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作品名:鍛冶屋のせがれ 少年多一 作者:羅々見 朴情

第4回   4
多一は幼いときに病気や事故などで何度か死にかけたことがある。

 

それは多一が幼稚園に入る前に起きた。

今も当時と殆ど変わりはないが、多一の生家の玄関の前には井戸が
ある。 

藤蔵が母屋を建てるときに掘った井戸だ。

この井戸の水は近所でも評判になるほど美味しい水である。

そして、水道が断水したときなど近所の人が大勢貰い水に来たもの
である。




ある日利隆が坩子にヤスリ掛けをしていると珍しく五軒隣の吉川先
生がやってきた。

この吉川先生は銀座で歯科医を開業していて近所の人たちから大変
に尊敬されている。

「こんにちは、元村さん。」
という吉川先生の声で利隆は工場の出入口の方を振り返って見た。

「ああ、吉川先生じゃないですか。 どうも、どうも。」

利隆は吉川先生を歓迎した。

よく見ると吉川先生は大きくてきれいなバケツを一つずつ両手に下
げている。

それを見て利隆には吉川先生が貰い水に来たことが分かった。

「あれまぁ、断水ですか?」

「そうなんですよ。」

「そりゃ、お困りでしょう。 どうぞ、いるだけ汲んでってくださ
いな。」

「ありがとうございます。 どうもすみませんな。」

現在でも水道が断水すると近所の人たちが貰い水にくる。


そして、災害時には重要な水源となるということで、元村家の井戸は
現在では豊島区の防災井戸に指定されている。




よく知られていることだが、井戸水は夏に冷たく、冬には暖かく感じ
るものである。

その為、寒い冬の間も毎日炊事や洗濯をしなければならない主婦は大
いに助かる。 

藤蔵は母屋と工場のほかに表の通りに面して三軒の貸家を持っていた。

井戸は一列に並んだ三軒の貸家と母屋の間にある。
  
三軒の貸家の店子は子供相手の駄菓子屋と八百屋と酒屋で、それぞれ
の家のおばさんたちもこの井戸を使っていた。
 
多一の祖母や母と三軒の家のおばさんたちは、雨の日以外は毎朝その
井戸端で洗濯をしていた。

 
「ガッシャン、ガッシャン」という水を汲み出す井戸ポンプの音、「ゴ
シゴシ」と洗濯物を木製の洗濯板にこすり付ける音、「ジャブジャブ」
とたらいの中の洗濯物をすすぐ音、そして「ザバー」とたらいの中の水
を威勢よく流す音などが絶え間なく聞こえてくる。


洗濯をしながら、おばさんたちはありふれたことで話の花を咲かせてい
たが、それはとても賑やかで楽しいものであった。 

工場からは藤蔵と利隆が坩子を作る音も聞こえてくる。

元村製作所の周りはいつも陽気で活気に溢れていた。


 

そしてそのとき、多一は一人で丸い飴玉をしゃぶりながら玄関の敷居に
跨って大好きな汽車の絵本を見ていた。
 
それには「特急つばめ」や、当時としては斬新な形であった流線型の
「湘南電車」や、もうもうとした黒煙を吐く「蒸気機関車が引っ張る貨
物列車」などが描かれていた。

それを多一は飽きもせずに、何度も何度も初めのページから終わりの
ページまで大人しく見ていた。



だが、そんなときに異変は起きた。



どういう拍子かわからないが、丸い飴玉が多一の喉に引っ掛かってしまっ
たのだ。
 
多一は咄嗟に、これぐらいの飴玉ならば飲み込めると思い、グッと飲み込
もうとしたのだがどうも上手く飲み込めない。 

さらに、もう一度飲み込もうとしたが、やはり飲み込めない。

あれぇ、おかしいな、と思いながらも次第に焦り出す多一。 

そのうち息が苦しくなってきて
「ウゥ、ウゥ」と呻き声を出し始めた。



 
その呻き声は井戸端で洗濯をしているおばさんたちの耳にも届いた。
 
おばさんたちは、どうしたんだろうと多一の方を振り向いたが、既にその
とき、多一の顔色は茶色くなっていた。
 
おばさんたちは皆驚き、誰かが大きな声で 
「多一ちゃんが大変だよー。」
と叫んだ。
 
その叫び声であたりは一瞬にして緊張感に包まれた。

おばさんたちは洗濯をやめて多一のところに行き

「どうしたんだろう。」

「喉が苦しいみたいだよ。」

「飴玉が引っ掛かったんじゃない。」
と言い合っている。

だが、多一は何も言えずにただ
「ウゥ、ウゥ」と呻くだけである。 

そして、とうとう多一はそっくり返って白目を剥き始めてしまった。

「大変、このままじゃ多一ちゃんが死んじゃうよー。」と誰かが叫んだが、
どうすれば良いのか誰も分からなかった。 

あまりに突然のことなので、誰も救急車を呼ぶことにさえ気が付かなかった。
  



と、そのとき、ゆきが家の中から走って来て左腕で多一を抱きかかえ、残る
一方の右手の人差し指を多一の口の中に入れた。

「ウガガァ」と、全身でもがく多一。
 
しかし、それに臆することなく人指し指を多一の喉に差し込む祖母のゆき。

ゆきはまさに必死であった。 

ゆきには多一が意識を失いかけていることが診て取れたのだ。
 
「多一、しっかりするんだよ。」

と大声で叫びながら、ゆきは自分の人指し指で多一の喉に引っ掛かっている
丸い飴玉を取り出そうと懸命であった。
 
そして、そのときには藤蔵と利隆も工場の中から飛び出して来ていた。
 




ゆきが多一の口の中で人指し指を動かしていると、その指先に手応えがあった。
 
ゆきは咄嗟に丸い飴玉をかき出した。
 
「グエェ」という声と共に、喉に引っ掛かっていた丸い飴玉が多一の口からコ
ロンと飛び出した。
 
それを見たおばさんたちは口々に
「あぁ、出た、出たぁ。」
「よかったねぇ。」
と声をあげて喜んだ。 

ゆきはその後、多一の意識を戻そうと多一の頬を軽く数回叩いた。
 
頬を叩かれた多一は大声をあげて泣き出したのだが、その泣き声は皆に安心感を
与え、同時にそれまであたりを覆っていた緊張感をも消し払った。

九死に一生を得た多一は大声を出して泣きながら
「あぁ、苦しかった。 だけど、どうやら助かったようだ。」
とホッとしていた。 





「念のため医者に診せておけ。」
という藤蔵の指示でゆきは多一を掛かりつけの原医院に連れて行き詳しく診ても
らったが原先生の診断では、別段これといった問題はないということであった。

まずは良かった。
 
それもこれもすべては、ゆきのとっさの判断があればこそであった。
 
もしあのとき、ゆきが外出でもしていたら多一はおそらく死んでいたであろう。
 
まさにゆきは多一の命を救ったのだ。

その晩、藤蔵と利隆がその日の朝のゆきのとっさの行動を大いに褒めていたことを
多一は記憶している。 

二人の言葉を聞いてゆきは嬉しそうであったが多一もとても嬉しかった。 



多一は自分の命を救ってくれたおばあちゃんがますます好きになった。

 


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