
と店主に支払った。
「へい、有難うございます。」
店主はそう言って再び頭を下げ、両手で金を受け取り、その後
つり銭を利隆に返した。 欲しくて、欲しくて仕方のなかった消防車を利隆に買ってもらっ
て大満足な多一。 やっぱり、なにか欲しい物があるときは、お母ちゃんよりもお
父ちゃんに頼んだほうが良いな、と多一はあらためて思ったの
であった。
買ってもらったばかりの消防車が入った大きな箱を手にした多
一と利隆は、それから大勢の客で賑わう縁日をのんびりと見て
歩くのであった。
やがて「南部風鈴」を手にした利隆と消防車の入った大きな箱
を手にした多一は家に帰り着いたが、多一が手にしている大き
な箱を見た美紀子は利隆にこう聞いた。
「それ消防車じゃない? 買ったの?」
「あぁ。」
「それ高いのよ。」
「たまにゃ良いだろうよ。」
「おもちゃなんて幾つもあるじゃないの。 どうせ、じきに
飽きちゃうんだから。」
と美紀子は手厳しい。 でも、そんなことはおかまいなしに多一は包みを解いて中の消
防車を取り出し、リモコンのスイッチを入れてその動きを楽し
むのであった。
なんとも言えないその軽やかな動きに多一は魅了された。
すると
「おい、お父ちゃんにもやらせろ。」
と利隆もリモコンを手にして消防車を動かし
「へへへ、こいつぁおもしれぇな。」
と子供のように喜ぶのであった。
多一は今でも消防車を見ると今は亡き父、利隆を思い出すので
あった。
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